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2017年8月 2日 (水)

アフガニスタンで、ロシア人は記憶に懐かしく残っている

2017年7月29日
Andre Vltchek
New Eastern Outlook

これは読者が読むとは想像もしていなかったはずの記事だ。アフガニスタンにおける“ソ連時代”のあらゆる記憶は封じ込められ、更には“否定的”やら“有害”だとまでいう烙印が押された。この話題の論議は、少なくとも欧米やアフガニスタン国内の‘上流社会’では許されていない。

ソ連は巧みにアフガニスタンに引きずりこまれ、共産主義超大国は、アフガニスタンで止めを刺された。‘共産主義に対する資本主義の勝利’と欧米公式説明は叫んだ。‘人類に対するあらゆる進歩的代替案の一時的破壊だ’と反撃する向きもあったが、大半小声のささやきだった。

ゴルバチョフ/エリツィンの、恐ろしい残虐で屈辱的な時期、筆舌に尽くし難い苦悶を経験し、ロシアは、地理的にも、人口的にも縮小した。ロシアは大出血していた。欧米が一時的勝利を慶賀し、旧植民地の再征服を思い描いて、世界地図を前に踊っている間、ロシアは自らの排泄物の中に浸かっていた。

だが結局ロシアは生き延び、立場と威厳を取り戻し、再び欧米グローバル帝国主義者の狙いと直接対立する地球上で最も重要な国の一つになった。

アフガニスタンは決して回復していない。1989年、ソ連最後の戦闘部隊がアフガニスタンを去った後、アフガニスタンは長年、残虐な内戦に焼き尽くされて、酷く破壊された。進歩派政権は、オサマ・ビン・ラディンのような連中が聖戦大虐殺を指揮する、欧米やサウジアラビアが支援したムジャヒディーンという途方もない脅威と直面せざるを得なかった。

社会主義者、共産主義者、非宗教主義者や、旧ソ連や東欧圏諸国で教育を受けたほとんど全ての人々は、殺害され、亡命し、あるいは何十年も沈黙させられた。

欧米に定住した人々の大半は裏切ったに過ぎない。欧米の公式言説と教条を受け入れている。

今でも左翼だと自称する人々でさえ、事前承認されているウソをおうむ返しに繰り返して来た。

“おそらくソ連は、ムジャヒディーン、タリバンや、欧米ほど悪くはなかったが、それでも実際十分悪かった。”

ロンドンやほかの場所で、堕落したアフガニスタン人‘エリート’や連中の子供たちが語るこうした話を聞いていた。最初から私は疑っていた。そして私の仕事、アフガニスタンへ、そして国内の旅が始まった。国中の何十人もの人々と話し、思いとどまるように言われたことをした。護衛も防御も無しに、至る所にドライブし、人里離れた村のど真ん中で止まり、麻薬がはびこる命にかかわるような都市スラムに入り、カーブルや、ジャララバードや他の場所で、著名な知識人と接触した。

“どこから来られましたか?”と良く尋ねられた。

“ロシアです”と答えていた。これは極端な単純化だ。私はレニングラード、今のサンクトペテルブルクで生まれたが、私は信じられないほど、中国、ロシア、チェコとオーストリアの血が混じっている。それでも、アフガニスタンの砂漠や深い渓谷の真ん中で、特に生命が危険に晒されていると分かっているような場所で“ロシア”の名が自然に思い浮かぶ。この世で最期の言葉を言えと言われたら、“ロシア”でありたいものだ。

ところが私がそう言うと、アフガニスタン人の表情は思いの外、突然和らぐ。“ようこそ!”私はこれを何度も聞いた。それから質素な家に招待される。休んでゆけ、食事をしてゆけ、水を一杯のんでゆけと言われる。

‘なぜだろう?’と私は不思議に思ったものだ。“なぜですか?”と私はとうとう友達になった運転士兼通訳のアリフに尋ねた。

“この国ではアフガニスタン人はロシア人が好きだからですよ ”彼はこともなげに答えた。

“アフガニスタン人はロシア人が好きですか?”私は疑問に思った。“あなたは?”

“ええ”彼は微笑んで答えた。“私は好きです。アフガニスタン人の大半はそうです.”

