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2015年8月 6日 (木)

悲しき原爆記念日

Brian CLOUGHLEY | 04.08.2015 | 00:00
Strategic Culture Foundation

1939年9月1日、第二次世界大戦開始の日、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトは“フランス、ドイツ、イタリア、ポーランド政府 、および、イギリス国王閣下”に書いた書簡で、“戦時中、無防備の人口密集地の一般市民に対する情け容赦ない空爆が、過去数年間、地球上の様々な場所で猛威を振るい、何千人もの無防備な男性、女性や、子供達の手足を失わせたり、死亡をもたらしたりして、あらゆる文明人男女を不快にさせ、人類の良心に深い衝撃を与えた”と述べていた。

空爆による一般市民の大虐殺に、当然の様に彼は愕然とし、呼びかけた国々が、“アメリカ軍は、同じ戦争法規が、全ての敵にも、きちょうめんに遵守されるだろうことを期待して、いかなる場合にも、いかなる状況でも、民間人や無防備の都市の空爆を企てることは決してしない決意を確認する”要請を受け入れることを望んだのだ。

日本の都市広島を、1945年8月6日に、そして三日後に、長崎を破壊し、合計100,000人以上の“無防備の男性、女性や子供達”を死亡させ、核科学者ロバート・オッペンハイマーに、ヒンズーの宗教的、哲学的な文書バガバット・ギータの“「今、われは死となり、世界の破壊者とはなれり。」を引用させた、原子爆弾爆発の70周年を、今年迎える。

原子爆弾開発は、1939年に始まったが、三年後のマンハッタン計画で本格的に動きだした。ルーズベルト大統領が、民間人を含め、2,403人を殺戮した日本のアメリカ真珠湾攻撃の丸二カ月前、1941年10月9日に、計画を承認していたのは実に興味深い。その後のアメリカによる宣戦布告は、戦争に勝利するあらゆる手段に一心に取り組んで、最終兵器を開発するという結果となった。

原子爆弾爆発の前ですら、第二次世界大戦に加わった主要な国々が、壊滅的打撃を与えることを何とも思っていなかったのは明らかだった。イギリスは、自分達の“狙いは、それゆえ二つ、つまり、(i) 破壊と、(ii) 死の恐怖をもたらすこと”だと考え、その狙いの為、ドイツの都市を情け容赦なく爆撃した。ロンドンに対して、1940-41年に、空爆を開始し、30,000人を死亡させた、昼夜をとわない60日間連続空爆をしたのはドイツだというのがその理由づけだった。

爆弾ピンポンという死のゲームで、戦争をする国々は、敵に大損害を与える、より致命的な方法を追い求めていたのだから、こうしたどの国々でも、自国政府の行為に同意しないような国民を見いだすのは困難だっただろう。こうして、マンハッタン計画は巨大な弾みを得て、専門能力と組織の効率の驚くべき発露で、科学者達が原子爆弾を設計し、製造したのだ。

情報通の人々が、破局的企てとなりうると考えていた、原爆プロジェクトについて、ルーズベルト大統領が、ハリー・トルーマン副大統領に全く何も話していなかったのは驚くべきことだ。最初の爆弾は、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドで実験され、原爆の開発に関わった科学者達の懸念を引き起こし、そのうち70人が、原子爆弾の使用は、“想像を絶する規模の荒廃の時代”前触れとなりうる可能性があり、これらの新たに解放された自然の力を、破壊の目的で使用する前例を作る国は、想像を絶する規模の荒廃の時代”に道を開いた責任を負わねばならない可能性があると指摘する書簡を、ルーズベルト大統領に送った。

彼らの書簡は決して大統領に到達することが許されなかった。大統領は書簡の存在を全く知らなかったが、いずれにせよ、原子爆弾は不可欠だとさえ確信しており、軍の核開発に対する姿勢に、深刻な疑念を抱いていたオッペンハイマーに、“敵が何を計画していようとも、アメリカ科学は挑戦する能力がある”と書いた。1945年8月に爆弾投下命令を出した大統領は、ルーズベルトが亡くなった翌日の1945年4月13日にプロジェクトの存在を知ったハリー・トルーマンだったが、どのような結果になろうとも、爆弾は使用される予定だったのだ。

エリック・シュロッサーの啓発的著書『コマンド・アンド・コントロール』に書かれている通り、原子爆弾が使用される数カ月前、驚くほど激しい対日空爆が行われていた。例えば、1945年3月9日夜、“アメリカ爆撃機は、ナパームとゼリー状ガソリンを含んだ2,000トンの爆弾で、東京を攻撃した... 大火災から生じる旋風が、数時間のうちに、東京の四分の一を破壊した。約100,000人の民間人を殺害した... “トルーマンが、“地球上で、これまで見たこともない様な、破滅の雨が空から降ることになる”と冷淡に日本に警告した以上、もっとひどいことが起きるはずだった。

