非ナチ化-第1幕、ソ連映画を通して見る大祖国戦争
2022年8月22日
ノラ・ホッペによる覚え書きと考察とタリク・マルズバーンの協力によるSakerブログへの寄稿
非ナチ化-第1幕、ソ連映画を通して見る大祖国戦争
意図的な記憶喪失や歴史やロシア文化排斥で加速され、無知、愚かさ、忘れやすさや狂気へと欧米世界が益々深く落ち込む中、ロシアの偉大で気高い作品の一部を、よみがえらせ、記念し、祝うことは不可欠だと我々は思う。人類文明の将来のためにも。
彼らを相対的な平和と快適さで暮らすこと可能にした大祖国戦争という決定的偉業について、欧米の若い世代は決して聞いてもいない可能性がある。彼らにとっては、あの戦争で犠牲になった2700万人もの命は想像することさえ困難かもしれない。
まして、1941年9月8日に始まり、1944年1月27日に、赤軍が封鎖打破に成功するまで、ほぼ900日間続いたレニングラード包囲戦を知っている人々は更に少数かもしれない。
1941年-1942年の冬は酷く寒く、一ヶ月に約100,000人が飢餓で死んだ。絶望から、市民はワセリンや壁紙糊から、ネズミやハトや家庭のペットまで、あらゆるものを食べた。暖房のため、個人蔵書の本や家具や衣類さえ燃やした。後に見いだされた遺品の中に、彼女の家族全員が死んで行く日付を記録したレーニングラードっ子ターニャ・サヴィチェワという名の12歳の子供が書き留めた日記があった。母親の死後、彼女は書いた。「サヴィチェフ家は死んだ。みんな死んだ。残ったのはターニャだけ。」
封鎖のため、都市に食糧を送る唯一の方法は凍りついたラドガ湖に橇と鋤で氷上に造られた、この都市への唯一の開いた経路で新鮮な補給をもたらすことだった。食品と燃料を輸送するトラックと橇が、ナチ空爆の頻繁な目標になった事実にもかかわらず、これは「命の道」として知られていた。
包囲戦期間中、合計で推定75,000発の爆弾がレニングラードに投下され、多くの人々が亡くなり、更に多くの人が、飢えと飢えからくる病気で亡くなった。レニングラード包囲戦は、推定総計800,000人の一般人を殺した。歴史家マイケル・ウォーザーは「レニングラード包囲攻撃は、ハンブルグ、ドレスデン、広島と長崎への爆弾投下を合計したより多くの一般人を殺した」と要約した。明白な組織的飢餓を狙って(Hungerpolitik-レニングラードの隔離。ドイツ砲兵隊はパン工場や中央の食糧供給組織を砲撃した)この都市の民間人を意図的に壊滅し、(イェルク・ガンツェンミュラー、ティモ・ヴィハヴァイネン、リチャード・ビドラックやニキータ・ロマギンなどの)一部の歴史家たちと同様、包囲戦は大量虐殺行為だと考えることができる。人種差別によって引き起こされた迫害も忘れてはならない。ナチはスラブ人をUntermenschen(下等人間)と見なしていた。
本や記事やフィルム映像で提供される情報を越えて、大祖国戦争中の人々の戦いの規模を理解したい人々は、サンペテルブルで、レニングラード防衛と包囲国立博物館、勝利広場のレニングラードの英雄的防衛に尽くした人々に捧げる記念碑や、約420,000人の一般人とレニングラード戦線の50,000人の兵士が186の合同墓所に埋葬されているピスカリョフスコエ記念墓地を訪問すると、より良く把握できるだろう。これら記念碑は、全て強力な大いに感動的な形で、レーニングラードっ子の不動さや勇気や威厳をしのんでいる。私として個人的には、これらの人々の高尚な、苦渋に満ちた人類に対する犠牲を胸を締め付けるほど鋭く伝えるのは(1991年3月の凍り付くように寒く、暗く、風が強い日の午後遅く訪問した)ピスカリョフスコエ記念墓地だった。