*

二日後、装甲UNESCOランド・クルーザー車内に座り、旧ソ連で教習を受けたエンジニア、今ではただの運転手、ワヒード・トーリャライと話していた。彼は実名を出して良いと言った。彼は何も恐れておらず、怒りをため込んでおり、彼はそれを吐き出したがっているのが明らかだった。

“眠る時、今でも時々旧ソ連を夢に見ます。その後は、目覚めてから丸一カ月は幸福です。今でも、あそこで見た全てを私は覚えています…”

‘あそこで’一体何が彼をそれほど幸福にしたのか知りたかった。

ワヒードは躊躇しなかった。

“人ですよ! 皆実に親切で。とても歓迎してくれました… ロシア人、ウクライナ人… あそこでは、私は実にくつろいでいました。彼らの文化は我々のものとそっくりです。ロシア人がアフガニスタンを‘占領した’という連中は身売りしているのです。ロシア人は、アフガニスタンに対し、非常に多くのことをしてくれました。彼らは‘マクロヤン’のような住宅地を建設しました。彼らは工場や、製パン所まで建設しました。カンダハルなどでは、人々はいまでもロシア・パンを食べています…”

ソ連時代、アフガニスタンの質素な田舎の至る所で撮影した水道管や、ジャララバードのような都市の中や周辺の精巧な水路を思い出した。

“反ソ連プロパガンダは実に激しいですから”と私は言った。

“ロシア人を憎んでいるのはムジャヒディーンと欧米人だけです”とワヒードは説明した。“そして、連中に仕えている人々。”

更に、彼はこう続けた。

“貧しいアフガニスタン人のほぼ全員、決してロシア人については悪く言いません。しかし、政府の連中は欧米側です。現在、海外で暮らしているアフガニスタン人エリート連中同様。ロンドンやドバイで不動産を買っている連中、自分の国を売りながら…‘世論を作るべく’金を貰っている連中。”

彼の言葉は滑らかに続いた。彼は言いたいことを良く理解していて、痛烈な内容だったが、彼がどう感じているのかは明らかだった。

“ソ連時代の前とその間、アフガニスタンにはソ連人医師やソ連人教師もいました。アメリカやイギリスから来て、アフガニスタンの地方で働いている医師や教師を一人でも見せてください! ロシア人は至る所にいて、今でも何人か名前を覚えています。リュドミラ・ニコラエヴナ… 今ここで働く欧米人医師なり看護婦を一人でも見せてください。以前はロシア人医師や看護婦が国中で働いていましたし、彼らの給料はとても低かったのです… 彼らはその半分を自分たちの生活費に使い、残り半分を貧しいアフガニスタン人に配ったのです… 今アメリカ人やヨーロッパ人がしていることを見てください。連中全員金儲けにやってくるのです!”

バグラム基地で、アメリカの指揮の下、軍務についているジョージア人戦闘員との最近の出会いを覚えている。彼はとんでもない体験を語ってくれた。

“バグラムの前には、ヘルマンド州のレーザーネック米軍基地で軍務についてしました。アメリカ人が撤退した際、連中は地面からコンクリートまではがすのでした。連中はこう冗談を言いました。“我々がやって来た時、ここには何もなかったのだから、我々が去った後も何もなくするのだ…”彼らは私たちが現地の子供たちに食べ物をあげるのを禁じました。食べきれないものは破棄しなければならず、決して現地人にあげてはいけないのです。私はいまだになぜなのか理解できません。アメリカや西ヨーロッパから来た連中は、アフガニスタン人に対して大変な悪意を示しています!”

何という違い!

ワヒードは、ソ連の遺産がいかに突然根絶させられたかをこう想起している。

“タリバン時代以降、我々は全員貧困です。そして飢餓。我々には何もありませんでした。そこに欧米がやって来て、あらゆる所で金銭を浪費しはじめました。カルザイやエリート連中は“アメリカは良い!”と、おうむ返しにして、連中ができる限りのものもつかみ取り続けました。カルザイ政権で働いた外交官たち、エリートは、連中はアメリカやイギリスに家を建てますが、ソ連で教育を受けた人々は、まともな仕事にはつけませんでした。我々全員ブラックリストに載せられました。教育は欧米が独占したのです。ソ連、チェコスロバキア、東ドイツやブルガリアで教育を受けていた場合、連中は面とむかって言うのです。出てゆけ、共産主義者! 今は少なくとも、我々は何らかの仕事につくことが許されています… 私たちは依然、純粋で、身ぎれいで、決して腐敗いしていません!”

