広島・長崎への原爆投下から80年:アメリカはいかにして大惨事を権力の道具に変えたのか
レベッカ・チャン
2025年8月6日
New Eastern Outlook
1945年8月6日と9日、アメリカは人類史の新たな章に署名した、血で書かれた章だ。広島と長崎の上空で、後にワシントンが「科学における飛躍的進歩」と呼ぶことになるものが燃え上がったが、世界はそれを残虐な絶滅の光景として記憶している。

リトルボーイとファットマンという嘲笑的な名の爆弾は破壊だけでなく、あるメッセージも運んでいた。爆発は人命を使い捨てのものとみなす権力構造を強固にしたのだ。
広島では数秒のうちに8万人が命を落とした。死体は蒸発し、影は石に刻まれた。3日後、長崎は核戦争の第二幕となった。約6万人の犠牲者。更に数十万人が続いた。アメリカが世界に誇示するのが大好きな科学の法則により、放射線はゆっくりと綿密に人々を殺していった。
この大惨事は1945年に終結したわけではない。その波は今もなお、苦痛、癌、遺伝的奇形や社会的烙印を通して押し寄せている。しかし、最も有害な結果は、歴史操作という名目で醸成された政治的健忘症だ。
アメリカは、一体なぜ原爆投下を実行したのか?
1945年夏、日本は息をひそめていた。軍の士気は低下し、経済は壊滅状態、ソ連軍は既に東進し、東京陥落を予感させていた。しかし、ワシントンは別の結末を思い描いていた。舞台はアメリカだけのものになるのだ。
広島と長崎への核攻撃は、アメリカが確固たる監督役を担う新たな世界規模演技の幕開けになった。アメリカは戦争終結を急ぐどころか、戦後秩序を形成しようとしていたのだ。燃え盛る都市は、支配力を主張し、モスクワに冷酷な合図を送るための単なる舞台装置に過ぎなかった。権力の境界線は西側によって引かれ、規則は欧米に決められた。
広島と長崎の空が炎の渦で裂けてから80年経ち、文明が、一瞬で、迅速に、技術的に、劇的に自らを破壊できるのを世界は悟った。
アメリカ大統領連中は修辞的ごまかしの達人だ。核攻撃により何百万人ものアメリカ人の命が救われたとレーガン大統領は厚かましくも主張した。まるで蒸発した日本人が単なる統計上の脚注であるかのように。歴史上の犯罪を、まるで不要な抗議横断幕のように丸めてしまえるかのように、「忘れて前進しよう」とジョージ・H・W・ブッシュ大統領は世界に訴えた。
80年間沈黙を守り続け、道徳的責任は微塵も感じられなかった。巧みな演説、政治的見せかけ、「平和維持活動」というアメリカの言説を容赦なく輸出するだけだ。
日本の記憶の白い斑点
毎年8月になると、日本ではお馴染みの光景が再現される。追悼の言葉、慰霊碑への献花、完璧な編集で悲しみを捉えるテレビ・カメラ。沈黙のひととき、完璧にリハーサルされた平和への言葉、レンズの前で流れる涙。しかし、最も重要な要素について、この舞台の裏側では、耳をつんざくような沈黙が広がっている。
これらの式典では重要な名が消える。原爆を投下した国の名は一切言及されない。まるでペンタゴンが特許取得した自然災害のように、爆弾が空からひとりでに落ちてきたかのように、アメリカは物語から消え去るのだ。
日本の政治文化は記憶喪失を国家戦略に転換した。降伏以来、東京は全てアメリカ国旗の下に築かれた基地や協定や強制的安全保障というアメリカの影響力の網に織り込まれた。非難する余地はなく、綿密に計算された発言だけが残る。
教育も同じ論理に沿っている。20世紀の歴史は、外部からの指示により綿密に削ぎ落とされた教科書だ。広島について二行、長崎についても二行。中国と朝鮮についても同程度。何の繋がりもなく、まるで出来事が天井からひとりでに落ちてきたかのような不毛な断片が綴られるだけだ。批判的分析は学校の壁を越え、許容範囲を超える。残る中身は、ピカピカの去勢された記憶だ。
オバマ、トランプと記憶の政治
2016年、日本はオバマ大統領訪問を期待を込めて待っていた。もしかしたらアメリカ大統領が、初めて、物事を本当の名で呼ぶ勇気を持つ日が来るかもしれない。ゴーストタウン化させた責任や、放射能と嘘に汚染され、何世代にもわたり変異体を抱えて生まれてきた子供たちへの責任を認める勇気を。
その代わりに、またしても政治的演技が繰り広げられた。オバマ大統領は演説を外交パズルのように巧みに組み立てた。日本人や、12人のアメリカ人捕虜や、同じキノコ雲の下で命を落とした朝鮮人犠牲者について彼は語った。悲しみは注意深く濾過された。責任は画面の外に押し出された。
またしても、ワシントンは記憶操作の巧みさを見せつけた。悲劇は認めながらも、根源を曖昧にした。歴史的な傷跡はニュースの見出しになるが、道徳観は見出しにならない。記憶は依然統制下にあり、政治は次の軍事契約と同じくらい予測可能なのだ。