1952年に生まれたレニングラード市民のプーチン大統領は、レニングラード包囲戦に捧げられた記念行事に頻繁に参加している。それは彼にとって非常に個人的な物語だ。父親のウラジーミル・スピリドノヴィッチ・プーチンは、包囲戦中レニングラードの南東封鎖をドイツ軍が完了するのを阻止する重要な防衛陣地ネフスキー・ピャタチョークで戦った。母親は包囲戦期間中、市に留まり、1942年冬、兄のビクトルは包囲された都市でジフテリアで亡くなった。書類によれば兄の遺骨も埋葬されているピスカリョフスコエ記念墓地で共同墓地に献花した後、大統領は祖国記念碑にも花輪を捧げた。
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映画は、地理や言語の壁を越えるのみならず、展開する出来事を明きらかにする、より詳細な経験を観客にしばしば提供する一つの強力なメディアなので、我々は異なる角度からこの期間を描いたソ連映画をいくつか提示して、大祖国戦争をしのびたいと思う。
だがソ連映画に進む前に、まず驚異的なことに、アメリカで制作され、驚異的にも、依然YouTubeにある映画を紹介したい。明らかに、欧米で政権を掌握している人々によって忘却に追いやられているように思われる
「ロシアの戦い The Battle of Russia」はイタリア生まれのアメリカ人フランク・キャプラとキエフ生まれのアメリカ人アナトール・リトヴァクが監督した。ウィキペディアの大雑把な情報を要約すると、この映画は、歴史上失敗したロシアを征服しようとする試みの概観で始まる。1242年のドイツ騎士団(セルゲイ・アイゼンシュタインの映画「アレクサンドル・ネフスキー」の映像を使って)、1704年のスウェーデン、カール12世(ウラジーミル・ペトロフの映画「ピョートル大帝」の映像を使って)、1812年のナポレオン1世、第一次世界大戦でのドイツ帝国によるもの。当時、征服を狙う者にとって、この土地が、どれほど欲しかったかを示すために、ソ連邦の膨大な天然資源が説明される。ロシアの文化的要素としては、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの楽曲やレオ・トルストイの小説『戦争と平和』が言及されている。
映画のオープニング・クレジットは下記のように書かれている。
- 「ソ連の人々が示した勇気より素晴らしい表現は史上ない。」アメリカ陸軍長官 ヘンリー・L・スティムソン
- 「我々と同盟諸国は、ソ連の軍と国民に永遠の感謝の恩義を負い、認めている。」アメリカ海軍長官 フランク・ノックス
- 「ロシア兵士たちの勇敢な行為と戦闘精神はアメリカ陸軍の称賛を博している。」アメリカ陸軍参謀総長 ジョージ・C・マーシャル
- 「ソ連の英雄的、歴史的防衛の称賛に私も加わる。」アメリカ艦隊司令長官 アーネスト・J・キング
- 「ロシアの取り組みの規模と壮大さは史上最大の軍事的功績だ。」アメリカ南西太平洋地域最高司令官 ダグラス・マッカーサー大将
The Battle of Russia ロシアの戦い(1943年)
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『祖国の名において』(1943年)-フセヴォロド・イラリオーノヴィチ・プドフキンとドミトリー・イヴァノビッチ・ワシリエフ
