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2014年2月 5日 (水)

アメリカのフォーク歌手、ピート・シーガー、94歳で逝く

David Walsh

2014年1月30日

wsws.org

原文は長文だが、二人の評論家による評価部分の翻訳を省いて、ご紹介する。

 月曜、アメリカ人フォーク・シンガー・ソングライター、ピート・シーガーが病を発してまもなく、94歳でニューヨーク・プレスビテリアン病院で亡くなった。ほぼ75年間もの経歴で、シーガーは“天使のハンマー”、“ターン!ターン! ターン! (よろずの業に時あり)”“花はどこへ行った?”“おやすみアイリーン”“グァンタナメラ”や“ワインより甘いキッス”を含む多く有名な20世紀後半のフォーク・ソング、プロテスト・ソングを作り、共作したことで知られている。

 1936年から1940年代末まで共産党員だったシーガーは、1950年代始めに、ブラックリストに載せられ、1957年には“関係者の名前を明らかにするのを”拒否したかどで、議会侮辱罪で起訴された。彼の政治的見解では、彼は決して大衆主義ラジカル主義を越えることはなかったが、これは彼の青年期と中年期、アメリカ左派で、スターリン主義が支配的だったことと大いに関係している。

 シーガーが逝去すると、1950年代に彼をブラックリストに載せて苦しませ、迫害するのを是認したり、沈黙したりしていた全く同じ、いくつかのマスコミに追悼が溢れた。この歌手は、数十年前、権力機構に認められるようになり、“アメリカ・フォーク音楽の偉大な老人”としてもてはやされ、1994年、ビル・クリントン大統領は、彼に国民芸術勲章を授与し、同年シーガーは、ケネディー・センター名誉賞を受賞した。2009年、バラク・オバマ就任式で彼は歌い、今週この歌手の逝去後、オバマ大統領は、政治的信条ゆえに長年FBIスパイに追い回されたシーガーを称賛する偽善的声明を出した。

 同時に、シーガーの逝去は、彼の人生と仕事に精通した人々から本物の同情と悲しみの流露を引き起こした。彼の音楽、彼の明白な誠実さと主義は、多数の人々を感動させ影響を与えたのだ。

 私が1998年にフォークシンガーのデイブ・ヴァン・ロンクにインタビューし、シーガーについて尋ねた時、彼は答えた。「おお彼は素晴らしい音楽家だ。彼は音楽家として不当に扱われた一人だ。彼は非常に素晴らしい音楽家で非常に素晴らしい歌手だ。彼は表現がうまい。私の職業を発明してくれた人物に私が言うべきことなどあるだろうか?」

 ピーター・シーガーは、1919年“ヤンキー・プロテスタント”をルーツとする非常に知的で音楽的な家庭に生まれた。父親のチャールズ・シーガーはハーバード大学で教育を受けた作曲家、音楽学者で、世界産業労働者組合(IWW)への共感を含め、左翼的見解を持つようになり、本質的に、第一次世界大戦に強く反対したがゆえに、カリフォルニア大学バークレー校を首にされていた。

 シーガーの母親、コンスタンス・ド・クリヴァ・エドソンはパリ音楽芸術学校で学び、後にジュリアード音楽院で教えた有能なバイオリン奏者だった。デイビッド・キング・ダナウェイの本、How Can I Keep from Singing?: The Ballad of Pete Seeger(なぜ私が歌いつづけられるのか。ピート・シガーのバラード 1990年)によれば「クラシック音楽が彼女の生活を支配していた。彼女はバイオリンを通して会話していた。」シーガーが非常に若かった頃に両親は離婚し、1932年に父親は再婚した。シーガーの継母はルース・クロウフォード・シーガーで、有名なモダニスト作曲家だった。

 1936年、シーガーは奨学金を得てハーバード大学に入ったが(ジョン・F・ケネディーは同級生だった)冷笑的な雰囲気に不満を抱き、大恐慌に直面し、ヨーロッパでの脅威を感じる出来事に落ち着けず、二年目に中退した。ハーバード大学で、彼は共産青年同盟に加わった(父親も共産党に好意的になっていた。)。

