檻の中で愛国的な詩を暗唱して亡くなったムルシ
2019年6月25日
Andre Vltchek
New Eastern Outlook
エジプト前大統領ムハンマド・ムルシは、法定で防音檻に閉じ込められた状態で、15分の論述を終えた。彼はエジプトに対する彼の愛についての詩を読み、倒れ、亡くなった。
彼の死はエジプト中、地域とイスラム世界のいたる所に衝撃を与えた。
トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は公式説明を受け入れるのを拒否し「前エジプト大統領ムハンマド・ムルシは死んだのではなく殺された」と主張した。
世界の色々な場所からも反応があった。 ロイターによれば:
「去年ムルシの拘留に関する報告書発表で、イギリス議員と弁護士の代表団を率いたイギリスのクリスピン・ブラント下院議員が、ムルシの監禁条件を激しく批判した。
2018年3月に我々が報告した後、彼の状態に変化があったのかどうか知りたいと思う、彼が我々が見た状態で拘束され続けていたのであれば、彼の早過ぎる死に対し、エジプト政府に責任がある可能性が高いことを恐れていると彼はBBCに述べた。
人権擁護団体や国家リーダーやエジプトの普通の市民たちが、残忍な親欧米派独裁者ホスニ・ムバラクが2011年に退位させられてわずか1年後、2012年、エジプト近代史初の民主選挙で当選し、国を支配した前エジプト大統領ムハンマド・ムルシの逝去を知って激怒した。
ムルシは最高権力について、わずか一年後、2013年暴力的軍事クーデターで打倒された。
*
はっきり言おう。ムハンマド・ムルシは「良い大統領」ではなかった。実際、彼は大統領になるとは全く思われていなかった。彼の党本来の候補者が、ささいなことで選挙に失格とれ、ムルシは彼の代わりになるよう頼まれた。彼は僅差で勝った。
彼は経済的、社会的、政治的に、いくつか重大な間違いをした。
彼はガザとシナイ間のトンネルを水浸しにした。
彼の指導の下、ポートサイドでの紛争で40人以上の人々が亡くなった。
彼は脅威を感じると、抗議行動参加者に有毒ガスを使用するよう命令した。
だが彼は殺人犯ではなかった。「近代」エジプトで、それはかなりの業績だった。
彼はエジプトの悲惨な状況を改善しようとしたが、彼は失敗し続けた。
他方、彼は壊疽のような軍の支配から政府を分離した。欧米が支援するエジプト軍は、(ムバラク支配下でも、今も)あらゆる組織に潜入することに成功していて、エジプト国家のあらゆる側面を完全に支配している。
ムルシは酷く分裂したエジプト社会で全員を喜ばせようとした。結局誰も満足しなかった。
彼のムスリム同胞団の強硬派は、十分急進的ではなかった彼を憎悪した。反宗教的な左翼は、社会改革と非宗教国家をより強く推進しないことで、彼を軽べつした。彼は、アメリカとIMFに従いながら、同時に彼らを避けていた。
結局、彼は自信のない困惑した弱い人物のように見えた。
*
2012年と2013年、私の友人たち、左翼の同志は、カイロの大統領官邸前で警察と戦っていた。私は彼らと一緒にそこにいて、極めて有毒な催涙ガスから少なくとも何らかの方法で私自身を守るため、水浸しのぼろで顔を覆って、撮影していた。
当時、誰もムルシが好きなようには思われなかった。
反ムルシ抗議行動の際のスローガンはこうだった。
「我々は死ぬのが相応しい人々のために歌う。
ムルシ、ムルシ、ムルシ!」
抗議行動参加者たちが、7年後、彼らの予言が実現することを知っていたはずはない。
軍が(2013年7月3日に)民主的に選出された政府を打倒した後、大虐殺が始まった。 公式には数百人だが、何千人もの人々が生命を失った可能性がきわめて高い。何万人もが逮捕され、行方不明になり、拷問にかけられ、レイプされ、追放された。
(クーデターから間もなく、活動禁止された組織になった)ムスリム同胞団メンバーは粛清されたが、様々な左翼組織や、腐敗した右翼軍隊や、その独裁に反対だった人々もそうだった。
私の友人の何人かは国を去らなければならなかった。他の人たちはまだ刑務所にいる。あるいは隠れている。
前の独裁者、欧米傀儡の暗殺者ホスニ・ムバラクは今再び自由人だ。91歳だ。
67歳のムハンマド・ムルシは亡くなった。
*
ムルシ時代、2013年のクーデター中と後も、私はベネズエラのテレビ局Telesurのためにドキュメンタリー映画(「Egipto - El Fin de Una Revolucion」 - 「エジプト、革命の終わり」)を制作して、エジプトで働いていた。
最初に、私は調査し、ムルシ大統領の統治時代にポートサイド市で行われた犯罪について書いた:「Notes from a besieged city 包囲された市からの記録」。