『祖国の名において』は、コンスタンチン・シーモノフの戯曲「ロシアの人々」に基づき、フセボロド・イラリオーノヴィチ・プドフキンとドミトリー・イバノビッチ・ワシリエフが監督した映画だ。
あらすじ。晩秋。ドイツはまだ前進しており、小さい海辺の町を占領した。だが、その郊外で、町を分割する塩けがある河口の西側で、全面包囲された小さいロシア駐屯地は依然頑固に持ちこたえている。清浄な水がないので、ロシア分遣隊を疲弊させ、消耗させる使のを好んで、ドイツ将官は攻撃を急がない。サフォーノフ大尉は、他の偵察者に戦略上の橋を爆破する命令を伝える町への任務で、愛するワーレチカを偵察に派遣する。彼女は途中で捕えられ、敵の刑務所に入れられる。司令部からの新情報と、主力部隊と再会する希望から、サフォノフは、ワーレチカ救済と、命令取り消しと、橋からドイツ軍をそらせるため経験豊富な兵士グローバを送り込む。
Во имя Родины / In the Name of the Motherland 『祖国の名において』(1943年)映画をオンラインで見る
『鶴は翔んでゆく』(1957年)-ミハイル・カラトーゾフ
ヴィクトル・ローゾフによる戯曲『永遠に生きるもの』に基づく。
ソ連、1941年。ボリス・ボロージンが出征する。彼の婚約者ベロニカの親は爆撃で死ぬ、女性はボリスの父親の家に連れて行かれる。同時に、ボリスが戦闘中行方不明と知らされる。だが友人ステパンを救助している間に自身を敵の砲火をさらけだしてボリスが実際死んだ事実を知らずに、彼女の最初の恋人の知らせを待つのをやめずに、ボリスのいとこで、もう一人の求婚者マークと結婚する。
何らかの形でボリスを裏切ったという考えが彼女につきまとう。結婚で最初のひびに会って、ベロニカは橋から飛び降りて自殺しようとするが、たまたま自動車にひかれそうだったボリスという名の子供の命を救う。マークが徴兵から逃れるために仕組んだ策略を知って、ベロニカは夫を捨て、彼女には親をつきとめることができなかったボリスと新しい人生を始める。
同僚の兵士が彼女にボリス・ボロージンは行方不明だと言うと、ベロニカは彼の死を信じるのを拒否する。戦争が終わり、凱旋パレード中に(ボリスに救われた)シュチェパーンが突然現われて、ベロニカに花束を贈る。それから彼はボリスの死について彼女に話す。ベロニカは、今戦争の犠牲を理解し、通行人に花を配り始める。
『鶴は翔んでゆく』|ドラマ|映画全編
『人間の運命』-セルゲイ・ボンダルチュク(1959年)
M・ショーロホフの小説に基づく。大祖国戦争が始まり、トラック運転手アンドレイ・ソコーロフは家族と分かれなければならなかった。1942年5月、彼はドイツの捕虜になった。ソコーロフはナチ強制収容所の地獄に耐えるが、彼の勇気のおかげで処刑を回避し、最終的に前線背後の束縛から逃げる。短い前線休暇で故郷ボロネジに帰り、ドイツ航空機がボロネジに爆弾投下した際、妻と娘たちが死んだと知る。身内では息子だけが残り、彼は士官になった。戦争最終日の5月9日、アンドレイは息子が死んだ知らせを受ける。
戦後、孤独なソコーロフは故郷のボロネジから離れた(スターリングラード州)ウリュピンスクで、トラック運転手として働く。そこで彼は戦争孤児になった少年ヴァーニャに出会う。母親は爆撃で亡くなり、父親は戦争中に行方不明になったのだ。ソコーロフは少年に、自分が父親だと言い、そうすることで自身と少年に新しい幸せな家庭生活への希望を与えると決める。
『人間の運命』|戦争映画|映画全編