 この頃までに、シーガーはバンジョーを弾いていた。彼がハーバード入学直前、シーガーはノースカロライナ州アシュビルで父親とフォークソングとダンスのフェスティバルに参加した。「To Everything There is a Season”: Pete Seeger and the Power of Song (あらゆるものには時期がある ピート・シーガーと歌の力)(2010)」でアラン・M・ウィンクラーは書いている。「ピートは魅了された。「私の国には、ラジオで決して聞いたことがない良い音楽があることを発見し、歌詞には意味があるのに気がついた。」

 彼の父親を通して、シーガーは、ハディー・レッドベターやウッディー・ガスリーを録音していたフォーク音楽の著名コレクター、アラン・ローマックスに出会った。ビンクラーは更に「ローマックスは、彼をアパラチアの炭鉱夫と結婚したフォークシンガーのアーント・モリー・ジャクソンなどの人々に紹介した。彼[シーガー]は魅了された。」と説明している。ローマックスはアメリカのフォークソング・アーカイブで彼と働くためシーガーを雇い、1940年3月、彼に移民農民のための慈善コンサートで公衆の前で歌う最初の機会を与えた。そのコンサートで、シーガーはガスリーと知り合い、二人は親友になった。

 第二次世界大戦直前、シーガー、ガスリー、リー・ヘイズとミラード・ランペルは、アルマナック・シンガーズを結成し、主に共産党が支援する催しや労働組合集会で演奏した。彼等の最大の成功は1941年に録音した“Talking Union”だ。アメリカが第二次世界大戦に参戦し、スターリン主義の共産党がストライキ禁止の公約の最も熱心な執行人となって、“私は‘Talking Union’を歌うのを止めました”と後にシーガーは語っている。

 1945年12月、軍を退役した後、シーガーは、ロマックスやヘイズや他の仲間と共に、1945年12月に、全国のアメリカ人に労働歌を送る為のグループ“People’s Songs"を結成した。最初に多少成功した後、1948年、この団体は左派リベラル派やスターリン主義者が支援した「ヘンリー・ウォーレスを大統領に」キャンペーンにエネルギーを投入し、反共魔女狩りが始まると、政治的・財政的圧力を受けて、1950年に解散した。

 彼の純真さと、当時の社会の動的関係に対する理解が欠如していること(スターリン主義環境の内部や周囲で、多くに共有される欠点)を明らかにしているが、当時シーガーの最大の失望は、労働組合が急激に右転換し、このグループを支持するのを拒否したことだった。1947年から、FBIは「電話を盗聴し、資料を集め、集会に潜入して」People’s Songsを徹底的に監視したとビンクラーが書いている。

 シーガーや他の人々に、長期的に志気をそぐ効果があったと思われる(ウインクラーは“聴衆にも萎縮効果があった”と書いている)この時期の重要事件は、1949年8月と9月、ニューヨーク、ピークスキルでの共産党員と確認された偉大なアフリカ系アメリカ人歌手ポール・ロブソンが真打ちをつとめる二つのコンサートに対する、警察公認の暴力極右勢力による攻撃だ。

 8月27日、地元警察の協力を得て、地元のクー・クラックス・クランが組織した人種差別主義で反共産主義の暴徒と、そう疑う十分な理由があるのだが、連邦捜査員が潜入し、扇動して、最初のコンサート実行が妨害された。9月4日に予定変更された催しでは、ファシストのデモ参加者から25,000人の聴衆を守るため、ニューヨーク市から来た2,000人の労働組合員が見張りをした。シーガーは、ロブソンの前に数曲演奏し、コンサートは平和裡に終えた。ところが警察に守られ配置された右翼暴徒連中が、道路沿いで聴衆を待ち伏せし、シーガーや妻や3歳の息子を乗せた自動車を含め、催し会場から去る自動車に大きな石を投げつけた。彼の自動車は、3.2キロの間に15個の岩をぶつけられ“ほとんど全ての窓が割れた。”

