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2025年5月13日 (火)

ベン・グリオンでさえ、パレスチナ人は古代ヘブライ人の子孫だと主張していた。



ブルーナ・フラスコラ
2025年3月28日
Strategic Culture Foundation

 改宗は全てを混乱させる。人口よりも宗教が移住したのだとブルーナ・フラスコラは書いている。

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 ガザでの子殺し再開は、旧イギリス領パレスチナにおけるイスラム教徒とキリスト教徒の存在を残滓にするというシオニズムの歴史的目標の実現にネタニヤフが成功するのではと我々に思わせる。従って、その土地から一掃されつつある人々の歴史を公表するのは時宜を得ている。そのために、歴史家シュロモー・サンドの著書『The Invention of the Jewish People(ユダヤ人の起源 ― 歴史はどのように創作されたのか)』に掲載されている情報を利用する。サンドはイスラエル人で、従軍し、現在フランスに住んでいる。この本は、緊張がそれほど高くなかった2008年に出版された。
 
レバント人はアラビア語を話すが、アラビア出身ではない

 まず、アラブ人とレバント人は異なる歴史を持つ民族だ。アラブ人はアラビア半島に起源を持ち、太古の昔からアラビア語を話してきた。レバント人は先史時代からレバント地方に住んでおり、歴史を通じて言語を変えてきた。レバント地方に住んでいたイエスはヘブライ語やアラビア語ではなく、この地域の死語の一つであるアラム語を話していた。

 母国の考古学を追って、聖書の中に歴史的真実の一端を発見したとサンドは報告している。集落に豚の死骸を残さないことで地元住民と区別されていた遊牧民の羊飼いを、ある時点でカナンの住民は受け入れた。しかし、考古学は、征服とそれに続く虐殺ではなく、以前のカナン人の住民と新しい羊飼いの住民の混交を示しており、その混交が紀元前12世紀から10世紀の間にイスラエル王国とユダ王国を形成した。

 だが、シオニズムの公式歴史学を信じるなら、カナン(現在のイスラエル)に定住したこれら遊牧民は今日のユダヤ人の祖先で、今日のパレスチナ人はアラブ人で、アラビア半島に起源を持つ人々の子孫だ。実際、改宗は全てを混乱させる。人口より宗教の方が移住したのだ。

 ローマ帝国でもレバントの歴史でも、農民人口の入れ替わりは非常に稀だった。ある王国が崩壊し、別の王国が支配権を握ると、反抗的エリート層が追放された。ユダヤ人口全体が脱出したわけではなく、ユダヤの教育を受けた層が脱出したのだ。従って、ユダヤ農民は移住せず、キリスト教に改宗した。後にアラブ人がこの地域を占領し、イスラム教を押し付けたとき、古代ユダヤ(当時パレスチナと呼ばれていた)の人口の大半がイスラム教に改宗した。イスラム教徒は宗教的少数派(この場合はユダヤ人とキリスト教徒)に税金を課した。リベラルな言い方をすれば、イスラム教は改宗の「経済的誘因」を提供したと言える。従って、これはアラブ人の移住ではなく、この地域における別の言語的および宗教的変化だった。彼らの政治と言語はがイタリア半島の部族であるラテン人から始まったイベリア人がラテン人だと言われるのと同じ意味で、レバント人はアラブ人だと言える。
 
ユダヤ教の布教

 一方、実際に追放されたユダヤ人は、集団や部族を改宗させた。3世紀(紀元前2世紀、紀元前1世紀、紀元後1世紀、ハスモン朝からフラウィウス・ヨセフスまで)の間、ユダヤ教は改宗を良いことと見なしていた。この期間中、ユダヤ教の一部はギリシャ化され、特に北アフリカの人々を改宗させようと、熱心に布教し始めた。これは北アフリカ人に対する特別な偏愛のためではなく、エジプトのアレクサンドリアがヘレニズム文化の中心地だったためだ。七十人訳聖書が改宗のために書かれた可能性はある。しかし、七十人訳聖書は、ギリシャ語が母国語であったためにヘブライ語をもはや知らないユダヤ人のために書かれたとシオニストは主張している。一つの説明が他の説明を排除するものではなく、二つ理由がある可能性もある。