『誓いの休暇』グリゴリー・チュフライ 原題 兵士のバラード(1959年)
第二次世界大戦中、前線で有名になった若いロシア兵士アリョーシャは勲章授与を言われる。だが彼はこの大きな名誉を断り、その代わり母親を訪れる許可を求める。彼の旅行は長く困難だ。彼は汽車から汽車へと飛び移らなければならず、多くの障害が彼の時間を奪う。途中で彼に手を貸したり、彼が援助する様々な人々に会う。それから彼は同方向に旅する少女シューラに出会う。旅行中、二人は恋に落ちる。
旅は終わり、アリョーシャはシューラと別れなければならない。彼女がさようならを言う時、彼女は彼に婚約者についての考えを決めた、今彼を愛していると言う。さようならを言わずに、アリョーシャは列車に追いつく。途中、彼はシューラに愛を告白しなかったのを残念に思う。突然列車は爆撃され、アリョーシャは数人の乗客の死を目撃する。
道路で、アリョーシャは、少なくとも数分、母親と会うため故郷の村に連れて行くようトラック運転手を説得する。隣人に会い、母親を抱擁し、戦争の後すぐに戻ると約束する。母親は彼に「待っているよ」と言う。
ナレーションが言う。「彼は素晴らしい市民になれたはずで、土地を庭園で飾ることができたはずだが、彼は我々の思い出で、永久に軍人のままだ。一人のロシア兵!」
『誓いの休暇』原題 兵士のバラード(1959年)グリゴリー・チュフライ-英語字幕(720p)下記リンク残念ながら、削除されていて見ることができない。
『僕の村は戦場だった』原題「イワンの子供時代」(1962年)アンドレイ・タルコフスキー
V・ボゴモーロフの物語「イワン」に基づく映画は主に第二次世界大戦中、ソ連軍が侵入するドイツ軍と戦っている戦線に設定されている。映画は頻繁な回想と直線的でない筋が特徴だ。
第二次世界大戦、東部戦線、スターリン線、スターリン線、ドニェプル川地域。12歳のイワンは、(父親は前線で死亡した可能性が高く、母親も、おそらく亡くなり)家族がない状態で、ドイツ侵略者と戦うため、最初はパルチザン、次に正規ソ連陸軍に加わる。彼を大いに面倒を見る、グリャズノフ大佐もホリン大尉も、特にグリャズノフは終戦後、彼を養子にしたいと思っているが、沼が多い場所で気付かれずに動く彼の能力を利用して彼を敵軍前線を越えて、偵察任務に送る。特に困難な任務の後、イワンは予定の場所に戻り損ね、その代わり、若い中尉ガルチェフが支配する前線の戦線地域にたどり着くが、彼には汚れて、疲労した少年の説明を信じることが困難だが、軍司令部と連絡を取ることに同意し、安心したホリンが駆けつける。
グリャズノフはイワンを前線から離し、軍学校に行かせて彼を守ると決断するが、戦争では臆病者と病弱な人だけが兵役を回避できるのだと確信している少年は前線に残る決意が堅い。後部に送られると戦争で荒廃した土地に逃げるが、まもなく連れ戻される。イワンは最後の任務に参加する。ホリンとガルチェフは、行ける限り川の対岸まで同伴するが、初雪が降る中、むなしく彼の偵察からの帰還を待つ。戦争が終わった時、ソ連が占領したベルリンで、顔にも魂にも傷を負った生存者ガルチェフは、偶然国会の放棄された事務所で処刑された捕虜書類中でイワンの書類発見し、少年が絞首刑にされたのを知る。