 1948年、シーガー、ヘイズ、ロニー・ギルバートやフレッド・ヘラーマンは、(ウインクラーによれば)“より洗練し、十分稽古した新版アルマナック・シンガーズ”である、ゲアハルト・ハウプトマンの1892年の自然主義演劇ドラマにちなみ名付けたザ・ウィーヴァーズを立ち上げた。彼等は、1950年、デッカ・レコードで録音した“おやすみ、アイリーン”で大成功した。この歌は、ヒット・チャートで13週間トップを維持した。ザ・ウィーヴァーズは更にデッカでヒットを出し、“On Top of Old Smokey”“Kisses Sweeter than Wine(ワインより甘い口づけ)”や、ガスリーの“So Long, It’s Been Good to Know You”を含め、彼らのレコードは二年間で、400万売れた。

 このグループは左翼の大義や歌とのかかわりを避けていたにもかかわらず、FBI密告者がシーガーやヘイズは共産党員だと特定し、赤の恐怖はとうとう彼等を巻き込んだ。

 1950年、芸能界の様々な俳優や歌手を“アカ”と特定する下劣な反共産主義の小冊子「レッド・チャネルズ」が現れたが、シーガーの名前はこの書物に13回登場していた。ザ・ウィーヴァーズは、次第にショーやコンサートをキャンセルされ仕事が枯渇してゆくのに気がついた。“1952年2月、あるFBI密告者が…下院非米活動委員会[HUAC]で、ウィーヴァーズと共産党との関係について証言して、一層ひどくなった”(ウインクラー)。当時解散していたこのグループは、三年間ブラックリストに載せられた。彼等は、1955年12月、カーネギー・ホールでのコンサートの為に再結成したが、コンサートは大成功だった。

 1955年8月、シーガーは下院非米活動委員会出頭を要求する召喚令状を受け取った。8月18日の公聴会で、この歌手は極めて勇敢に行動し、実に多くの人々がそうした米国憲法修正第5条(自己負罪拒否特権)の行使を拒否し、そうではなく、言論の自由を擁護する米国憲法修正第1項を侵害するという理由で、人の名前を挙げたり、自らの政治的経歴を語ったりするのを拒否した。

 委員会の立ち入った質問に対し、シーガーはこう対応した。“私の交友関係、私の哲学的、宗教的信条や、私の政治信条や、選挙でどう投票したか、こうしたプライベートな問題のどれに関するいかなる質問にも答えるつもりはありません。こうしたものは、どんなアメリカ人に対しても尋ねるべき質問として適切と思いません、特にこのような強制のもとでは。もし皆さんがお聞きになりたいのであれば、私の人生について喜んでお話ししましょう。”

 1957年3月、この歌手は議会侮辱罪のかどで起訴され、1961年3月に裁判で有罪判決を受けた。シーガーは禁固10年、連続服役の判決を受けたが、1962年5月、控訴裁判所は細かい規則を理由に、そもそもの告訴を却下した。左翼分子をブラックリストに載せて、粛清するのは御用済みになったのだ。支配階級は新しい話題へと移ったのだ。

 デイブ・ヴァン・ロックの言葉が語っているが、マッカーシズム時代の恐ろしい雰囲気が消えた後、若い世代が、様々な程度の真剣さで、より根源的な本物の大衆文化の伝統を知ろうと努める中、シーガーは1960年代初期、フォーク音楽復活の鍵となる人物だった。シーガーとヘイの「If I Had a Hammer」はピーター、ポール&マリーによる版で、かなりの成功を享受した。キングストン・トリオ、ピーター、ポール&マリーとマーリーネ・デートリッヒも、当時「Where Have All the Flowers Gone花はどこに行った?」を録音した人々だった。