 

“人々はまだ覚えているでしょうか?”私はいぶかった。

“もちろん、覚えていますよ! 街なり村の市場お行きなさい。連中に“お元気ですか?”とロシア語で言ってごらんなさい。彼らはすぐさまあなたを家に招き、食事を出し、抱きしめますよ…”

数日後、市場の真ん中で試すと… うまくいった。田舎町で試したが、やはり、うまくいった。最後に、カーブルから約60キロの、タリバンが入り込んでいる村で試したが、そこではうまく行かなかった。それでも無事で済ませられた。

*

プレ・チャルヒ村でシャカル・カリミに会った。現地の長老で、かつてはナンガルハール州の首長だった。

現代アフガニスタンに導入されたシステムで何が最善でしたか?と彼に尋ねた。

彼は最初、汗王朝について話したが、それから、タリバンが、1996年に、カーブルに入った後、残虐に拷問され殺害された左翼アフガニスタン指導者に触れた。

“彼らがナジーブッラー医師に平和に統治させていれば、アフガニスタンにとって最善だったでしょう!”

1979年のソ連侵略について、彼に尋ねた。

“間違った情報を与えられて連中はやってきたのです。最初の間違いは、アフガニスタンに侵入したことです。二つ目の、致命的な間違いは、去ったことです。”

“アフガニスタンに関与していた際のロシア人と欧米人の主な差異は何だったのでしょう?”

“ロシア人は、主に、アフガニスタンの為になるよう、支援すべくやって来たのです。ロシア人とアフガニスタン人の関係は、いつも素晴らしいものでした。本物の友情があり、人々は交流し、一緒にパーティーまでし、行き来していました。”

私はそれ以上は彼に聞かなかった。今何が起きているのか尋ねなかった。それは実に明白だ。“巨大な壁と高電圧ワイヤー”が答えだろう。無人飛行船、至る所にある兵器と、信頼の完全な欠如… ごく少数の超大金持ちと、大多数の絶望的に貧しい人々との間の恥ずべき分裂… アジア大陸で最も貧困にあえぐ国。

*

後で、友人のアリフに、これは皆本当かどうか質問した。

“もちろん!”彼は激しく大声で言った。“100%真実です。ロシア人は道路を建設しました。彼らは我々のために家を建設しました。それに彼らは、アフガニスタン人を非常に良く、まるで兄弟のように扱ってくれました。アメリカ人は、アフガニスタンに何もしませんでした、ほとんど何も。連中は自分の利益しか目にはいらないのです。”

“もし‘アフガニスタンはロシアと組むのが良いか、アメリカ合州国と組むのが良いかという単純な質問で、今すぐ国民投票をすれば、大多数は決してアメリカやヨーロッパとでなく、ロシアと組む方に投票するはずです。なぜかわかりますか? 私はアフガニスタン人です。国が良くなれば私は幸せです。もし国が悪ければ、私は苦しみます! アフガニスタンの大半の人々は、欧米人に洗脳されたか、買収されたかしていない限り、ロシアがこの国に何をしたか良く知っているのです。そして彼らは欧米がいかにわが国を傷つけたか知っているのです。”

*

もちろん、これは、ありとあらゆるアフガニスタン人が考えていることではないが、彼らの大半は絶対に、そう考えている。現地に行き、アフガニスタンの、ありとあらゆる場所をドライブして、質問して頂きたい。もちろん、人はそういうことはしないものと思われている。この“無法状態の”国にやってきて、動き回るなど死ぬほど恐ろしいのだと言われる。そして、人は庶民に直接近寄らないものと思われている。その代わり、人は牙の無い、臆病な学者の著作や従順なマスコミ報道を再利用するよう期待されている。もしリベラルであれば、少なくとも“希望も、解決策も、未来も無い”というように期待されている。

ゴガ・マンダ村では、タリバンと政府軍間の戦闘が依然続いている。地域中で、錆びたソ連軍ハードウエアの遺物や、“ソ連時代”の戦闘で破壊された古い家々が目に付く。

タリバンは丘のすぐ裏に陣取っている。タリバン戦士は、アフガニスタン国軍を、少なくとも月に一回攻撃する。

NATOによるアフガニスタン侵略と、それに続く占領のほぼ16年後、この村は、アフガニスタンの他の何千もの村と同様、電気や飲料水は使えない。歩いて行ける距離に、小学校はなく、小さな、設備の乏しい診療所でさえ、ここから遙か彼方、約5キロ離れている。ここでは、平均的な六人の家族は、一月130ドルで生き延びなければならず、それも家族の誰かが町で実際に働いていればの話だ。