それから、エジプト軍がムルシ政府を打倒し、ムスリム同胞団とエジプト左翼の両方を清算し始めたとき、私は、ちょうど戦闘の真ん中にいた。私はエッセイ「Egypt End of Hopeエジプト 希望の終わり」、「Egypt in the Eye of the Storm嵐の目の中のエジプト」で出来事を説明した。エジプトからのずっと多くのエッセイを「Exposing Lies of The Empire(帝国の嘘をあばく)」という本にまとめた。
かつて、クーデター後に映画を撮影していた際、私自身が、全て私に大砲を向けている5輌の戦車に直面しているのに気がついた。どうやって生き残ったのか、よくわからない。他の人々は生き残れなかった。私が映画用に映像を集め終えた時には、私の体は傷とあざだらけだった。
映画のために私と働いた人々や、当時のムルシ大統領に抗議した人々の中には、現在の親欧米軍事政権の支配を支持する人々はほとんどいない。
2012年と2013年の抗議集会は、エジプトを良くするのが狙いだった。何百万人もの大半の若いエジプト人が、公正で、非宗教的な、社会主義社会を、ムルシが実現するよう強いるのが狙いだった。ムルシは、それを実現するか、より良い、より「進歩的な」リーダーに道を譲り、辞職するよう期待されていた。
その代わりに起きたのは、アメリカ、ヨーロッパとイスラエルに支持されたクーデター、ムバラクのファシスト徒党の復活だった。
振り返って見て、私はムハンマド・ムルシはまともな人間だったと信じるが、同時にひどい、天賦の才のない、素朴で混乱した支配者だった。それでも彼の前や後の連中よりも遥かに遥かにましだった。
*
「ニューヨーク・タイムズ」の論説で、エジプト人筆者モナ・エルタハウィがモハマド・ムルシの悲運について書いた:
「彼は常に、彼よりずっと大きい何かに巻き込まれている人物のように見えた。エジプトの法廷で、彼を沈黙させるよう作られた防音檻の中で、彼が就任してからほぼ6年後に、彼の家族と人権擁護運動家以外のほとんど全ての人々に完全に忘れられて亡くなったことは、彼を巡る極端な竜頭蛇尾を思い起こさせる。」
それから、エルタハウィ女史は、彼の死を現代エジプトの文脈に置いた。
「だが、実際に多くの人々が殺されたムスリム同胞団は、アッ=シーシーが権力の座につくやいなや成立させられた過酷な法律の下で、抗議はほとんど不可能になったエジプトで、集団抗議活動をうまく引き起こすせる可能性はほとんどない。これもアッ=シーシーが達成したことだ。2013年7月、ムルシが打倒され、2016年1月、エジプト議会が再召集したとき、16,000人から41,000人の人々、大半が今や活動を禁止されているムスリム同胞団の支持者が、報道によれば、逮捕されたか拘留された(一部はリベラルか、非宗教的な積極行動主義者だった)。その時以来、死刑宣告と死刑執行の急増、裁判なしの殺害、強制失踪や、いかなる反対意見も抹殺する決然とした取り組みが、ほとんどの他の形の反対派同様、同胞会を押しつぶした。多くの国有メディアが、彼がかつて大統領だったとさえ述べずに、彼の死を報じている同じ時に、ムスリム同胞団支援者は、ムルシは殉教者として称賛されることを強く主張している。」
率直に言って、ムルシ時代は、「あらゆることが可能」で、人が少なくとも夢を見て、遥かに良い未来のために戦うことが可能だった、近代エジプト史唯一の時期のように感じられる。そう、もちろん、争いは催涙ガスを通して行われていた、人々は怪我をし、殺された人々さえいた。だが彼らは勇気があった、彼らは今のように、粉砕されて、屈辱を受けてはいなかった。
いわゆる「アラブの春」は欧米に操作され「作り出された」可能性が極めて高い。だが2011年から2013年の間は、平行した、自立した、左翼の反体制、反資本主義、反軍運動の高まりがあった。闘争があり、エジプトはどんな方向にでも行けたはずだった。
私は決してあの年を忘れまい。「ムルシの年」。我々は、しばしば直接攻撃を経験し、我々の命を危険にさらしていた。異なる政治分派が互いに激しく争っていた。蒸気は出ていた。熱情が人を沸き立たせていた。何も確実ではなく、全てが可能だった。
その年、映画を制作しながら私は社会主義医師の集団、正真正銘のマルクス主義者と一緒だった。彼らは、もし彼らがより激しく戦えば、エジプトが社会主義になれるのを疑っていなかった。私は革命社会主義組織の指導者の一人ワッシム・ワグディとも働いた。
そして全てが文字通り一夜で崩壊した。2013年7月3日。
全てが終わったことに気がついたのはいつだっただろう? それはヘリオポリスで、カイロの裕福な郊外で、公園で起きた。何百という金持ちの家族がアッ=シーシーと彼の旧友を描いたTシャツを着て、クーデターを祝いに行ったのだ。それは1973年9月11日の歴史的写真の一枚のように見えた。チリでピノチェト大将によるアジェンデ大統領に対するクーデター行われた日だ。それは異なっていた、もちろんそうだ。だがそれは同じように見えた。アメリカが支援するクーデターは常に同じように見える。そして彼らを支援するエリートの顔も同様だ!
