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2014年2月 5日 (水)

アメリカのフォーク歌手、ピート・シーガー、94歳で逝く

David Walsh

2014年1月30日

wsws.org

原文は長文だが、ごく一部のみ翻訳してご紹介する。

月曜、アメリカ人フォーク歌手でソングライターのピート・シーガーが、病を発してまもなく、ニューヨーク・プレスビテリアン病院で、94歳で亡くなった。ほぼ75年間もの経歴で、シーガーは“天使のハンマー”、“ターン!ターン! ターン! (よろずの業に時あり)”“花はどこへ行った?”“おやすみアイリーン”“グァンタナメラ”や“ワインより甘いキッス”を含む多くの最も有名な20世紀後半のフォーク・ソング、プロテスト・ソングを作り、共作したことで知られている。

1936年から1940年代末まで共産党員だったシーガーは、1950年代始めに、ブラックリストに載せられ、1957年には、“関係者の名前を明らかにするのを”拒否したかどで、議会侮辱罪で起訴された。彼の政治的な見解では、歌手は決して、大衆主義的ラジカル派を越えることはなかったが、これは彼の青年期と中年時代、アメリカ左派に対し、スターリン主義が支配的だったことと大いに関係している。

ピート・シーガー

シーガーが逝去すると、1950年代に、彼をブラックリストに載せて苦しませ、迫害することを是認し、あるいは沈黙していた全く同じマスコミのいくつかに、追悼が溢れた。歌手は、数十年前に権力機構に認められるようになり、“アメリカ・フォーク音楽の偉大な老人”としてもてはやされ、1994年に、ビル・クリントン大統領は彼に国民芸術勲章を授与し、同年、シーガーは、ケネディー・センター名誉賞を受賞した。2009年、バラク・オバマの就任式で彼は歌い、今週この歌手の逝去後、NSAオバマ大統領は、その政治的信条ゆえに、長年FBIスパイに追いかけ回されたシーガーを称賛する偽善的声明を出した。

中略

ピーター・シーガーは、1919年に“ヤンキー・プロテスタント”をルーツとする非常に知的で音楽的な家に生まれた。父親のチャールズ・シーガーは、ハーバード大学で教育を受けた作曲家、音楽学者で、世界産業労働者組合(IWW)への共感を含め、左翼的な見解を持つようになり、実質的に、第一次世界大戦に強く反対したがゆえに、カリフォルニア大学バークレー校から首にされていた。

中略

1936年、シーガーは奨学金を得てハーバード大学に入ったが(ジョン・F・ケネディーは同級生だった)、冷笑的な雰囲気に不満を抱き、大恐慌に直面し、ヨーロッパでの脅威を感じる出来事に落ち着けず、二年目に中退した。ハーバード大学で、彼は共産青年同盟に加わっていた(父親も共産党に好意的になっていた。)

中略

第二次世界大戦直前、シーガー、ガスリー、リー・ヘイズと、ミラード・ランペルは、アルマナック・シンガーズを結成し、主に共産党が後援するイベントや労働組合の集会で演奏した。彼等の最大の成功は1941年に録音した“Talking Union”だ。アメリカが第二次世界大戦に参戦し、スターリン主義の共産党がストライキ禁止の公約の最も熱心な執行人となり、“私は‘Talking Union’を歌うのを止めました”とシーガーは後に語っている。

軍から退役した後、1945年12月に、シーガーは、ロマックス、ヘイズや他の仲間と共に“労働者のを歌を作り、全国のアメリカ人に送る”為のグループ、ピープルズ・ソングを立ち上げた。最初に多少成功した後、1948年、この団体は左派リベラルやスターリン主義者が支援した「ヘンリー・ウォーレスを大統領に」キャンペーンにエネルギーを投入し、反共魔女狩りが始まると、政治的・財政的圧力を受け、1950年に解散した。

