二人の外人男性が新疆ウイグル自治区の理髪店に入った…

ペペ・エスコバル
2025年10月16日
Strategic Culture Foundation
旧「西域」の将来: エネルギーが豊富で、多文化で、多宗教で、地政学的に「適度に繁栄した」中国新シルクロードの中心地。
❗️Telegram
お問い合わせ:info@strategic-culture.su
南シルクロードの和田(ホータン)―タクラマカン砂漠を何度も往復し、砂丘を越え、砂漠の真ん中にある「失われた部族」ダリヤブイ村を訪ねた後、于?のオアシスにある驚くほど近代的なホテルに戻る。真夜中。ウイグル料理の饗宴を終えたばかりで、やるべきことはただ一つ。髭を剃ることだ。
ドキュメンタリー撮影のために新疆を旅する利点は、運転手も含め、一流ウイグル人の制作チームに支えられることだ。彼らは何でも知っている。「大丈夫だよ」と運転手の一人が言う。「通りの向こう側に理髪店があるから」。実際、真夜中にきらめく大通りだ。店はまだ開いている。ウイグルスタンでは、生活はいつもと変わらない。
友人のカール・ザと一緒に道を渡って理髪店に行き、二人の若い理髪師と彼らの相棒で、スマートフォンで熱心にビデオゲームで遊んでいるおしゃれな若者のおかげで(ウイグル)生活の素晴らしい一片に飛び込んだ。彼は地域のことを何でも知っているようだった(もしかしたら、賢者風に地域を仕切ってさえいるかもしれない)。
彼らは日々の決まった作業、仕事の流れ、生活費、スポーツ、オアシスでの暮らし、女の子との駆け引き、将来の展望など、あらゆることを語ってくれる。いや彼らは強制収容所の難民ではないし、強制労働の奴隷でもない。彼らと一時間半も一緒に過ごせば、ウイグル社会学の博士号が手に入る。しかも生放送で。しかも、深夜1時に10ドル以下で散髪(カール)と髭剃り(私)が受けられる、おまけ付きだ。
シルクロードの三要素、絹と翡翠と絨毯を正式に見終えた時、我々は次の旅に備えられた。ホータンの伝説のオアシスで、絹と絨毯が何世紀にもわたり、どのように生産されてきたのか目の当たりにした。

ホータンの絨毯織り。写真:ペペ・エスコバル
そしてホータンの翡翠は、歴史的にはホータンほど有名ではないが、現在最高級の黒翡翠と白翡翠を含め、採掘から精製された最終製品まで全てに携わる最先端翡翠企業を誇っている。

和田最高級の翡翠の研磨作業。写真:ぺぺ・エスコバール
実際、これはシルクロード四重奏と言えるだろう。というのも宝石をちりばめたナイフの生産地として世界的に知られるイェンギサルという小さなオアシスでは、ナイフも加えるべきだからだ。ウイグル族の男性全員、男らしさの証として、そして新疆産のみずみずしいメロンをいつでも切り分けるためナイフを携帯している。

英吉沙イェンギサル:世界のナイフの首都。写真:ぺぺ・エスコバール
北方シルクロード全域で、欧米諸国の情報機関に適切に報告するため、我々は労働奴隷や強制収容所を絶えず警戒していた。そして、庫車クチャから阿克蘇アクスへ向かう途中、起伏に富んだ綿花畑の中で、一人の女性を見つけた。

綿花畑の女性。写真:ぺぺ・エスコバール
我々は雑談を始め、すぐに彼女が綿花を摘んでいるのではなく、綿花農園で機械が回転し、機械農法で綿花を摘む道を切り開いているのだと分かった。彼女は日常生活について全て話してくれた。彼女は地元のウイグル人で、この同じ(私有)綿花畑で20年近く働き、家族と暮らし、それなりの給料をもらっていた。人生で一度も強制労働や強制収容所を見たことはない。
オアシスの町で本物のウイグル生活を楽しむ
南北シルク・ロードを横断し、吐魯番トルファンや庫車クチャから和田ホータンや喀什カシュガルに至るまで、歴史的に重要なオアシス都市を巡り、ウイグル人自身やウイグル人の間で伝えられる、ありのままのウイグル人の日常生活を我々は取材した。政治の話は一切持ち込まなかった。
私たちは彼らの広々とした家に招待された。大きな中庭があり、屋根にはブドウが育っていた。二つの結婚式に私たちは出席した。一つは四つ星ホテルでの比較的控えめな結婚式、もう一つはカシュガルの最高級レストランでのボリウッド映画風結婚式だった。

