田中正造伝 嵐に立ち向かう雄牛 ケネス・ストロング著
ネットで調べた所、9月4日はクジラの日だそうだ。おばあちゃんの原宿、巣鴨とげぬき地蔵商店街ではくじら祭りが開催される。くじらには申し訳ないが、ベーコンや大和煮がなつかしい。クジラには、汚染水、影響ないのだろうか。
巣鴨くじら祭り、鯨肉の抗疲労成分「バレニン」で巣鴨を一層元気に
9月4日は、田中正造没後百周年。彼の言葉で始まり、終わる新聞コラム記事を見てびっくり。
真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。古来の文明を野蛮に回らす。今文明は虚偽虚飾なり。 私慾なり、露骨的強盗なり。
というわけで、どうやら絶版らしい『田中正造伝 嵐に立ち向かう雄牛』 ケネス・ストロング著 川端康雄 佐野正信訳 晶文社 の文章を、ご紹介させていただこう。
下記部分を選んだ理由、特にない。田中正造全集刊行以前に書いたということだが、偉い学者がおられたもの。再版されて欲しい書籍。
正造はそう簡単に信用しはしなかった。五月二十四日と六月十四日の二回の長い演説のなかで、彼は、農商務大臣の答弁は足尾銅山に今まで通り操業を続けさせてやる方便に過ぎぬものだといって非難した。答弁自体が「銅臭の毒気」を帯びている、大臣も農商務省も毒気を受けてしまっていて、体に毒が回ってしまったので、川や作物の鉱毒被害が目に入らず、銅山主の利益のために尽くすことしかできないのである、と。
政治家にとっても一般大衆にとっても最大の関心事となっていた政治問題に、正造はとりわけ辛辣なアナロジーをもって言及した。曰く、日本は西洋諸国と「不平等」条約を結んでいて、これらの国々はいまだにその国籍の人間のために、日本国内であまたの治外法権上の特権を保持している ─ 日本政府はこの条約を改正しようとの試みを再度おこなっているわけである。治外法権の恥辱をなくそうと政府がかくも懸命になっているのなら、どうして足尾銅山を見て見ぬふりをするのか。
その地では、日本の法律が適用できないでいる点では、いわゆる外国人居留地と変わりないように見えるではないか。そしてそれは結果として日本の人民にはるかに過酷な苦しみをもたらしたではないか。外国人の場合は、自分たちを守るための独自の治安体制と法廷を有するが、下野の農民は、租税を負担していながら、そのような保護も補償を得る手段も有していない。それとも農商務大臣のお考えでは ─と正造は痛烈な皮肉の口調で尋ねる ─農民たちが竹槍と蓆旗をもって政府に抗議に押しかけに来でもしなければ、「公共の安寧」がおびやかされることはないというのであるか。
155-156ページ
沖縄の米軍基地を強化し、原発を再稼働・増設し、TPP参加を推進する政府、明治政府どころでない劣化。
二つ目の演説は、二月十七日の総理に対する質問演説である。この時に出された「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」は、次のような、いつにない激しい調子を帯びたものであった。
民を殺すは国家を殺すなり
法を蔑にするは国家を蔑するなり
皆自ら国を毀つなり
財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、之を奈何。中略
日本の政府はろくに鉱毒問題に取り組もうとしないが、このような国の場合、政府が国を治める全責任を回避してしまっているから、実は政府がまったくないのと同じになる。これが政府の人にわからなければ、即ち「亡国」に至るる。……そうは言っても、悪いのは大臣ばかりではない。関八州の人間に広い視野と十分な気力があれば、鉱毒被害がここまで広がることはなかったとも言えるのである。上方生まれの古河が土地を汚し、薩長の閥族どもがその分け前を取ったというのに、彼ら農民の大半は、黙ってそれに耐えるだけだった。……世の中が鉱毒問題を耳にして何も驚かないとすれば、それは、世の中が鉱毒に類似した有様に段々なってきたということに違いない。……