映画は著しい対照で始まる。チョウが飛び、カッコーが鳴く中、静穏で明るい田舎の光の中で水浴びし、母親が、そばにいるのを知っている幸せな少年は、突然恐怖の「ママ!」という叫びで中断され、傷ついた女性が横たわり、少年は隠れ、自分を守らなければならない暗い破壊された世界の中に目覚める。感動的なジェット・コースターの後、(終わりまでモノクロの)映画は、更に明暗の対比を強め、視聴者の細心の注意を要求する。現実レベルの物語の連続性は、後の夢のような連続シーンで破られる。一つは明らかに映像で、もう一つは、思い出あるいは続く夢の論理、両方の混合であり得る。映画の最後、時間と場所の突然の飛躍のみならず、小説からドキュメンタリーへの素早い移行は驚くべきだ。これら映像の焦点はドイツ指導部徒党に殺された彼ら家族の子供だ。『僕の村は戦場だった』の中心主題との関係はそれで維持される。
『僕の村は戦場だった』原題「イワンの子供時代」|戦争映画|アンドレイ・タルコフスキー監督
『ヨーロッパの解放』(1967年-1972年)ユーリ・オーゼロフ
ユーリ・オーゼロフの叙事詩的歴史映画は、大祖国戦争の五つの主要東部戦線の作戦に焦点を合わせ、ソ連領の解放と、続くナチス・ドイツ敗北の劇的表現の五編で構成されている。「クルスク大戦車戦」「ドニエプル渡河大作戦」「大包囲撃滅作戦」「ベルリンの戦い」「最後の突撃」だ。
合計51人の歴史上の人物が映画に登場する。これら人物を演ずる俳優を選ぶのは容易ではなかった。主な問題は映画の中の英雄やモデルの大半が、まだ生きていることだった。彼らの多くは高い地位にあり、自分たちが画面でどう見えるかに強い関心を持っていた。顔を似せるだけでなく、モデル(あるいは映画の監修者たちに)に、特定の俳優あるいは、別の俳優による、画面上のモデル描写に同意させる問題ではなかった。
『ヨーロッパの解放』映画1:「クルスク大戦車戦」|戦争映画|映画全編
「クルスク大戦車戦」は1943年夏にクルスク膨隆において英雄にふさわしい戦いを示す。
『ヨーロッパの解放』映画2:「ドニエプル渡河大作戦」|戦争映画|映画全編
「ドニエプル渡河大作戦」は1944年のドニエプル川の戦いとソ連攻撃作戦に関するものだ。
『ヨーロッパの解放』、映画3:「大包囲撃滅作戦」|戦争映画|映画全編
「大包囲撃滅作戦」は、ナチス部隊からベラルーシの完全解放をもたらしたバグラティオン作戦に関するものだ。
『ヨーロッパの解放』、映画4:「ベルリンの戦い」|戦争映画|映画全編
「ベルリンの戦い」。1945年、戦争最後の月。これは奴隷にされたヨーロッパの運命が決定される日々の話だ。
『ヨーロッパの解放』、映画5:「最後の突撃」|戦争映画|映画全編
「最後の突撃」はドイツ国会議事堂攻撃について、全ての部屋、全ての階のための戦いに関する話だ。
『朝やけは静かなれど!』(1972年)スタニスラフ・ロストフスキー
『朝やけは静かなれど!』はボリス・ワシリエフの同名小説に基づきスタニスラフ・ロストフスキーが監督した4つのエピソードのテレビ・シリーズで、1972年のソ連戦争演劇だ。映画は反戦の主題で、第二次世界大戦でロシア女性兵士駐屯地に焦点を合わせる。
1942年の晩春、大祖国戦争は最高潮にある。1つの長期の方法で引き前線から、いずれかの神によって忘れられた合流点で、ドイツ人はキーロフ鉄道と白海に連絡を取ろうとする試みで航空の着陸作戦を作る-バルト海運河。彼らはただの落下傘部隊員ではない。これは経験豊かな、大いに訓練された潜入者、武装親衛隊超エリート・チームだ。彼らの邪魔になる唯一のものは訓練中のヴァスコフ曹長と若い女性五人の高射砲部隊だ。それは地元の重要性の争いのように思われるかもしれないが、国の戦略上の主要輸送幹線は危機にある。伍長と彼の「初心者」はナチの破壊工作と何らか代償で防ぐことができだろうるか?