カシュガルで行われた、派手なウイグル族の結婚式を見下ろす。新郎新婦は「LOVE」という文字のすぐ背後に座っている。写真:ぺぺ・エスコバール
理髪師、パン屋、バザール商人、ビジネスマン、ビジネスウーマンと話をした。彼らの素晴らしい料理を心ゆくまで味わった。人生の意義は完璧な拉条子ラグマンの鉢と完璧な馕ナンに宿る。

ウイグル料理の聖杯:ラグマン、プロフ、カシュガル・バーベキュー。写真:ぺぺ・エスコバール
それ以上に、香港返還直後の1997年に初めてシルクロードを旅して以来、私が抱いてきた執着は、我が友、唐代初期の放浪僧、玄奘三蔵の足跡をもう一度たどり、それらオアシスの町々の魅惑的な古代シルクロードの歴史をたどり更に深く掘り下げたいというものだった。
したがって、この改訂版西遊記は、多くの点で、中国の一部となる前の仏教の「西域」への旅だった。
トルファンとクチャは、7世紀初頭の玄奘三蔵の西遊記における重要都市だった。玄奘三蔵はラクダ、馬、護衛を従え、天山山脈を越え、紺碧のイシククル湖(現在のキルギスタン)のほとりで西突厥のカガン(上質な緑色の絹の衣をまとい頭に3メートルの絹の帯を巻いていた)と出会い、サマルカンド(現在のウズベキスタン)まで歩き続けた。
これらは全て、中国文化、仏教、ソグド人(シルクロード貿易の重要な仲介者で、唐時代に中国で最も影響力ある移民共同体だったペルシャ人)や、ペルシャそのもののつながりが絡み合った、シルクロードの魅力を表す小さな翡翠のようなものだ。
サマルカンドで玄奘は初めて極めて豊かなペルシャ文化に触れたのだ。それは同じように洗練された中国文化とは全く異なるものだった。そして5世紀に独立した高昌王国や、その後唐王朝にとって最も重要な貿易相手国となったのはローマではなくサマルカンドだった。

トルファン郊外にある高昌王国の遺跡。
そこで古代シルクロードの興味深い地政学的、地経学的側面についてお話しする。
一流学者や習近平周辺の経済計画担当者を除けば、シルクロード経済、特に7世紀から10世紀にかけての唐王朝における中心人物が…唐王朝自身であったことを知る人はほとんどいない。何より重要なのは、当時の「西域」に西突厥との深刻な軍事衝突を資金面で支えることだった。
そこで、唐の軍隊は北方シルクロードのオアシス沿いに配備されたが、興味深いひねりがあった。そのほとんどは中国人ではなく、甘粛回廊や「西域」の向こう側から来た現地の人々だった。
征服と敗北の繰り返しだった。例えば、唐朝は670年から692年にかけて、チベット人に極めて重要なオアシス、クチャを奪われた。その結果、軍事費が増加した。740年には、唐朝は西域の4つの軍事司令部、哈密ハミ、トルファン、北亭、クチャ(いずれもシルクロードの主要オアシス)に毎年90万反もの絹を送っていた。これはまさに地域経済を支えるものだった。
いくつかの年代を振り返ると、地政学的シナリオがいかに絶え間なく変化してきたか分かる。まずは800年代初頭、ウイグル人がトルファンを実際に支配し始めた頃から始まる。当時、ウイグル人のカガンはソグディアナ(サマルカンド周辺の地域)出身の教師と出会い、その教師からマニ教を紹介された。マニ教は3世紀にマニによりペルシャで創始された魅力的な宗教で、光と闇の勢力が宇宙を支配するため永遠に争っているとされている。
その後、ウイグル族のカガンは運命的決断を下した。マニ教を採用し、それを三言語(ソグド語、ウイグル語、中国語)の石板に記録したのだ。
仏教から自治区への長い行進
チベット帝国も700年代後半には非常に強大な勢力を誇っていた。780年代には甘粛に侵攻し、792年にはトルファンを征服した。しかし、803年にはウイグル人がトルファンを奪還した。しかし、モンゴルに残っていたウイグル人は840年にキルギス人に敗れ、一部のウイグル人はトルファンにたどり着き、新たな国家、ウイグル・カガン国を建国した。その首都は高昌城で、私はついにそこを訪れることができた。