 一方、バビロンに移住したユダヤ教の一派、パリサイ派はラビ派ユダヤ教を創始し、紀元4世紀以降、改宗はイスラエルという体の乾癬とみなされるようになった。アレクサンドリアの普遍主義的伝統を持つユダヤ人はローマ帝国を利用して布教活動を拡大し、3世紀に頂点に達した。しかし、普遍主義的ユダヤ教の一派はキリスト教に敗れ、今日のユダヤ教はバビロンの後継者となった。

 少なくとも現在のユダヤ人の民族集団であるセファルディムと北アフリカ人、イエメン人、アシュケナージとロシア人の起源をサンドは扱っている。最初の集団は、おそらく古代にユダヤ教改宗者によって改宗したフェニキア人とベルベル人の子孫だ。紀元前2年のカルタゴの破壊後、フェニキア人がユダヤ教に大きく改宗した証拠がある。従って、改宗した人々は、他のベルベル人とともに北アフリカからイベリア半島に移住したと考えられる。再び、同じ民族集団が異なる宗教と言語に分裂したのだ。その地に残った人々の大多数は、最初はキリスト教徒に、次にアラブ人に服従しイスラム教徒になった。一部のユダヤ人は、ウマイヤ朝とともに北アフリカからイベリア半島に移住し、レコンキスタの間そこに留まった。ここでセファルディム、つまりイベリアのユダヤ人が出現した。
 
諸王国の改宗

 イエメン系ユダヤ人の歴史は紀元前2世紀の独立王国にまで遡る。アラビア半島南部の「ヒムヤル族」と呼ばれるアラブ部族が築いた王国だ。この王国は六世紀まで存続し、イスラム教徒に征服されてイスラム教化された。ヒムヤル族のライバル王国はエチオピアのキリスト教王国で、これもキリスト教国、ビザンチン帝国の影響下にあった。キリスト教の支配者たちは協力して紅海から既知の世界の他地域への出入りを支配しようとした。ヒムヤル族は(今日のフーシ派のように)自分たちで支配しようとした。

 ヒムヤル人はキリスト教の教えに反対したためか、異教を捨てて、当時存在していた唯一の対抗一神教、ユダヤ教を採用した。四世紀末に採用した。住民の大半はイスラム教に改宗したが、一部はユダヤ教に留まり、これがイエメン系ユダヤ人の祖先だ。従って、これが本物のアラブ系ユダヤ人だ。(レバントのユダヤ人は古代ヘブライ人か、ハスモン朝による他のレバント部族の強制改宗の子孫に違いない。)

 似たような話はアシュケナジムにも当てはまる。彼らもまた、対立する一神教の信条を選んだ王国の出身だが、彼らがやって来たのは非常に遅く、イスラム教が既に存在した頃だった。二世紀に統合され始めた東ヨーロッパ、トルコ、フン族の無数の部族から構成されるハザールは、ビザンチン帝国とアッバース朝のライバルだった。ハザールは両者の間に挟まれており、中心地は現在のウクライナ、ヴォルガ川のほとりにあった。8世紀から9世紀にかけて、ハザール人は、ユダヤ教、おそらくはラビの教えに改宗した。

 ハザールに関する歴史的記録は数多くある。最も豊富な資料はアラビア語だが、奴隷を売り、税金を徴収したこの商業帝国の記録が中国にもある。ハザール帝国の衰退の主な原因は、最初のロシア人であるキエフ・ルーシとの戦争だった。

 キエフ・ルーシとビザンチン帝国を拠点とするビザンチン軍は、キリスト教への改宗後、ハザール人を滅ぼすために協力し、11世紀に最も強力な打撃を与えた。ハザール人は散り散りになり、13世紀までには消息が途絶えた。祝祭日(ペサハなど)を個人名として使用する慣習が最初に現れたのはハザール人だったことは、おそらく言及する価値があるだょう。この慣習は、ドイツやポーランドなどからのユダヤ人に維持された。ハザール人から受け継がれたもう一つの習慣は、イディッシュ語など他言語で表記するためにヘブライ文字を使用することだ。ロシアのユダヤ人は、中央ヨーロッパのユダヤ人と同様、信仰を維持したハザール人の子孫なのだ。  
シオニストと真実