 シーガーは、南に旅行して、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアに会い、種々の抗議行動に参加し、公民権運動に関与した。「We Shall Overcome」の彼の版はその戦いの賛歌の一つになった。彼は、明らかに、リンドン・ジョンソン大統領を、大惨事の中に、より深く、更に深く「押し進むように言った」「大ばか者」と呼ぶ「Waist Deep in the Big Muddy 腰の深さまでの深い泥に」という寓意的な歌を書き、反ベトナム戦争運動に参加した。1967年9月、CBSが「Smothers Brothers Comedy Hour」で、歌の彼の演奏(1950年以来、ネットワークTVでの彼の初演奏)を抑圧した時に、論争が起きた。1968年2月に放送された、この番組の放映で、シーガーが「Waist Deep in the Big Muddy」歌うよう再出演させられるほど、大衆の怒りは激しかったのだ。

 1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルにおける出来事は物議をかもしたままだ。かつてシーガーを「生きる聖人」と言ったボブ・ディランが、歌詞が不明瞭な形で電気楽器で演じた際、シーガーは音響効果係に駆け寄り、彼が後に主張したが、彼に「言葉が聞けるように、音声を直せ!」と言った。「これは連中がやりたい方法なのだ」と言われると、シーガーは「私が斧を持っていたら今すぐケーブルを切断する。」と答えた。彼は後にディランの「電気楽器の歌」に反対ではなく、「電気楽器音楽は20世紀後半に特有なものだ」と断言した。

 シーガーはその後、環境問題、特にハドソン川浄化に打ち込んだ。彼は演奏と録音を続け、先に書いた通り、1994年10月、ホワイト・ハウス南庭での式典で、クリントン大統領から国民芸術勲章を贈られ、彼は“孤立状態から”完全に脱した。7週間後、シーガーはケネディ・センター名誉賞受賞者5人の一人となった。それでも彼はイラクや他の国々におけるアメリカの帝国主義戦争に反対し続けた。1995年、シーガーは、あるインタビュアーに語っている“教会が解釈するものがキリスト教ではないのと同様、ロシアが解釈するものが共産主義というわけではありませんから、私は今でも自分のことを共産主義者と呼んでいます。”

 ピート・シーガーの音楽

以下、WSWSの批評家ヒラム・リーとポール・ボンドにシーガーの音楽業績についての意見部分を省

 評価

 誰に聞いても、ピート・シーガーは、きちんとした、親しみやすい人物だった。彼の音楽や彼の歌い方には深い誠実さがあった。彼は魅力的なペルソナで、世界中にファンが広がった。彼が歌うこと、彼がすることは、人々にとって重要で、影響を与えた。ヒラム・リーが示唆するように、最高の状態では、彼の音楽は、彼の理想、戦いの感覚と、生命の可能性の感覚を具現化だった。

 シーガーは何世代も遡る本物のアメリカのポピュリスト・ラディカリズム伝統の家庭の出だ。家族的背景を彼は1957年に書いていた。「高祖父シーガーはプロイセンの圧制的権力行使にうんざりして、アメリカに来て、情熱的なジェファーソン崇拝者だった。更に息子全員にドイツ語を教えるのを拒否した。新しい共和党・民主党のために演説して(その間医者として生計を立て)ニューイングランドを巡った。一世代後、家系のもう一つは、実に熱心な奴隷制度廃止論者だった」(ピート・シーガー:In His Own Words、2012)。

 多くの「ヤンキー・プロテスタント」を含め、多くのアメリカのラディカル派が、ロシア革命と、もちろん大恐慌の壊滅的影響で左傾した。シーガーの人生最大の悲劇は、実に多くの人々と同様、ソ連におけるスターリン主義の増大と、国際的労働者階級に対するグロテスクなの裏切り行為と犯罪だった。スターリン主義体制とソビエト「社会主義」に対する恥ずべき甘い考えという点で、シーガーは決して一人ではなかった。彼は後にスターリンに対する彼の誤解を「詫びた」。