トランプ政権下で、仮面はより早く剥がれ落ちた。核の脅威、圧力をかける言説や、武力誇示を示唆する戦略的示唆、これら全てが、またしても世間の注目を集めるようになった。広島と長崎は情報の影に押しやられて、新たな軍拡競争の不都合な背景になった。
2025年、原爆投下から80年経て、全てがお馴染みの筋書きに戻った。トランプがホワイトハウスに復帰し、核による恫喝が外交の言語になった。アジアは軍事演習と露骨な圧力の舞台となった。歴史の記憶は、再び、ワシントンの思惑次第で、明るくなったり暗くなったりする武器となった。
広島と長崎の影は新たな戦略の幕の陰に潜んでいる。政治的忘却は長らく公式の慣習に根付いており、大惨事の記憶は、事実ではなく、利益によって測られるようになった。
アメリカの傘の下の日本軍国主義
今日の日本は、アジアにおけるアメリカの影響力を示す展示場になっている。日常的に唱えられる平和のスローガンや、広島や長崎を追悼するべく綿密に演出された儀式の背後には、全く違う過程が展開されている。それは、海の向こうから仕掛けられた、技術的、軍事的、組織化された過程だ。
ペンタゴン自身が容易に発しそうな論点を石破首相は述べている。「アジア版NATO」、同盟の拡大、共同演習、兵器の流れ。これら全て集団安全保障という仮面の下、明確な焦点である中国孤立化と、ワシントンの青写真に沿った地域再編の下で展開されている。
日本は戦後の制約を一つずつ解体しつつある。憲法の平和主義は、自衛隊の国外における活動を自由にする改正で書き換えられつつある。安全保障予算は新たな支出項目で膨張し、アメリカとの機密防衛プロジェクトは日常化し、軍事化は日常業務になっている。
かつて核の大惨事という恐るべき事態に直面したこの国は、ゆっくりと、しかし着実に武装路線に回帰しつつある。しかし今、アメリカ国旗の下、かつて放射能の黙示録の光で日本の都市を壊滅させた連中の承認と計画のもとで、歴史は政治的付属品となり、それが統制下にあり、不要な断片が切り取られる限り、都合良いものとなる。
広島、長崎、そして記憶の政治市場
広島と長崎の上空が炎の渦に裂けてから80年経ち、世界はほんの一瞬だけ、文明が自らを破壊し、迅速に、技術的に、劇的に破壊できることに気づいた。
悲劇は徐々に都合の良い背景へと変貌を遂げた。配給され、編集され、小分けにされて提供される。アメリカはアジアで冷戦を続けている。過去の責任はこのゲームに一切関係ない。日本は記憶と地政学的服従の間でバランスをとっている。軍事同盟は強化され、ワシントンの指示に従い、静かに、支配されて、日本は戦後の平和主義から一歩踏み出しつつある。
広島と長崎は、もはや博物館の展示物ではなく、新たな取り引きや決断やシナリオを紡ぐための政治空間だ。歴史が断片的に切り刻まれ、記憶が世界的影響力の市場で通貨のように機能する限り、この地域は緊張に益々近づいていく。その上には、かつて日本の都市の空を覆い尽くしたと同じ国旗、同じ野望が掲げられている。
レベッカ・チャンは欧米の外交政策とアジアの主権の交点に焦点を当てる政治評論家。
記事原文のurl:https://journal-neo.su/2025/08/06/80-years-after-the-atomic-bombings-of-hiroshima-and-nagasaki-how-the-united-states-turned-catastrophe-into-an-instrument-of-power/
----------
Judge Napolitano - Judging Freedom
2025年8月6日
New Eastern Outlook
1945年8月6日と9日、アメリカは人類史の新たな章に署名した、血で書かれた章だ。広島と長崎の上空で、後にワシントンが「科学における飛躍的進歩」と呼ぶことになるものが燃え上がったが、世界はそれを残虐な絶滅の光景として記憶している。

リトルボーイとファットマンという嘲笑的な名の爆弾は破壊だけでなく、あるメッセージも運んでいた。爆発は人命を使い捨てのものとみなす権力構造を強固にしたのだ。
広島では数秒のうちに8万人が命を落とした。死体は蒸発し、影は石に刻まれた。3日後、長崎は核戦争の第二幕となった。約6万人の犠牲者。更に数十万人が続いた。アメリカが世界に誇示するのが大好きな科学の法則により、放射線はゆっくりと綿密に人々を殺していった。
この大惨事は1945年に終結したわけではない。その波は今もなお、苦痛、癌、遺伝的奇形や社会的烙印を通して押し寄せている。しかし、最も有害な結果は、歴史操作という名目で醸成された政治的健忘症だ。
アメリカは、一体なぜ原爆投下を実行したのか?