 結局、シオニズムは、そこにずっと留まっていた人々の追放を伴う、決して去ってはいなかった人々の帰還なのだ。セファルディム、イエメン、アシュケナジムの祖先は、レバント地方に住んだことはない。約束の地を受け継いだ古代の選ばれた民の子孫は、まさにそこにいるのだ。レバント地方にある約束の地に。

 シオニズムにとって最も重要な二つの歴史的事実、すなわちパレスチナ人のユダヤ的起源と白人ユダヤ人の異教的起源は、20世紀前半のシオニストには十分知られていた。ロシアでは、ユダヤ人学者はハザールの歴史を研究するのを楽しんでおり、自分たちの起源がそこにあるのを理解していた。この趣味は、スターリン政権下でタブーとなるまで、ソ連でも続いた。スターリンはソ連全体に単一のロシア的アインティティを構築しようとしており、かつてのライバル王国の歴史を国家の中に組み込むのは適切ではなかった。

 一方、欧米の物語はより複雑だ。イスラエル国家創設に直接関与したシオニスト過激派は、一般的にアシュケナジム(イディッシュ語話者)またはロシア人だったため、一部の人々は自分たちのハザール起源、つまり非セム系であることを十分認識していた。しかし、アーサー・ルッピン(ドイツ人)などのシオニストは進化論に大きな信頼を寄せており、アシュケナジムはキリスト教徒の迫害を生き延びたため、人種的に高度に進化しており、古代ヘブライ人の現在のどの子孫より進化していると確信していた。従って、彼らはイスラエルにいたアラビア語を話すユダヤ人に喜んで手を差し伸べ、自分たちが世俗化することでアシュケナジムの進化した文化に触れ、向上できると期待していた。だがルッピンは、アシュケナジムと非アシュケナジム(ユダヤ人であろうとなかろうと)の結婚には反対し、人種の純粋さが保たれるようにした。このため彼は他のユダヤ人がイスラエルに移住することに反対していた。

 シオニスト運動創始者のテオドール・ヘルツルが常にアシュケナージ人を白紙の状態に置いておくことを目指していたのは事実だ。だが、19世紀にイスラエル・ベルキンドという人物が率いたパレスチナへのユダヤ人移住運動は以前にもあった。彼はロシア系ユダヤ人で、パレスチナ農民を研究し、彼らは古代ヘブライ人の子孫であるため、アラブ人ではないという結論に達した。したがって、彼らはヨーロッパからのユダヤ人移民と融合すべきなのだ。この考えを採用したのは他ならぬベン・グリオンだった。1918年、ニューヨークでベン・グリオンはベン・ズヴィ(後にイスラエル第二代大統領となる民族学者)と協力し、『過去と現在のエルサレム』という著作を執筆し、3分の2を執筆した。ベルキンドらの先導に従い、ベン・グリオンはパレスチナ農民はヘブライ人の最も純粋な子孫で、従ってイスラエルと一体化すべきであることを証明しようとした。彼らの土地に対する昔からの愛着は称賛に値するとベン・グリオンは考えた。更に、ベン・グリオンとベン・ズヴィは、キリスト教とは違い、イスラム教は民主主義と両立する宗教だと考えていた。だが、ヘブロンの虐殺と1938年のアラブ反乱により彼らは考えを変えた。そして彼らはパレスチナ人はアラブ人で、先住民ではないと言い始めた。そしてベン・グリオンは、数千年ぶりにパレスチナの人々を土地から追放するパレスチナ民族浄化の主要立案者で実行者だった。

 このようにして、ユダヤ人の歴史から集団改宗は抹消された。アシュケナージ系ユダヤ人とロシア系ユダヤ人は古代ヘブライ人ではなく、ハザール人の子孫だという主張は反ユダヤ主義とみなされるようになった。シオニズムは永久に人種を基盤とすると決定したため、立場を維持するには歴史を偽造する必要があるのだ。

記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2025/03/28/even-ben-gurion-has-demonstrated-that-the-palestinians-are-descendants-of-the-ancient-hebrews/

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