 アメリカのスターリン主義者は、土着のポピュリスト・ラジカリズムに食い込み、それを誤用し、利用し、間違った方向に向け、CIOの発生期の労働組合官僚とともに、身勝手に、フランクリン・ルーズベルトと民主党に委ねたのだ。シーガーや実に多くの他の人々が推進した民主党とブルジョア政治への労働者階級の人民戦線風従属の結果は悲惨だった。今日、労働者は、政治的独立を確立するのに失敗したことで、途方もなく大きな代償を支払っている。

 しかしながら、シーガーは何よりも、政治家ではなく音楽家だった。かなりの部分、ポピュラー音楽家は、時代の条件で、彼らに提供されている枠組みの中で働くのだ。

 彼の風貌や演奏様式の要素はいらだたしいものであり得た。例えば、巻き上げた袖や、時々の不要な「平易な」語り。彼らは自意識過剰や、不自然に思える「労働者主義」を示唆する。だが私は、本質的には、これがごまかしや、いんちきだったとは思わない。

 私の考えでは、これら刺激的な要素は、何よりも、スターリン主義の優位によって引き起こされた、ずっと大きな問題を物語っている。ロシア革命前後の期間は、ある程度まで、最も先進的な政治と、最も先進的な芸術の合流があったのだ。スターリン主義官僚は、国家的・特権的存在を擁護するため、この両方に対し、戦わなければならなかった。

 反革命官僚版の「プロレタリア文化」、後に、その「社会主義リアリズム」は、往々にして、そうだと描かれているような、プロレタリアートの人生と状態を、雑な「二流の」形で描くことを目指してはいなかった。逆に、そうしたものは、批判的考えや反対意見を押さえつけ、大衆の運命に対する本物の芸術的関心を、陳腐な公式や、偽善や「偉大な指導者」の絶賛などを駆使して、積極的に鎮圧するよう意図されていた。

 1930年代や1940年代、様々なスターリン主義「理論」は、多くの誠実な左翼芸術家や知識人に、自身を検閲しなければならず、19世紀の偉大な小説家や芸術家のように、複雑な状態や、考えや感情や、全ての社会的階級や層の間の関係ではなく、貧しく、虐げられた人々の直接の状態だけを描くべきだと確信させる上で、有害な影響を与えた。

 シーガーはクラシック音楽の豊富な家庭の出身だ。彼は同様に、正統派ながら異なる芸術路線を選択したが、なぜ、これ見よがしに、自分の伝統を一生否定したのだろう? 彼は彼の1957年の自伝的発言で、芸術的見地からではないが、遠回しに、これに言及している。「私は祖先を忘れようとして青年期の多くを過ごした。私は告白する。私は彼らを無視しよう、けなそうとした。私は彼ら全て上流階級だと感じ、私は自身を労働者と同一視しようとしていた。」

 私の考えでは、それ故に、彼が投影し、養った、人工的で、いくぶん不自然な「プロレタリア」映像なのだ。

 彼の限界にもかかわらず、シーガーの音楽には非常に多くの永続的価値がある。全ての、いくぶん生真面目な極端に単純化したり政治的に束縛されたりしている演奏には、一つ、あるいは、それ以上の注目に値する正直さと美しさがある。シーガーの独演あるいは共演の多くのビデオがオンラインで見られる。

 私は1963年のメルボルンにおける『Michael Row the Boat Ashore』や、1970年、ジョニー・キャッシュ・ショー出演での誠実さには、誰も異論をさしはさめるとは思わない。あるいは、それを言うなら、1966年、シーガー自身の短命な白黒テレビ番組「Rainbow Quest」でのジューン・カーター・キャッシュの異例の出演(52分)。あるいはドノバンとのシーガーのデュエット「Colours」、あるいは彼の、ソニー・テリーとブラウニー・マクギーとの「Down by the Riverside」、あるいはシーガーとドック・ワトソンの歌う「Lonesome Valley」。その他諸々。

 アメリカにおける現代ポピュラー音楽の危機を測る方法は、こう問うことだ。シーガーと比べられるような、どんな歌手が、これまでの30年、あるいは40年に出現しただろう? 彼の理想や関心は、もはや音楽現場の一部ではない。もちろん芸術音楽の課題の質は現在、非常に異なっており、より複雑で、人生や様々な音楽ジャンルで起きていることを無視したり、避けたりすることはできない。