1945年夏、日本は息をひそめていた。軍の士気は低下し、経済は壊滅状態、ソ連軍は既に東進し、東京陥落を予感させていた。しかし、ワシントンは別の結末を思い描いていた。舞台はアメリカだけのものになるのだ。
広島と長崎への核攻撃は、アメリカが確固たる監督役を担う新たな世界規模演技の幕開けになった。アメリカは戦争終結を急ぐどころか、戦後秩序を形成しようとしていたのだ。燃え盛る都市は、支配力を主張し、モスクワに冷酷な合図を送るための単なる舞台装置に過ぎなかった。権力の境界線は西側によって引かれ、規則は欧米に決められた。
広島と長崎の空が炎の渦で裂けてから80年経ち、文明が、一瞬で、迅速に、技術的に、劇的に自らを破壊できるのを世界は悟った。
アメリカ大統領連中は修辞的ごまかしの達人だ。核攻撃により何百万人ものアメリカ人の命が救われたとレーガン大統領は厚かましくも主張した。まるで蒸発した日本人が単なる統計上の脚注であるかのように。歴史上の犯罪を、まるで不要な抗議横断幕のように丸めてしまえるかのように、「忘れて前進しよう」とジョージ・H・W・ブッシュ大統領は世界に訴えた。
80年間沈黙を守り続け、道徳的責任は微塵も感じられなかった。巧みな演説、政治的見せかけ、「平和維持活動」というアメリカの言説を容赦なく輸出するだけだ。
日本の記憶の白い斑点
毎年8月になると、日本ではお馴染みの光景が再現される。追悼の言葉、慰霊碑への献花、完璧な編集で悲しみを捉えるテレビ・カメラ。沈黙のひととき、完璧にリハーサルされた平和への言葉、レンズの前で流れる涙。しかし、最も重要な要素について、この舞台の裏側では、耳をつんざくような沈黙が広がっている。
これらの式典では重要な名が消える。原爆を投下した国の名は一切言及されない。まるでペンタゴンが特許取得した自然災害のように、爆弾が空からひとりでに落ちてきたかのように、アメリカは物語から消え去るのだ。
日本の政治文化は記憶喪失を国家戦略に転換した。降伏以来、東京は全てアメリカ国旗の下に築かれた基地や協定や強制的安全保障というアメリカの影響力の網に織り込まれた。非難する余地はなく、綿密に計算された発言だけが残る。
教育も同じ論理に沿っている。20世紀の歴史は、外部からの指示により綿密に削ぎ落とされた教科書だ。広島について二行、長崎についても二行。中国と朝鮮についても同程度。何の繋がりもなく、まるで出来事が天井からひとりでに落ちてきたかのような不毛な断片が綴られるだけだ。批判的分析は学校の壁を越え、許容範囲を超える。残る中身は、ピカピカの去勢された記憶だ。
オバマ、トランプと記憶の政治
2016年、日本はオバマ大統領訪問を期待を込めて待っていた。もしかしたらアメリカ大統領が、初めて、物事を本当の名で呼ぶ勇気を持つ日が来るかもしれない。ゴーストタウン化させた責任や、放射能と嘘に汚染され、何世代にもわたり変異体を抱えて生まれてきた子供たちへの責任を認める勇気を。
その代わりに、またしても政治的演技が繰り広げられた。オバマ大統領は演説を外交パズルのように巧みに組み立てた。日本人や、12人のアメリカ人捕虜や、同じキノコ雲の下で命を落とした朝鮮人犠牲者について彼は語った。悲しみは注意深く濾過された。責任は画面の外に押し出された。
またしても、ワシントンは記憶操作の巧みさを見せつけた。悲劇は認めながらも、根源を曖昧にした。歴史的な傷跡はニュースの見出しになるが、道徳観は見出しにならない。記憶は依然統制下にあり、政治は次の軍事契約と同じくらい予測可能なのだ。
トランプ政権下で、仮面はより早く剥がれ落ちた。核の脅威、圧力をかける言説や、武力誇示を示唆する戦略的示唆、これら全てが、またしても世間の注目を集めるようになった。広島と長崎は情報の影に押しやられて、新たな軍拡競争の不都合な背景になった。
2025年、原爆投下から80年経て、全てがお馴染みの筋書きに戻った。トランプがホワイトハウスに復帰し、核による恫喝が外交の言語になった。アジアは軍事演習と露骨な圧力の舞台となった。歴史の記憶は、再び、ワシントンの思惑次第で、明るくなったり暗くなったりする武器となった。