高昌城跡。写真:ぺぺ・エスコバール
こうしてトルファンはようやくウイグル人となり、交易には中国語ではなくウイグル語が使われるようになった。この状態は何世紀にもわたって続いた。経済は主に物々交換が中心となり、通貨は絹に代わり綿花が使われるようになった。宗教的には、唐時代、トルファンの人々は仏教徒、道教徒、ゾロアスター教徒、更にはキリスト教徒やマニ教まで混在していた。20世紀初頭、ドイツ人考古学者たちは高昌の東城壁の外で、メソポタミアに起源を持つ東方キリスト教の証拠となる小さな教会を発見した。教会はシリア語を礼拝言語としていた。
そのため、マニ教は一時期、ウイグル・カガン国の公式国教になった。彼らの芸術は実に卓越していた。しかし、マニ教の洞窟壁画は、息を呑むほど美しいベゼクリク洞窟に一つだけ現存している。私は500元支払い、非常に知識豊富な若いウイグル人研究者の案内でその壁画を鑑賞する特権を得た。
マニ教美術の壁画が消失した理由は、1000年頃、ウイグル・カガン国がマニ教を放棄し、仏教に完全に帰依すると決定したためだ。柏孜克里克ベゼクリクにある悪名高い第38窟(私が訪れた場所。写真撮影禁止)でさえ、その証拠を示している。この窟は二層構造になっており、仏教層の下にマニ教層が築かれていた。
政治的には、この駆け引きは衰えることなく続いた。これがシルクロードの真髄だ。1209年、モンゴル軍はトルファンでウイグル・カガン国を破ったが、ウイグル人は介入しなかった。1275年、ウイグル人は伝説のクビライ・ハンと同盟を結んだ。しかしその後、農民反乱軍がモンゴルの平和を覆し、14世紀に明王朝を樹立した。しかし、トルファンは依然中国本土の国境外に留まった。
決定的出来事は1383年だ。イスラム教徒のシディル・ホージャがトルファンを征服し、住民全員にイスラム教改宗を強制した。これは今日まで続いている。少なくとも表面的には、新疆ウイグル自治区のオアシスの町でイスラム教徒かどうか尋ねると、多くの人が丁寧に答えを拒む。仏教の過去は集合的無意識の中に、目に見える形で、高昌の壮大な遺跡の中に残っている。
新疆ウイグル自治区は、清朝軍が1756年に支配権を握るまで、中国から独立を保っていた重要な事実がある。先月の旅の途中、私たちはちょうど新疆ウイグル自治区成立70周年の真っ只中にいた。新疆ウイグル自治区全体が「70」の数字が描かれた赤い旗や横断幕で彩られていた。

乌鲁木齐ウルムチ市:新疆ウイグル自治区建国70周年を祝う。写真:ぺぺ・エスコバール
これがかつての「西域」の未来だ。エネルギー資源が豊富で、多文化、多宗教、地政学的に「適度に繁栄した」中国の新シルクロードの中心地になるのだ。
記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2025/10/16/two-foreign-guys-walk-into-a-barber-shop-in-xinjiang/
----------
« ベネズエラにおけるトランプ政権の策略:ワシントンの古い戦略の復活 | トップページ | 正教迫害を強化するキーウ政権 »
「中央アジア」カテゴリの記事
- 二人の外人男性が新疆ウイグル自治区の理髪店に入った…(2025.10.30)
- ロシア - 挑発に応じるか、それともチャーリー・ブラウンのようにルーシーのサッカー・ボールで騙されるのか?(2024.12.21)
- アメリカは警告義務を果たしたと主張しているが、本当は実行していなかった(2024.04.07)
「中国」カテゴリの記事
- トランプ大統領と習近平国家主席と韓国でのG2サミット(2025.11.04)
- 中国は希土類を巡って争う用意ができている(2025.10.29)
「Pepe Escobar」カテゴリの記事
- トランプ大統領と習近平国家主席と韓国でのG2サミット(2025.11.04)
- 二人の外人男性が新疆ウイグル自治区の理髪店に入った…(2025.10.30)
- シルクロードの核心、芸術と貿易と国家権力(2025.10.21)
« ベネズエラにおけるトランプ政権の策略:ワシントンの古い戦略の復活 | トップページ | 正教迫害を強化するキーウ政権 »



コメント