 だが、我々が今の現実に、豊かな有意義な方法で対処するつもりなら、音楽界の誰も、シーガーが一生の仕事で基礎にしていた、品位や、巧妙さや意志の強さなしに済ますことはできない。

記事原文のurl:www.wsws.org/en/articles/2014/01/30/seeg-j30.html
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著者は、何度も映画記事を翻訳し、ご紹介している映画評論家。最近の翻訳記事は『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』。予想外に多くの方にお読み頂いている記事だ。

ピート・シーガーすらも迫害された時代、そう遠い昔ではない。小林多喜二、1933年2月20 日に亡くなって81周忌。ノーマ・フィールド教授の『小林多喜二―21世紀にどう読むか』を再読している。

選挙を巡る昔ながらの「レッテル貼り」を見ていて、うんざりする以上に、同じ時代の再来を感じる。前回の記事を訳したのもそれが理由だ。選挙をめぐる最近のブログ記事を拝読しながら、マルティン・ニーメラーのものとされる詩を頻繁に思い出すようになった。

少数派かならずしも間違っているわけではない。正しいがゆえに少数派においやられること、世の中には多かろう。大本営広報部は、都知事選挙の争点を原発にずらし、「国家戦略特区」を争点から意図的にはずしている。「国家戦略特区」こそ本当の争点。一体どういうものかは例えば下記記事が詳しい。

国家戦略特区は「1%が99%を支配するための政治装置」だ 佐々木 実
2月 3rd, 2014
by 月刊日本編集部.

佐々木実氏の『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』、刊行直後、知人に勧められ、腹をたてながら拝読した。もちろん、著者の佐々木氏に腹をたてたわけではない。分析の対象となっている人物の行動に対してだ。

もちろん、IWJで放送された奈須りえ氏の講演は素晴らしいし、IWJには特別寄稿もある。

【IWJブログ・特別寄稿】都知事選の争点〜東京都と国が23区の財布に手を突っ込む時代の都知事に期待すること(前大田区議会議員 奈須りえ)

イノシ氏追い落とし工作開始の時点で、既に東京の「国家戦略特区」化は支配層の構想の核心にあっただろう。

シーガーに戻ると、しばらく前、大本営テレビで「花はどこへ行った?」に関する素晴らしいドキュメンタリーを見た記憶がある。『世紀を刻んだ歌・花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌~』。下記記事で、様子がわかる。

【番組紹介】 NHK・BS2003年4月6日再放送
世紀を刻んだ歌 Where have all the flowers gone
『花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌』

https://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/music2.htm

なんとそのルーツ、ソ連作家ショーロホフの『静かなドン』に出てくるコサックの子守歌だというものだった。にわかには信じられず、一体なぜピート・シーガーがロシアの子守歌を知っているのか不思議に思っていた。

うかつにも、この記事で初めてピート・シーガーの政治信条・経歴を知って納得。

文中にある歌、Talking Union、「組合を語ろう」「組合に入ろう」「組合勧誘の歌」とでも訳すのだろうか?

派遣労働が無期限となり、絶倫氏なり、お殿様なりにより、(あるいは大阪でも異神氏によって)国家戦略特区が徹底的に推進される時代にふさわしい内容に衝撃さえ受ける。

現在はリンクが切れている「ロシア語版 花はどこへ行った」http://sea.ap.teacup.com/chaika/389.html
によれば、
ピートはソ連作家同盟を通じ、ショーロホフにこの曲の楽譜を同封した手紙を書き、1964年8月、ピートがモスクワ公演をする際に会いたいと申し入れたが、ショーロホフの病気のため実現せず、ショーロホフはこの曲を聞くことなく世を去った、という。

難しい検索をせずとも、Wikipediaロシア語版を見ると、それらしき文字が載っている。

花はどこへ行った?、まさかこの国で、本当の痛みをもって歌われる(秘密法と、反共雰囲気の充満で、陰でこっそり歌うことになるだろう)時代がくるとは想像していなかった。

We shall overcome、今回選挙にも、ふさわしいように思える。

We shall overcome someday!