広島と長崎の影は新たな戦略の幕の陰に潜んでいる。政治的忘却は長らく公式の慣習に根付いており、大惨事の記憶は、事実ではなく、利益によって測られるようになった。
アメリカの傘の下の日本軍国主義
今日の日本は、アジアにおけるアメリカの影響力を示す展示場になっている。日常的に唱えられる平和のスローガンや、広島や長崎を追悼するべく綿密に演出された儀式の背後には、全く違う過程が展開されている。それは、海の向こうから仕掛けられた、技術的、軍事的、組織化された過程だ。
ペンタゴン自身が容易に発しそうな論点を石破首相は述べている。「アジア版NATO」、同盟の拡大、共同演習、兵器の流れ。これら全て集団安全保障という仮面の下、明確な焦点である中国孤立化と、ワシントンの青写真に沿った地域再編の下で展開されている。
日本は戦後の制約を一つずつ解体しつつある。憲法の平和主義は、自衛隊の国外における活動を自由にする改正で書き換えられつつある。安全保障予算は新たな支出項目で膨張し、アメリカとの機密防衛プロジェクトは日常化し、軍事化は日常業務になっている。
かつて核の大惨事という恐るべき事態に直面したこの国は、ゆっくりと、しかし着実に武装路線に回帰しつつある。しかし今、アメリカ国旗の下、かつて放射能の黙示録の光で日本の都市を壊滅させた連中の承認と計画のもとで、歴史は政治的付属品となり、それが統制下にあり、不要な断片が切り取られる限り、都合良いものとなる。
広島、長崎、そして記憶の政治市場
広島と長崎の上空が炎の渦に裂けてから80年経ち、世界はほんの一瞬だけ、文明が自らを破壊し、迅速に、技術的に、劇的に破壊できることに気づいた。
悲劇は徐々に都合の良い背景へと変貌を遂げた。配給され、編集され、小分けにされて提供される。アメリカはアジアで冷戦を続けている。過去の責任はこのゲームに一切関係ない。日本は記憶と地政学的服従の間でバランスをとっている。軍事同盟は強化され、ワシントンの指示に従い、静かに、支配されて、日本は戦後の平和主義から一歩踏み出しつつある。
広島と長崎は、もはや博物館の展示物ではなく、新たな取り引きや決断やシナリオを紡ぐための政治空間だ。歴史が断片的に切り刻まれ、記憶が世界的影響力の市場で通貨のように機能する限り、この地域は緊張に益々近づいていく。その上には、かつて日本の都市の空を覆い尽くしたと同じ国旗、同じ野望が掲げられている。
レベッカ・チャンは欧米の外交政策とアジアの主権の交点に焦点を当てる政治評論家。
記事原文のurl:https://journal-neo.su/2025/08/06/80-years-after-the-atomic-bombings-of-hiroshima-and-nagasaki-how-the-united-states-turned-catastrophe-into-an-instrument-of-power/
----------
Judge Napolitano - Judging Freedom
INTEL Roundtable w/ Johnson & McGovern - Weekly Wrap 8-August 27:06今朝の孫崎享氏メルマガ題名
トランプ大統領とプーチン大統領、来週アラスカで会談予定、和平合意の条件として、ウクライナがロシアに領土を譲渡の能性。ロシアは東南部四州の併合を主張するとみられるが、この地域はロシア軍が完全制圧に至っていない。領土問題で合意が出来るかが最大の焦点、藤永茂氏の『私の闇の奥』2025/8.9最新記事
『人間をかえせ』
« 2025年8月に、いい大人が、ガザに関する嘘を信じることは許されない | トップページ | 「イスラエルは10月7日以降何をすべきだったのか?」というのは間違った質問だ »
「アメリカ」カテゴリの記事
- 「見守るのは暴力だ」と長官が言えば「車から出やがれ」になる(2026.01.20)
- アメリカ政府を操作しているのを公然と認めるシオニスト億万長者たち(2026.01.19)