近くの町で教師をしていたラフマト・グルに、“ロシア時代”の方が良かったかどうか聞いた。

一分ほどためらってから、曖昧に答えた。

“ロシア人がここにいた頃は発砲が良くありました… 本物の戦争でした… 人々が死にました。聖戦時代、ムジャヒディーンはあそこに陣地を構えていました… 連中はあの丘から銃撃し、ソ連戦車は川沿いにいました。多くの一般市民が激しい攻撃を受けました。”

彼に更に質問をしようとしていると、通訳がパニックになった。

“行きましょう! タリバンがやって来ます。”

彼はいつも落ち着いている。彼が緊張する時は、本当に逃げるべき時だというのがわかる。我々は走った。アクセルを踏んで、すさまじい速度で幹線道路めがけて走った。

*

別れる前、ワヒード・トーリャライは私の手を掴んだ。彼が何か重要なことを言いたがっているのがわかった。彼が考えをまとめるのを待った。すると、長く使わないためさびついてはいるが、うまいロシア語でこう言ったのだ。

“時々非常に傷つき、怒りを感じます。ゴルバチョフは一体なぜ我々を見捨てたのですか? なぜですか? 我々はうまくやっていたのです。彼はなぜ我々を見捨てたのでしょう? もし彼が我々を見捨てなければ、アフガニスタンの暮しは素晴らしかったはずです。国連運転手になる必要はなかったでしょう… 私は300人が働いていた大きなパン工場の副社長でした。我々は愛する国を作り、食べさせていました。プーチンが我々を捨てないよう願っています。”

そこで彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、彼の話しを聞きながら私は突然鳥肌がたち、メガネが曇った。

“プーチン大統領に言ってください。私があなたの手を掴んでいるように、我々の手を掴んでください。私の国で見たことを彼に言ってください。我々アフガニスタン人は、あるいは少なくとも、我々の多くは、依然、誠実で、強く、正直な人々だと彼に言ってください。こうしたこと全ては終わります。我々はアメリカ人とヨーロッパ人を追い出します。間もなくそうなります。そうなったら、是非やってきて、我々本物のアフガニスタン愛国者の力になってください! 我々はここにいます。待ち構えています。是非戻って来てください。”

アンドレ・ヴルチェクは哲学者、作家、映画制作者、調査ジャーナリスト。彼は、Vltchek’s World in Word and Imagesを制作しており、革命小説『Aurora』や他のを書いている。オンライン誌“New Eastern Outlook”への独占寄稿。

記事原文のurl:https://journal-neo.org/2017/07/29/in-afghanistan-russians-are-now-remembered-with-love/
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アフガン・緑の大地計画―伝統に学ぶ潅漑工法と甦る農業』を書店で見かけた。中村哲氏の新刊。カラー写真満載。

一方、傀儡政府、とんでもないことしかしない。大本営広報部昼の洗脳ワイドショー、こういう話題、扱うのだろうか?余りの愚劣さにあきれ、ここ数日、昼は全くみていない。

孫崎享氏の今日のメルマガ、詳しく書いておられる。、「日報問題の閉会中審査、自民が稲田元防衛大臣の出席拒否の意向。元大臣の出席無しの審査に何の意義があるか。自衛隊が、大臣が関与しないで日報の処理を決定したとすれば、文民統治上深刻な事態。自民党内に「隠蔽」の動き復活。」

目をそらすのがお仕事の大本営広報部、こういう話題、決して扱わない。

※財務省が森友学園に値引き額や分割払い案を提示していた!? 籠池夫妻逮捕の前に財務省職員らの背任容疑の調査を!岩上安身による神戸学院大学教授・上脇博之氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/394082