私はイスタンブールからベイルートまで、ミドル・イースト航空に乗りながら、ムルシの死について読んだ。私は大きな悲しみを感じた。なぜかは、わからなかった。確かに、それはムルシの統治に対するものではなかった。だが、それはあの時期、今は全く窒息させられ、断念された希望のためだった可能性が高い。「全てが可能で」、人々が自分たちの国のために戦う用意ができていて、戦うのをいとわなかった日々に対するものだ。
エジプトは今「破綻」国家だ。恐れ、挫折し、貧しく、全く腐敗している。自身の国民を滅ぼしている国。
最近、私がカイロにある無数のスラムの一つに行くと、人々はあからさまな憎悪で私を見る。彼らは、私を外国人として、彼らを絶望と窮乏の状態に後戻りするのを手助けした人物として見る。もちろん、彼らは数年前に、私が並んでエジプトの社会主義の前衛たちと一緒に、少なくとも映画製作者として、彼らのために戦ったことを知らない。
ムルシ大統領にではないにせよ、人としてのムルシに私は悲しみを感じる。どういうわけか彼が倒れて死ぬ前に読んだ愛国的な詩は、彼の心から直接出ていたのが私には分かる。
支配した一年彼は最善を尽くした。最善は十分に良くはなかった。彼は失敗した。
だが彼は檻の中で発言を制限されて屈辱を受け、このように死ぬには相応しくない!
彼はより良い運命を得てしかるべきだった。彼の国エジプトは遥かに良い運命に値する、なんてこった!
Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、China and Ecological Civilizationを含め、多くの本を書いている作家。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。
記事原文のurl:https://journal-neo.org/2019/06/25/morsi-died-reciting-a-patriotic-poem-in-a-cage/
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「民衆に『自由と可能性』を齎す国家指導者がこうむる報いとは」
メタボ・カモ様、いつも良質な記事の翻訳とご紹介をありがとうございます。
これまでの私のコメントをお読みになった方々は既にご承知のことでしょうが、私はアンドレ・ヴルチェク氏の記事から、彼の温かな人間性と優しい眼差し、そして欧米支配者層の暴挙に対する強い怒りをいつも受け止めています。時には涙なしに読み進めないほどです。アジア、中東、アフリカ、中南米。日米欧からみれば"Rest of the World"と切り捨てられがちな地域で、貧しくも手を取り合いながら自らとその子孫の未来のために闘っている無名の人々が、いま現在もちょうどこの瞬間にも息づいていると、彼の記事が私に教えてくれるのです。
今回の記事は故エジプト大統領ムルシー氏の追悼でした。ヴルチェク氏の記事にあるように、彼は民主的に選出されたものの軍事クーデターによって排除された、歴史上あまたいた悲劇の国家指導者の一人でした。故チリ大統領のサルバトール・アジェンデ氏と記事で対比されたように、一瞬とはいえ民衆に『自由と可能性』を垣間見せた一人の人間でした。彼の業績に対する評価は芳しくなかったかも知れない、でも彼が置かれた立場に立ったと想像すれば、超人でない限り上手くやりおおせることは出来なかっただろうと私は思います。欧米の支配者層に阿って権力を維持することは、あらゆる悪魔の誘惑よりも容易に応じ得たでしょう。でも彼はそうしなかった。国内の分裂を強大な権力で抑え込むことはしなかった、いや出来やしなかった。今も昔もエジプトの暴力装置は欧米と繋がっているのだから。
ムルシー氏と共に私の脳裏に浮かぶのは故ユーゴスラビア・セルビア大統領のスロボダン・ミロシェビッチ氏。獄死後に旧ユーゴスラビア国際刑事法廷で無罪判決が下った元戦争犯罪人です。私の眼にはムルシー氏がミロシェビッチ氏に重なって映ります。彼も上手くやれなかった国家指導者でした。あの混乱を乗り切れる国家指導者が果たして人類に居るのか、と思わせるほどの連邦解体劇。そしてATOの横暴、真の戦争犯罪(捕虜虐待・臓器密売)が見過ごされた上にセルビアの暴挙のみにクローズアップしたマスメディアの罪、全てがミロシェビッチ氏にとって不利でした。
2014年のウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌーコビッチ氏のロシアへの亡命劇も想起されます。もし彼が西側に捕らえられていたら混乱のうちに暗殺、あるいは国家犯罪人として裁かれていたことでしょう。彼も上手くやれなかった国家指導者でした。
でも、民主的な選出された正当な国家指導者であった、という事実は変わりありません。これはムルシー氏、ミロシェビッチ氏、アジェンデ氏と共に揺るぎようのない歴史的事実なのです。民衆は彼らを選んだのです。その民衆の信任を裏切るような暴力的なクーデターとそのあとに据えられた人形たち。後にそんな人形たちから手痛い復讐を受けるのは悲しいかな、道理のようなものです。彼らが理りを曲げているのですから、正しきものたちを排除しない限り正当化は出来ないのです。
投稿: 海坊主 | 2019年6月30日 (日) 15時17分