中略

シーガーや他の人々に(ウインクラーが書いているが更に“聴衆にも萎縮効果があった”)長期的な、志気をそぐ効果があったと思われるこの時期の顕著な出来事は、共産党員と特定された偉大なアフリカ系アメリカ人歌手、ポール・ロブソンが真打ちである、ニューヨーク、ピークスキルでの、1949年8月と9月の二つのコンサートに対する、警察公認の暴力的極右勢力による攻撃だ。

ポール・ロブソン

地元警察の協力を得て、地元のクー・クラックス・クランが組織し、そう疑うに十分な理由があるのだが、連邦捜査員が潜入し、扇動した、人種差別主義で反共産主義の暴徒によって、8月27日、最初のコンサート実現が妨害された。9月4日に予定変更されたイベントでは、25,000人の聴衆をファシストの抗議行動参加者から守るため、ニューヨーク市から来た2,000人の労働組合員が見張りをした。シーガーは、ロブソンの前に数曲演奏し、コンサートは平和裡に終えた。ところが警察に守られ、配置された右翼暴徒連中が道路に沿って聴衆を待ち伏せし、シーガーや妻と3歳の息子を乗せた自動車を含め、イベント会場から去る自動車に大きな石を投げつけた。彼の自動車は、3.2キロの間に、15個の岩をぶつけられ“ほとんど全ての窓が割れた。”

1948年、シーガーは、ヘイズ、ロニー・ギルバートやフレッド・ヘラーマンと、“アルマナック・シンガーズをより洗練し、より十分に稽古し”(ウインクラー)、ゲアハルト・ハウプトマンの1892年の自然主義演劇ドラマにちなんで名付けた、ウイーバーズを立ち上げた。彼等は、1950年、デッカ・レコードで録音した“グッドナイト・イレーヌ”で大成功した。この歌は、ヒット・チャートで13週間トップを維持した。ザ・ウイーバーズは更にデッカでヒットを出し、“オン・トップ・オブ・オールド・スモーキー”“キシズ・スイーター・ザン・ワイン(ワインより甘い口づけ)”や、ガスリーの“ダスティ・オールド・ダスト”を含め、彼らのレコードは2年間で、400万売れた、

このグループは左翼の大義や歌とのつながりを避けていたにもかかわらず、FBIの密告者がシーガーとヘイズを共産党員だとして、赤の恐怖はついには彼等をも巻き込んだ。

1950年、芸能界の様々な俳優や歌手を“アカ”だと特定する下劣な反共産主義の小冊子「レッド・チャネルズ」が出現したが、シーガーの名前はこの書物に13回登場していた。ウイーバーズは、次第にショーやコンサートをキャンセルされ、仕事が枯渇してゆくのに気がついた。“1952年2月、あるFBIの密告者が…下院非米活動委員会[HUAC]で、ウイーバーズと共産党との関係について証言して、更にひどくなった”(ウインクラー)。当面解散していたグループは、三年間ブラックリストに載せられた。彼等は、1955年12月、ターネギー・ホールでのコンサートの為に再結成したが、コンサートは大成功だった。

1955年8月、シーガーは下院非米活動委員会への出頭を要求する召喚令状を受け取った。8月18日の公聴会で、この歌手は極めて勇敢に行動し、実に多くの人々がそうしたように米国憲法修正第5条(自己に不利な証人となることを強制されない)を行使するの拒否し、そうではなく、言論の自由を擁護する米国憲法修正第1項を侵害するという理由で、名前を挙げたり、自らの政治的経歴を語ったりすることを拒否した。

委員会の立ち入った質問に対して、シーガーはこう対応した。“私の交友関係、私の哲学的、宗教的信条や、私の政治信条や、選挙でどう投票したか、こうしたプライベートな問題のどれに関するいかなる質問にも答えるつもりはありません。こうしたものは、どんなアメリカ人に対しても、尋ねるべき質問として適切とは思いません、特にこのような強制のもとでは。もし皆さんが、お聞きになりたいのであれば、私の人生について喜んでお話しましょう。”