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コメント

             フィリピン人の独立心=外国の軍隊を国内に置かない心意気
                    -マラウィ市包囲網は着実に狭まる-
 ヴルチェク氏の本翻訳を読んで以前,本コメント欄で紹介させて頂いたことがある小説『ザ・カイト・ライナ-』を思い出した。この本はムスリムの女子学生に紹介された本であるが,1979年のソ連軍によるアフガン侵攻から2001頃まで,G.ブッシュ&ブレア英元首相によるイラク侵略直前までの,ある少女一家のアメリカ移住を描いている。
  この本も例外にもれず,小生は辞書を引き引き所々読んで最終頁至ったにすぎない。何日かしてその女子大生には読み終わったのかと催促された。200頁位の本であったが,知らない単語ばかりで読み切れない。それでも我慢して食堂で読んでいたら,小説に興味あるという店員さんに貸してくれと頼まれた。こちらの習慣によれば「貸してください」は「ください」を意味するから,渡りに船で貸してあげた。
  この作家の文章はアフガニスタンの情景をうまく描くことに成功している。たこ揚げ大会があちこちで開かれていることも分かる。また,アフガニスタンの国土の美しさも十分に感じ取れる。
  問題は,その女子大生に読後感想を尋ねられて返答に窮したことである。小生は小説の文章表現や内容の素晴らしさよりも政治的な内容に関心が強い。その小説が旧ソ連軍を「悪者扱い」していることに賛成できない。アフガニスタンの美しさや習慣の良さを伝える文章が却ってソ連軍侵攻がいかに少女一家に被害を及ぼしたかを浮き彫りにする。そのことを女子学生に伝えるには,こちらの英語能力は十分でない。

 ヴルチェク氏のフィリピン・アフガニスタン潜入文章も,現在形と過去形がうまく組み合わされていてその土地の人々の感情や考えが十分伝わってくる。その表現に『ザ・カイト・ランナ-』の著者と同じものを感じた。
  『ザ・カイト・ランナ-』は米国内ばかりでなく,西側諸国でいろいろな賞を受賞している。読者も多いのだろう。したがって,政治的立場の違いによってヴルチェク氏のアフガニスタン記事に違和感をもつ読者も少なからずたくさんいるに違いない。

  さて,前置きが長くなったが,フィリピンはマラウィ市の紛争状況について申し上げれば,ヴルチェク氏の指摘する通り,紛争の解決の日は近いと思われるが,中東辺りから逃げだしたISIS要員がマラウィ市に入り込めることは不可能に近い。
 2,3日前眺めた地元紙によれば861人のテロリストがすでに殲滅され,マラウィ市内には40ぐらいのマウテ派テロリストが立てこもり200人程度の人質を取っているという。しかしこの40人のテロリストたちはよく訓練されていて,フィリピン政府軍がかなりテコずっている,という。

  終結が近いか,近くないか。それは分からない。しかしヴルチェック氏が説明している通り,紛争はマラウィ市内に抑えられ,他の地方に飛び火していない。
 先月であったろうか,RT.comの映像でマニラから来た女性記者が現地のムスリム指導者にインタビュ-していた。よく聞き取れなかったが,そのリ-ダ-の応答から分かったことは2つ。一つは,奥さんが4人いて,孫も十数人いるとのこと(リ-ダ-がなかなか返答しないので,3度ぐらい女性記者が問い返していた)。二つは,デュルテル大統領を支持して戦うつもりだ,ということ。
  後者から分かることは,フィリピンにおける紛争は,キリスト教対イスラム教の対立とは限らないし,デュルテル大統領支持は75%というのは誇張ではないだろう,ということである。また,フィリピンには10以上の現地語があるが,ウクライナのようにロシア語禁止ということもない。

 ところで評論家故加藤周一(『日本の内と』,文藝春秋社)も指摘しているように,フィリピンの「自国主権の強調(1956年)」つまり自国に外国の軍隊を置かない政策,または国民感情は,ス-ビック基地から米軍を追い出したように,1946年以後も今日なお,根強いことが分かる。ゆえに,フィリピン駐在アメリカ大使館が「米軍がフィリピン政府軍を支援している」といったとき,即座にデュルテル大統領は,「米国から支援を受けていない」と言い返したのである。原子爆弾を落とした側の大統領に落とされた側の市民が抱きついて涙を流す光景は,フィリピンでは考えられないだろう。

追記: ayako様が遠回しに指摘されているように,アフガニスタンでもロシア人と友好的に接する方もいるように,そうでない方もいることが分かる。そもそも祖国を脱出して米国に渡ることができた旧体制派(アフガニスタン,イラン)は「ソ連憎し」であろう。
 一方ベトナムはどうか。サイゴンが陥落したとき,大量の難民(旧体制派)がカナダへ渡った。アメリカ憎しではなかったようだ。最近では日米中心のTPP賛成派の首相を更迭した。TPP11はほとんどあり得ない。日本政府が厄人=官僚を派遣するのは,税金の無駄遣いである。