『朝やけは静かなれど!』-プレイリスト-エピソード1-4のロシアのテレビシリーズ。英語字幕。StarMediaEN
『春の十七の瞬間』(1973年)一連の12のエピソード タチアナ・リオズノワ監督
『春の十七の瞬間』は、ユリアン・セミョーノフによる同名小説に基づき、タチアナ・リオズノワが監督し、今までに作られた最も成功したソ連のスパイスリラーとみなされ、ソ連史上最も人気が高いテレビ・シリーズの1つだ。
このシリーズは、マックス・オットー・フォン・スティエリッツという名でナチス・ドイツで活動するソ連スパイ、マクシム・イサエフの偉業を描いている。スティエリッツは、戦前のナチスによるドイツの乗っ取りのずっと前、1927年に派遣された。彼は国民社会主義ドイツ労働者党に参加し、下っ端から昇進し、ナチス防諜活動の幹部になった。彼はドイツ反体制派知識人から数人の工作員を採用し、牧師を迫害した。スティエリッツはドイツと西洋同盟諸国の間で、別個の和平協定を作ることを狙ったカール・ウォルフとアレンダレス間の秘密交渉がスイスで行なわれることを発見し、それを阻止する計画をたてる。作戦上の組み合わせの助けを借り、特に直接の上司ウォルター・シェレンバーグのおかげで、スティエリッツは、マーティン・ボルマンを通して、英米の計画を阻止すのに成功した。
スティエリッツの性格は、アンドローポフの理想的ソ連スパイの概念を反映している。彼は計算高く、謙虚で、国を深く愛し、何よりも、知的で、敵の裏をかいて、任務を実行した。彼は、主に、しかし全面的にではなく、大まかに、ソ連工作員に転じたゲシュタポ士官ウィリー・リーマンに基づいていた。スティエリッツに失敗させられたアメリカ・ドイツ交渉は、1945年5月2日、北イタリアでのドイツ国軍降伏に導いた、1945年にアレン・ダレスとカール・ウォルフによってまとめられた本当の協定をモデルしていた。映画の歴史的な基礎はオペレーション・サンライズだ。ソ連の背後で、1945年3月に、スイス、ベルンで、一連の秘密交渉がナチス・ドイツ親衛隊と、アレン・ダレス下のアメリカ戦略情報局OSS間て2週間行なわれた。(彼らが降伏の細部を練っていた際、どうやらダレスはニュルンベルク裁判で、親衛隊のウォルフ大将を起訴から守ると口約束した。ウォルフと彼の部隊は、ウィンストン・チャーチルがこの時期に提唱した、ソ連を侵略する秘密計画「想像を絶する作戦」実行を支援するものと考えられていた。それはソ連との戦争のための冷戦時代、最初の緊急対策になった。ウォルフは後に300,000人のユダヤ人殺害に共謀したことが判明した。[‘Conspiracy of Silence: How the “Old Boys” of American Intelligence Shielded SS General Karl Wolff from Prosecution’ ?「沈黙の陰謀:アメリカ諜報機関の「オールド・ボーイズ」が、親衛隊のカール・ウォルフ大将を、いかにして起訴から保護したか」を参照-https://www.academia.edu/31673216])
ある評論家が、ソ連での、このシリーズの大衆の歓迎をこう表現した。最初の放映中、道路は空になった。ホッケーより多くの観客を引き付け、伝説的成功だった。」放送中、犯罪率は際立って下がった。多数のTVがつけられて、消費電力急増をもたらし、発電所は発電を増やさなければならなかった。それは間もなく人気シリーズになった。
どうやら、多くの解説者がプーチン大統領と、神秘的人物スティエリッツとの類似を見ている。プーチン自身、KGBに加入する決断は『春の十七の瞬間』シリーズを含め子供時代のスパイ・スリラーが動機になったと主張したと言われた。
『春の十七の瞬間』(1973年)12本の第1部 英語字幕 HQ
視聴者カルロス・コバスによるYouTubeでの発言
「この映画はソ連映画の傑作だ。今それが北アメリカでDVDで利用可能となり、私は再びそれを見たが、本当に、これほど衝撃的な、他の、どんな古いロシア/ソ連映画も考えられない。表面上、物語は第二次世界大戦最後の月日に、ヨーロッパで欧米同盟国と別個の協定を結ぼうとするナチス幹部の試みの証拠を得ようとするソ連諜報機関工作員の話だ。だが、この映画はスパイ・スリラーよりずっと深い。あぶり出しインクも、ハイテク銃も美女もない。そうではなく、一つだけ。主人公の妻。彼は何年も彼女に会っておらず、彼は彼女に会うことを許される。彼はベルリンのカフェにいる。彼女は店に入り、遠い隅の席に座り、一杯のコーヒーを注文して…」