1957年3月、歌手は議会侮辱罪のかどで起訴され、1961年3月に裁判で有罪判決を受けた。シーガーは禁固10年、連続服役する判決を受けたが、1962年5月、控訴裁判所は、細かい規則を理由に、そもそもの告訴を却下した。左翼分子をブラックリストに載せ、粛清するのは御用済みになったのだ。支配階級は新しい話題に移ったのだ。

中略

2007年のピート・シーガー、Anthony Pepitone撮影

シーガーはその後、環境問題、特にハドソン川の浄化に打ち込んだ。彼は演奏と録音を続け、先に書いた通り、1994年10月、ホワイト・ハウス南庭での式典で、クリントン大統領から国民芸術勲章を贈られて、彼は“孤立状態から”完全に脱した。7週間後、シーガーはケネディ・ センター名誉賞受賞者5人の一人となった。それでも彼はイラクや他の国々でのアメリカ帝国主義の戦争に反対し続けた。1995年にシーガーはインタビュアーに語っている、“教会が解釈するものがキリスト教ではないのと同様、ロシアが解釈するものが共産主義というわけではありませんから、私は今でも自分のことを共産主義者と呼んでいます。”

後略

記事原文のurl:www.wsws.org/en/articles/2014/01/30/seeg-j30.html
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著者は、何度も映画記事を翻訳し、ご紹介している映画評論家。最近の翻訳記事は『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』。予想外に多くの方にお読み頂いている記事だ。

ピート・シーガーすらも迫害された時代、そう遠い昔ではない。小林多喜二、1933年2月20 日に亡くなって81周忌。ノーマ・フィールド教授の『小林多喜二―21世紀にどう読むか』を再読している。

選挙を巡る昔ながらの「レッテル貼り」を見ていて、うんざりする以上に、同じ時代の再来を感じる。前回の記事を訳したのもそれが理由だ。選挙をめぐる最近のブログ記事を拝読しながら、マルティン・ニーメラーのものとされる詩を頻繁に思い出すようになった。

少数派かならずしも間違っているわけではない。正しいがゆえに少数派においやられること、世の中には多かろう。大本営広報部は、都知事選挙の争点を原発にずらし、「国家戦略特区」を争点から意図的にはずしている。「国家戦略特区」こそ本当の争点。一体どういうものかは例えば下記記事が詳しい。

国家戦略特区は「1%が99%を支配するための政治装置」だ 佐々木 実
2月 3rd, 2014
by 月刊日本編集部.

佐々木実氏の『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』、刊行直後、知人に勧められ、腹をたてながら拝読した。もちろん、著者の佐々木氏に腹をたてたわけではない。分析の対象となっている人物の行動に対してだ。

もちろん、IWJで放送された奈須りえ氏の講演は素晴らしいし、IWJには特別寄稿もある。

【IWJブログ・特別寄稿】都知事選の争点〜東京都と国が23区の財布に手を突っ込む時代の都知事に期待すること(前大田区議会議員 奈須りえ)

イノシ氏追い落とし工作開始の時点で、既に東京の「国家戦略特区」化は支配層の構想の核心にあっただろう。

シーガーに戻ると、しばらく前、大本営テレビで「花はどこへ行った?」に関する素晴らしいドキュメンタリーを見た記憶がある。『世紀を刻んだ歌・花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌~』

なんとそのルーツ、ソ連作家ショーロホフの『静かなドン』に出てくるコサックの子守歌だというものだった。にわかには信じられず、一体なぜピート・シーガーがロシアの子守歌を知っているのか不思議に思っていた。

うかつにも、この記事で初めてピート・シーガーの政治信条・経歴を知って納得。

文中にある歌、Talking Union、「組合を語ろう」「組合に入ろう」「組合勧誘の歌」とでも訳すのだろうか?