追記2:シリアのラッカでもISISが多くの人質をとり,銃弾の盾として利用し,最後の抵抗を試みている。マラウィ市のマウテ派も同じ。しかしもう一つの,ISIS共鳴集団アブサヤフはどうなったのであろうか。861人に沢山含まれているのか,どうか。

追記3: 8月5日付けの新聞Bによれば,ティラ-ソン米国務長官はフィリピンの人権侵害に関心を寄せているという。情報源はアムネスティ・インターナショナルや人権諸団体であるが,今月8日にフィリピンで開かれるASEAN拡大外相会議にあわせての国務長官発言であることが分かる。
  中東で,結婚式中の参加者,無辜の民誤爆や,病院の医師や患者を意識的に空爆して殺傷してきた米国こそ人権侵害国に相応しいと思うが,人権侵害を理由に批判した後,その国に侵攻する米国流に対してドュルテル大統領がどう対応するかは今後の課題であろう。

追記4:親米政権のマルコス大統領の派遣した戦車隊を止めたのは,カソリック枢機卿の呼びかけに応じた民衆であった。この時期に親米派の軍人が育成されたことは想像にアマリある。

いつも大変な翻訳の労を有難うございます。
大国の裏側には複雑な利権やら事情が付き物でしょうから、プーチン大統領やロシアを闇雲に手放しで礼賛しようとは思いませんが、それでも、プーチン氏の手腕はお見事ですし、政治と離れたところの、ロシアの文化、芸術が好きなので、やはり、政情はいつも気にかかります。
この記事をすんなり、丸ごと鵜呑みに出来るほど簡単なことではなかったように想像しますが、(アフガニスタンの国内にも、様々な主義、主張の異なる立場が入り組んでいたと思うので) だとしても、欧米、特に、米、イスラエルなどは目に見えて、嗜虐性や手口の狡猾さが、突出しているように思うので、(タリバンやISを使うところも含めて)、それらに比較して、ソ連軍は、ということでしょうか。
ただ、「ソ連軍が介入したことが、アフガン戦争のきっかけになった。」という解説も目にしますので、そのことを恨むアフガン人もいるのだろうと想像すると、政治は本当に、複雑で、難しいですね…。
「昔のアフガニスタン」と検索すると、とても美しい写真が見られて、切なくなります。
図説「ロシアの歴史」という、読みやすい本の中では、介入はソ連の政局内、ごく少数の決定で行われてしまい、当時病身のブレジネフは、「何が起きているか知らなかった」と。←これが本当なら、恐ろしいですが。 その大国ロシアの、近代から現在までも、歴史が壮絶過ぎて、(死者の数も桁違いに多すぎて、想像を絶する。) 読みながら、つくづく、政治の難しさを思いました。
しかし、「知る」「学ぶ」自由がある今の日本の社会の中で、その大切な権利すら放棄して怠けているうちに、稚拙な国民の民度と政治に落ちてしまった、今の日本の状況があるのは、残念、いや、悲しいですね。

大体、稲田元棒えー大臣とやらは辞任した訳でして、それを退任式で見送るみたいな演出をみせられても、違和感を覚えない愚民も愚民だと思いますね。
(選挙の時は饒舌なのに何故か国会や会見の場では言葉の語尾に、あー、うー、おー、えー、いー、を付けてしゃべる大臣だから棒えー大臣sでヨシ)

しかもそこで稲田が何故か笑っているというのに、この国の愚民たちの多くはそれを異常な事とも感じないというボケぶりに呆れてしまいます。

稲田には「自分が不祥事を起こした」という自覚など無いのです。
だから本人は、盛大に送別会を開いてもらってご満悦といった具合なのでしょう。

「今日のアタシ、輝いてるわ。主役よ、最後に主役で退任なのよ。カッコイイー、朋ちゃんサイコー。」
ってな心境なのでしょう。
しかも、これからは思う存分、ダサいファッションに興じられる訳ですから、満面の笑みが出るのも頷けるというものです。

本人はメルヘンの世界に浸って喜んでいるつもりかもしれないけどね、目覚めた国民の疑念は払しょくされてませんよ。

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