『処刑の丘』(1977年)-ラリーサ・シェピチコ
ウクライナ人ソ連監督、脚本家、女優ラリーサ・シェピチコは彼と共有するウクライナの伝統と、視覚の詩的な象徴的表現に満ちた社会的現実主義の映像に親近感を感じていたオレクサンドル・ドブジェンコの弟子だ。
『処刑の丘』は、バシル・ブィコフの小説「ソトニコフ」に基づき、1942年の冬という設定で、脚本の要求通り、恐ろしい冬の状態で、モスクワの東部地域で1974年1月に撮影された。(1979年自動車事故での悲劇的な死の前のシェピチコ最後の映画だった)。
あらすじ:ナチに占領されたベラルーシ。ソトニコフ少尉と兵卒のルィバークは、凍りついた森で立ち往生して、空腹の女性や子供を含む仲間とパルチザンのために食物を獲得すべく、雪の中、村に行かされる。雪の中の長い銃撃戦後、ドイツ兵の一人が死に、二人は逃げるのに成功するが、ソトニコフは脚を撃たれている。彼らは3人の幼い子供の母親デムチハの家に避難する。だが彼らは追跡され捕らえられる。身体的に虚弱なソトニコフは拷問に耐え、死刑執行による死を選ぶ。だがルィバークは、跪き、慈悲を嘆願し、警官としてドイツ人のために働くことに同意する。後になって彼は自分がしたことを知る。
『処刑の丘』
『行け、そして見よ(炎628)』(1985年)エレム・クリモフ
『行け、そして見よ(炎628)』はエレム・クエレムリモフが監督した1985年のソ連の反戦映画だ。脚本は、クリモフとアレシ・アダモヴィチが書き、アダヴィチが共著者だった1978年の本「ハティニ物語 私は炎に包まれた村からきた」(1977年)に基づいている。もっぱらベラルーシで、ベラルーシ語で、素人俳優で撮影された。映画で描かれた全てがベラルーシで実際に起きた出来事に基づいている。映画はシュールレアリスムを基調とする超現実主義で、哲学的な実存主義を、詩的、心理的、政治的、黙示録さながらの主題と混ぜ合わせている。公開時に肯定的な批判的評価を得て以来、最も素晴らしい映画の一つと見なされるようになった。
映画の題名は『ヨハネの黙示録』第6章に由来する。「来たりて見よ」という叫びは、「黙示録」で四人の騎士に引き起こされる破壊に対する熟考への招待だ。「彼が4番目の封印を開いた時、私は四つの獣が「来たりて見よ!」と言うのを聞いた。そして見ていると、青白い馬が出てきた。そして彼に乗っている者の名は死で、それに黄泉が従っていた。そして彼らには、地の四分の一を支配する力と、剣と飢饉と死と、地の彼らの獣によって人を殺す権利が与えられた。」
映画の筋はベラルーシのナチス・ドイツ占領と、母親の希望に反して、ベラルーシ・レジスタンスに加わったフリョーラという名の十代のベラルーシ人パルチザンの少年が目にする出来事に焦点を合て、ベラルーシの村の民衆に加えられるナチの残虐行為と人の苦しみを描写する。この映画は、他のものと違い、戦場での子供の悲劇は見せる。映画の始め、16歳のフリョーラは十代の少年に過ぎない。だが結局、恐怖と恐れを体験して、この子供は恐ろしいほど大人になる。
映画について、エレム・クリモフは、こう言っている。
「大祖国戦争勝利の40周年記念日が近づいていた。経営幹部に何か話題になるものを示さなければならなかった。私は白ロシアでの恐ろしいファシスト大量虐殺から奇跡的に生き残った人々の実体験報告で構成された『私は炎に包まれた村から来た』を何度も読んでいた。彼らの多くが、まだ生きていて、ベラルーシ人は彼らの記憶の一部を映画に記録するのに成功していた。彼の村全員がどのように教会に集められたか、彼らが焼かれる直前に、士官簾中が、彼らにどのように言ったかと言った、ある小作農の顔と目と、静かな回想を私は決して忘れるまい。「誰であれ子供がいない人は去って良い。」彼は我慢できず、妻と幼い子供たちを置き去りにした。あるいは他の村が燃やされるのを。成人は全員家畜小屋に集められたが、子供は後に残された。そして後で、酔った男たちが、牧羊犬と一緒に彼らを包囲し、子供たちを犬にバラバラに引き裂かせた。
それで私は思った。世界はカチンを知らない! 彼らはカチンについて、ポーランド士官の大虐殺について知っている。だが彼らは白ロシアのことを知らない。600以上の村が燃やされたのに!