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コメント

昨年から今年に掛けて2人の方に弔意を表した。一人は品川正治氏。当ブログご主人が何度も
引き合いに出される方である。私は,岩波の『世界』で晩年の人柄を知っただけ。しかし,品川氏
を読んで,海運業界がイラク出兵にいち早く反対を表明された訳が分かったのである。世間に疎
い私は,小泉元首相がいち早く証拠もないのに馬鹿ブッシュに賛成したことを忘れない。
 二人目は,我が故郷栃木県の宇都宮市の駅で弁当売りを戦後長く続けてこられた方である。
私の祖父は駅員であった。宇都宮の駅宿舎には祖父が運んだ篠竹が物干竿に利用されていた
という縁で,宇都宮駅に行くたびにうどんを食べていたが,名も知らぬ駅弁売りの方には親近感
を懐いていたので,早速弔意を表した。

 品川駅と宇都宮駅の共通点については当ブログご主人に任せるとして,この翻訳記事によって
ジョアン・バエズの歌を初めて聞いた。Deep in my heart I do believe We shall overcome.また,
Let it be(YouTube).
 生来音痴の小生は音楽に興味がなかった。小学低学年の時,伯父から「君が代」をどう思うと
訊かれたことがあったが,何のことかさっぱり分からなかった。長ずるに及んでその意味が分か
ったが,学校をいくつか卒業して最初に就職した「ブラック企業」の朝会では,君が代を直立不動
で唱っていたのには,ビックリした。
 授業の前にインターナショナルを歌いましょうといわれ,歌い始めたときも何のことかさっぱり分
からなかった。YouTubeのVTRで経済学者の金子勝慶大教授が講演会でこの歌を避けていたの
をみたが,人はなぜ歌を必要とするのだろうか。

 "Deep in my heart I do believe We shall overcome someday"の文学的・政治的解説を聞いた
のは,加藤周一のNHK大学講座『科学と文学』においてである。また,ビ-ト・シンガ-氏が酷い
目に遭った非米活動委員会の存在を知ったのも,加藤に拠るところ大であった。
 また,これがジョアン・バエズの歌であると知ったのは,筑紫哲也氏の「こちらデスク(後にデスク,
TV朝日)によってである。両者とも故人だが,青年の頃にこの二人に出会ったことを幸福に思う。

  オバマ候補が大統領になる前,ジョアン・バエズが彼を応援することにかり出されたのか,自ら
名乗りを上げたのかは知らないが,彼女は古い,という批判があった。しかしそれにも関わらず,
オバマ氏は大統領になることができた。歌の力がなかったとはいえないだろう。
 故に,遅かりし由良之助ではないが,宇都宮けんじ氏陣営に『青い山脈』を今からでも遅くはない
からどうか唱ってくれと私は願い出たが,特定秘密保護法や消費税増税や,国家戦略特区法等で
暗くなった日本に必要なのは,歌ではないだろうか。

 2009年,彼女バエズは,プラハで唱った。そのプラハでオバマ大統領は「核なき世界」を世界に
訴えノ-ベル平和賞を得た。この平和賞は佐藤栄作氏ももらった賞で権威は地に堕ちているが,
オバマの心にも,プラハの市民(プラハの春の市民の子孫)の心にもバエズやシンガ-の歌が息
づいているように,われわれの心には,敗戦後の日本に希望を与えた『青い山脈』が息づいてい
るのではないだろうか。
 渡邉一夫の「地には平和を」からバエズの "We shall live in peace." まで。 
 

 
  


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電脳メディアはあてにならない。しかしもっと上手く誤魔化してあてにならないのがマスコミである。 都知事選の帰趨に注目が集まらないように、ただの一地方自治体の選挙として、 ... [続きを読む]

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