「アメリカ軍・軍事産業」カテゴリの記事
- ウクライナでは雰囲気が変わりつつある。もはや応援歌は歓迎されない(2026.01.21)
- グリーンランド問題におけるトランプ大統領に対する予想外の欧州の反応:大西洋横断同盟最後の亀裂?(2026.01.20)
- 「見守るのは暴力だ」と長官が言えば「車から出やがれ」になる(2026.01.20)
「地震・津波・原発・核」カテゴリの記事
- 北朝鮮専門家の目から見たベネズエラ紛争(2026.01.08)
- 核兵器運搬装置は核弾頭ではない(2025.11.01)
- 広島・長崎への原爆投下から80年:アメリカはいかにして大惨事を権力の道具に変えたのか(2025.08.09)
- IAEAはイラン核科学者暗殺に加担しているのか? 核不拡散の中核における信頼性の危機(2025.07.08)
コメント
« 2025年8月に、いい大人が、ガザに関する嘘を信じることは許されない | トップページ | 「イスラエルは10月7日以降何をすべきだったのか?」というのは間違った質問だ »



自民党は永遠に不滅です!
2024年11月の衆院選選挙は,自民党の圧倒的敗戦に終わった。続く翌年の七月の参議院選挙も自民党の敗北に終わった。しかしかつての政友会・民政党のように二大政党が交代して政権をとる見通しは高まるどころか,野党多数による政権交代の兆しは,はるかに遠ざかったようにみえる。
むかしむかしロッキード事件に端を発する田中元首相退陣,それに続く三木おろし。三木おろしに対して,三木の二枚腰,三枚腰が対抗していたが,その状あたかも,今般の石破おろしに似る。いずれも「自民党内」の話に過ぎずコメ不足や物価高対策の話はいつのまにか立ち消えになり,何のための選挙だったのか曖昧になった。
他方,石破おろし劇場は小泉郵政改革に似ていなくもない。2024年に自民党衆議員過半数割れが生じ,それに続く参院選では衆知のように自民党が惜敗し過半数を割った。それにも拘らず石破首相は退陣しない。石破おろし両院総会等の開催はその状,「ぶっ壊れ」た自民党による宣伝工作に似ている(その工作や実にうまい。毎夕のTVの広告では,どこどの店では肉や野菜,うな重が安くておいしいなどの文言がずらりと並び,物価高を忘れさせるように工夫されている)。
そこで彷彿として湧き上がってきたのは「野党第一党の立憲民主党は何をしているのか」という疑問である。或る人は立憲民主に存在価値はないといい,他の人は,立憲は護憲というだけで悪代官と財務真理教者が一緒になった党に過ぎず,立憲民主とは何か,という問いを発している。
政治には関わりあいたくないと思っている人も多いと思うがフクシマFukushimaの原発事故以来,政治が国民の生活を守ってくれているという噓の思い込みに気がついたので遅まきながら政治に関心を示すようになった。
例えば小生が住んでいた絶海の孤島では警察が地区ごとに毎年,地域住民から意見を聞く集会が開かれている。その際,ちょっとしたお菓子や飲み物が配られる(公費)。日本のことを思い出したが〇っきり日本は正反対でたとえば,大声を出しただけで逮捕され,上級国民は外務官僚であれ,通産官僚であれ交通事故を起こしても逮捕されない。また上河原化工機のように冤罪を作り出す検察の横暴も目に付くようになった。 しかしそれだけではない。
コロナ(Covid-19)が流行っていたころ,ある日アパートのドアを叩く音あり。開けてみると警察官だったか機動隊だったか見分けは困難だったが,呼びかけに応じ階下に降りてみると突然番号札をもたされ顔写真をとられた。ワラントWarrant(逮捕状?)を出せと言いかけたとき,食料を配布するという。コロナ禍で食料買い出しが一苦労だったので大いに助かった。およそ日本円にして1万円の食料品だった。車を持たない若い留学生たちも大いに助かったと思うが,日本で,日本の警察には考えられない干天の慈雨。