派遣労働が無期限となり、絶倫氏なり、お殿様なりにより、(あるいは大阪でも異神氏によって)国家戦略特区が徹底的に推進される時代にふさわしい内容に衝撃さえ受ける。

ロシア語版 花はどこへ行った」によれば、
ピートはソ連作家同盟を通じ、ショーロホフにこの曲の楽譜を同封した手紙を書き、1964年8月、ピートがモスクワ公演をする際に会いたいと申し入れたが、ショーロホフの病気のため実現せず、ショーロホフはこの曲を聞くことなく世を去った、という。

難しい検索をせずとも、Wikipediaロシア語版を見ると、それらしき文字が載っている。

花はどこへ行った?、まさかこの国で、本当の痛みをもって歌われる(秘密法と、反共雰囲気の充満で、陰でこっそり歌うことになるだろう)時代がくるとは想像していなかった。

We shall overcome、今回選挙にも、ふさわしいように思える。

We shall overcome someday!

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コメント

昨年から今年に掛けて2人の方に弔意を表した。一人は品川正治氏。当ブログご主人が何度も
引き合いに出される方である。私は,岩波の『世界』で晩年の人柄を知っただけ。しかし,品川氏
を読んで,海運業界がイラク出兵にいち早く反対を表明された訳が分かったのである。世間に疎
い私は,小泉元首相がいち早く証拠もないのに馬鹿ブッシュに賛成したことを忘れない。
 二人目は,我が故郷栃木県の宇都宮市の駅で弁当売りを戦後長く続けてこられた方である。
私の祖父は駅員であった。宇都宮の駅宿舎には祖父が運んだ篠竹が物干竿に利用されていた
という縁で,宇都宮駅に行くたびにうどんを食べていたが,名も知らぬ駅弁売りの方には親近感
を懐いていたので,早速弔意を表した。

 品川駅と宇都宮駅の共通点については当ブログご主人に任せるとして,この翻訳記事によって
ジョアン・バエズの歌を初めて聞いた。Deep in my heart I do believe We shall overcome.また,
Let it be(YouTube).
 生来音痴の小生は音楽に興味がなかった。小学低学年の時,伯父から「君が代」をどう思うと
訊かれたことがあったが,何のことかさっぱり分からなかった。長ずるに及んでその意味が分か
ったが,学校をいくつか卒業して最初に就職した「ブラック企業」の朝会では,君が代を直立不動
で唱っていたのには,ビックリした。
 授業の前にインターナショナルを歌いましょうといわれ,歌い始めたときも何のことかさっぱり分
からなかった。YouTubeのVTRで経済学者の金子勝慶大教授が講演会でこの歌を避けていたの
をみたが,人はなぜ歌を必要とするのだろうか。

 "Deep in my heart I do believe We shall overcome someday"の文学的・政治的解説を聞いた
のは,加藤周一のNHK大学講座『科学と文学』においてである。また,ビ-ト・シンガ-氏が酷い
目に遭った非米活動委員会の存在を知ったのも,加藤に拠るところ大であった。
 また,これがジョアン・バエズの歌であると知ったのは,筑紫哲也氏の「こちらデスク(後にデスク,
TV朝日)によってである。両者とも故人だが,青年の頃にこの二人に出会ったことを幸福に思う。

  オバマ候補が大統領になる前,ジョアン・バエズが彼を応援することにかり出されたのか,自ら
名乗りを上げたのかは知らないが,彼女は古い,という批判があった。しかしそれにも関わらず,
オバマ氏は大統領になることができた。歌の力がなかったとはいえないだろう。
 故に,遅かりし由良之助ではないが,宇都宮けんじ氏陣営に『青い山脈』を今からでも遅くはない
からどうか唱ってくれと私は願い出たが,特定秘密保護法や消費税増税や,国家戦略特区法等で
暗くなった日本に必要なのは,歌ではないだろうか。

 2009年,彼女バエズは,プラハで唱った。そのプラハでオバマ大統領は「核なき世界」を世界に
訴えノ-ベル平和賞を得た。この平和賞は佐藤栄作氏ももらった賞で権威は地に堕ちているが,
オバマの心にも,プラハの市民(プラハの春の市民の子孫)の心にもバエズやシンガ-の歌が息
づいているように,われわれの心には,敗戦後の日本に希望を与えた『青い山脈』が息づいてい
るのではないだろうか。
 渡邉一夫の「地には平和を」からバエズの "We shall live in peace." まで。 
 

 
  


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