空爆を受けていない日本の大都市はそう多くなく、最終的な犠牲者を選ぶのは容易ではなかった。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、京都は日本の芸術と歴史にとって極めて重要な主要な文化の中心だと指摘した為に、京都は、原爆爆撃対象の4都市から外され 、代わりに長崎が選ばれた。そのような決定によって、人間の運命は決定されるのだ。何万とも知れぬ京都市民は救われたが、長崎の39,000人は、死ぬべく運命づけられた。

最初は広島で、8月6日に“大火災から生じた旋風が都市を飲み込み”、66,000人が死亡した。標的リストの二番目は小倉だったが、恐ろしい運命のいたずらで、都市は煙と、もやに覆われており、爆撃機は長崎に方向転換させられ、おぞましくもファット・マンと名付けられた二発目の原爆が、8月9日に投下された。

対日本戦争はそれで終わったが、この二都市を破壊する間に、8月8日、ドイツの都市ニュルンベルクで、来るべき国際軍事裁判による、ドイツ人戦犯裁判用の指針を含む憲章が、勝利した同盟国の署名によって承認されていたことは記憶されるべきだ。 二重基準の憂慮すべき例として、裁判官達は“以下の行為、あるいはそのいずれも、国際軍事裁判の管轄権内の、そこに個人的責任がある犯罪である... (b) 戦争犯罪: つまり、戦争法や、戦争の慣習法違反。その様な違反... 都市、町や、村の残酷な破壊を含むべきこと”と言われていたのだ。“一般市民や無防備の都市の空爆を企てる”ことは不快感を催す、というルーズベルト大統領の言葉を含んではいなかったが、そのような攻撃は戦時国際法に反することが明らかにされていた。

ニュルンベルク憲章がドイツ人戦犯の有罪判決を導いたが、トルーマンが“空からの破滅の雨”と呼んだ “死となり、世界の破壊者”が日本に猛烈な勢いで降り注いだ、まさにその時にニュルンベルク憲章が署名されたのは、おぞましい偶然の一致だ。

これはつまり、正義は戦勝国だけのものであることを示している。

実に悲しい記念日だ。

記事原文のurl:http://www.strategic-culture.org/news/2015/08/04/sad-nuclear-anniversary.html
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新刊『歴史とプロパガンダ 日米回線から占領政策、尖閣問題まで』有馬哲夫著
第三章 原爆投下は必要なかった 作られたアメリカの公式見解

「アメリカ公文書館の歴史資料から、驚愕の対日プロパガンダの実態を解明する」と帯にある。公式文書によって、公式見解が否定されるわけだ。

第四章は、占領軍のブラックな心理的占領

168-169ページの記述、非常に気になる。恐縮ながら該当部分、転記させていただこう。

 戦後70年もたったのだから、そろそろ占領軍の心理戦の呪縛から抜け出さなければならないのだが、そのためにはまず、占領軍が自分たちに心理戦を行ったのだ、自分たちは洗脳されたのだということを認識し、自分たちの歴史観は歪んでいるのだということを自覚しなければならない。
 さいわい最近の若者を見ると、占領軍の心理戦の呪縛から比較的自由になっているようだ。なかには「ネットウヨ」と呼ばれるグループがあるが、筆者にはマスコミに巣くっている病的自虐史観の老人たちよりはよほど健全に見える。彼らが「ウヨ」とされるのも、占領軍の心理戦によって日本人の歴史観の中心線がかなり左にずれてしまったからなのではないか。

そして、

第五章 国家誕生と同時に始まった中国の侵略

第六章 米中・日中国交正常化と尖閣列島

プルトニウム爆弾の意義については、アーサー・ビナード氏の講演を拝聴して、目からウロコ体験をしたことがある。例えば、下記記事をどうぞ。

〈すべては長崎から始まった〉アーサー・ビナード講演会 2013/10/25

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今日は広島に原爆が落とされてから70年になる。 マスコミに載らない海外記事「悲しき原爆記念日」に、次の記述がある。    (引用) 最初は広島で、8月6日に“大火災から生じた旋風が都市を飲み込み”、66,000人が死亡した。標的リストの二番目は小倉だったが、恐ろしい運命のいたずらで、都市は煙と、もやに覆われており、爆撃機は長崎に方向転換させられ、おぞましくもファット・マンと名付けられた...... [続きを読む]

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