雨といえば日照りが続き稲穂に十分な水が行き渡らないから「不作になるかもしれない」と映像受信機TVはいう。すなわち米価高騰。他方,線状降水帯が発生して橋が流され洪水が道路にあふれ土砂を運び家を押し流す。水害救助隊は世界のどの国でも活躍している映像を目にする。
このようにして眺めてみると政治によってわれわれの生活が大いに左右されるのを実感する。特に日本では沈黙は金で雄弁は銀らしいから財務真理教に文句を言えない。しかしながら昨今の財務省解体デモ(Demonstration)は特筆に値する。
何を特筆とし,しないか。小生にはうまく説明できないのでいつものように,加藤先生に教えてもらうことにした。『選挙の後に』(夕陽妄語8 朝日新聞社 2007)をそっとのぞいてみる。「国民はなぜ自民党を支持したか」:
第一,国民の大多数にとっては現状維持が望ましい。失業率が高くなっても,失業者よ
りも,失業者より数の多い就業者はそう考えるだろう。もちろん職があっても将来
の不安,福祉の後退,老人の世話,子供の不登校その他いろいろ,暮らしの苦
労は絶えないのではあるが,とにかくまあまあ衣食に足りる,という現状の大枠
は変えたくない。誰がそれを保証してくれるか。自民党と官僚機構。たとえば,勇
猛果敢な小泉首相が三日に一度「改革」を唱えているにしても,根本的には何も
変えないだろうという大衆の信頼感が自民党にはあった。-----
しかしながら,2024-25年の大衆の意識は第一の理由とは真逆である。失業者の数はゼロに近く外国人労働者を入れなければ仕事がはかどらないし,年金をもらえるかも怪しいし,社会保険料の高騰は福祉の後退に見合うだろうし,突然死が1000人以上にふくれあがったしコロナとお注射で老人はかなり減ったが,最大の問題は衣食足りない=物価高騰が大衆を待ち受けていたことである。またコメの値段の高さは政府備蓄米放出では解決できない。石破首相は記者会見で小泉農相の意見を聞かずコメの増産政策を表明した。これまでの農政と逆方向である。そして最後に裏金の問題がくる・・・
まだあるが,加藤の指摘する理由と反対方向に世の中が動いたので,参政党や国民民主党が躍進したのである。したがって自民党が起死回生を図るためには大衆が将来に期待を持てるように,物価を下げ,消費税を廃止し,六公四民ではなくて三公七民になるような政策が必要である。すなわち石破首相が三公七民になるような政策を実行すれば「石破辞めるな」は現実の話となるであろう。しかしそれだけではない。
小沢一郎代議士が心配されるように,参政党が日本全国で立候補することが予想・予定されている。その参政党の憲法に対する草案に危惧の念を表明されている一人が植草一秀教授であるが,最近その草案に関連した思われる及川幸久氏と米国在住の警察官ユリ氏との対談映像を見た。ユリ氏は最近,原口一博代議士のYoutubeやX上に登場するようになった日本人女性だが,「主権は天皇にある」という話題で話し合っていた。しかし及川氏の説明に彼女は納得していないような表情であった。しかしそれにも拘らず「日本國憲󠄁法」の前文は次のようにはじまる:
日本國民は、正當に選󠄁擧された國會における代表者を通󠄁じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成󠄁果と、わが國全󠄁土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲󠄁法を確定する。―――
いやしくも日本国の公党・公人であるならば,現憲法を擁護・順守する義務を負う(憲法99條)。したがって,この擁護義務に反する文言は日本国憲法違反なのである。少なくとも「主権が天皇にある」という参政党の主張はたとえそれが草案であったとしても憲法違反である。
追記: 参政党については三橋貴明TVの視聴者でもあったので別のところで書いてみようと考えています。また朝堂院大覚総裁の主催するTVに出演されていた及川氏は原口一博代議士のSNSにも出演されているので及川氏とは間接的に縁があるらしい。
投稿: 箒川 兵庫助 | 2025年8月10日 (日) 14時00分