そこで私はこの悲劇に関する映画を制作すると決めた。映画がどぎついものになるのは十分承知していた。私は中心的俳優である村の若者フリョーラ役は、困難な役になりきる上で、蓄積された演技経験や、テクニックや技能で、心理的に自分を守れる職業俳優には演じられないと判断した。私は14歳の普通の少年を見つけたいと望んだ。我々は彼を最も困難な経験に準備させてから、撮影しなければならなかった。同時に、映画撮影が終わった後、彼が精神病院に入れられずに、生きて健康で母親に返せるよう、我々は彼をストレスから守らなければならなかった。幸い、フリョーラを演じ、後に良い俳優になったアレクセイ・クラウチェンコとは全て順調に行った。
これは非常に残忍な映画で、人々が見続けられる可能性はありそうにないと思った。私は脚本共作者アレシ・アダモービチにも話した。だが彼は答えた。「人々に見せよう。これは我々が残さなければならないものだ。戦争の証拠として、平和への嘆願として」
『行け、そして見よ(炎628)』|戦争映画|映画全編
大祖国戦争に関しては、もちろん実に多数の強力なソ連映画がある。これらはそうだ、しかし少数が…する
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今日欧米では、どんな形であれロシア文化を取り上げることに対し包括的禁止がある。芸術、教育あるいは、スポーツ分野でさえ。かつてソ連に所属したり、東欧圏の一部だった東欧諸国の多くで、政権や組織が、記念碑やナチズムやファシズムに関する彼ら民族の苦難や勝利に捧げる記念館を破壊しているのを見ることができる。歴史的な偉大なロシア文化人が忘却され、他方ファシストやナチの象徴が益々受容されるように思われる。(ベルリンのチャイコフスキー・シュトラーセは、いつかシュチェパーン・バンデラ・シュトラーセと命名し直されることがあり得るだろうか?)ロシア人は? いくつかのヨーロッパ諸国は、彼らのヨーロッパ旅行が禁止されることを望んでいる。「ノーベル賞」受賞者レフ・ワレサは、こんなことを提案するに至っている。「今日我々はロシア政治体制転覆を実施するか、人口を5000万人以下に減らすかしなければならない。」レニングラード包囲攻撃は彼には明らかに十分ではなかった。彼は新たな大量虐殺を望むのだろうか?
だが病的に自暴自棄なロシア嫌い連中が、何であれロシア製のものを抑圧し、追放し、消去し、削除し、壊滅させようとどんなに努めても、自身の文化とアイデンティティーを抑圧し、追放し、消去し、削除し、壊滅させることにしかなるまい。ロシア文化や歴史を破壊する連中の意図は永久に徒労のままだろう。過去の証言は生き続ける。これら映画や多くの他の作品を通して、高潔な証人たちの記憶を通して、真実を求めることを通して。
民族が記憶を失う時、民族はその魂も失うのだ。
* * * * *
いくつかの参考リンク:
https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Leningrad#Lifting_the_siege
https://journals.ub.uni-heidelberg.de/index.php/fr/article/view/50755/44648
https://tass.com/society/1393925
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE_%D0%B8%D0%BC%D1%8F_%D0%A0%D0%BE%D0%B4%D0%B8%D0%BD%D1%8B
https://en.wikipedia.org/wiki/Seventeen_Moments_of_Spring#cite_note-IZ-2
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Ascent_(1977_film)
https://en.wikipedia.org/wiki/Come_and_See
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次期イギリス首相、タカ派有利と報じられている。かくして、英米主導の戦争は続く。
手元の『僕の村は戦場だった』と『誓いの休暇』DVDを見たくなった。劇場で鑑賞する勇気は無い。
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