228-229ページ
日本の政府はろくに原発問題に取り組もうとしないが、このような国の場合、政府が国を治める全責任を回避してしまっているから、実は政府がまったくないのと同じになる。
「ただ増税をして憲法は勝手次第に放りなげておいて、乱暴狼籍をやりたい者にはやらして、増税をするという政府には、どなたにでもこれは反対をしなければならない。……人は明日ということをばお互いに期せないものでございますからして、今日のこの御用の多い中をも御妨げということを顧みず、しばらく御耳を拝借致しました次第でございます」。
242ページ
消費税強行そのまま。
正造の小遣は一ケ月二、三円に過ぎず。夜るも着たままなり。枕のあるの夜は稀れなり。又二泊せし事は少なし。飯は麦めしを以最上とす。只湯はあります。衣類の汚れたるは却て見よし。此境遇に加え、巡査の虐待、汚吏の侮辱、殆んど人類を以てせられず、而して県民之をしらざるなり。しらざるは新聞が冷かすためなり。我日本国の中に此くの如き魔境ありて正造は慈にあり。去る三十五年より堤防は破れたるまま、水浸五ヶ年に及び、穀実を得るなく、常に船にて村中を歩行く。何ともかとも人間居住すべき処でない。而しも天災にあらで悪人のために此災害を受けつつあり。此窮民の一人を救え得ば、正造は此処に死して少しもうらみなし。誠に道ちのためなればなり。人生苟くも道によりて死すは、死するにあらず生きるなり。
天は屢々正造に神の道ちを教えたるは正造の歴史なり。若きより屢々牢獄に入りたるは、皆之厄を以て悔を改めさせる神の道ちなり。故に正造は難に逢う毎に精神をばみがけて候。此くして幾回も厄に逢うて幾回も神に近くなり、老てますます精神は若きに復し候。肉体は年々に劣ると反比例、精神は年々に優る。今の正造は二十三、四、五才の頃よりも盛んなり。但し肉体は六十八才相当の疲労とはなりまして候。此度の公判後、谷中問題解決の後ちはそろそろ演説に出かけべく候。日本人の根性小さく、此へぼの団体を以てして、形によりて外あるをしらず。僅に満州を得て喜ぶ。笑うべきのみ。正造の愛は一己なりとも之を推して世界に及ぶなり。天上の星し地上の砂、皆悉く我有なりとは、誠に愛の博愛を云うなり。人一人を救えば、其愛や世界に及ぶなり。満州を得て満足するものの心の中にして其業の賤き事憐むに堪えたり。
303ページ
汚吏の侮辱、殆んど人類を以てせられず、而して県民之をしらざるなり。しらざるは新聞が冷かすためなり。我日本国の中に此くの如き魔境ありて正造は慈にあり。
そう、大本営広報部の役割、全く変化していない。
日清戦争の頃は侵略戦争を支持していたが、日露戦争に至って、反戦論者となった。竹島や尖閣で、強硬論を主張する人々を、田中正造、墓の中で怒っているだろう。
木下尚江の文章
明治三十九年九月九日の夜、下野佐野町で同志者の演説会があり、僕は石川旭山と二人で行 った。田中翁も忙がしい中を谷中村から出かけて来た。万座と云う芝居小屋の集会を終えて、夜ふけて宿屋へ帰ると、座敷二た間の唐紙を取り払って、蚊帳が二つ釣ってあった。僕と旭山と一つの蚊帳。翁は一人で別の蚊帳。
何事にも腹の立った時代で、其晩も、大きな劇場に溢れる聴衆が、無暗に翁の演説に喝采するのを見ると、憤怒の虫が頭を捧げて抑えきれず、翁の後を受けて出た僕は、『何を見に汝等は来た。我が田中正造は、口稼ぎの大道芸人では無いぞ。汝等、同郷の老偉人を見殺しにして、只だ手ばかり叩く軽薄。-我輩旅人は、決して汝等の前に口を開くような 馬鹿はしない。』307ページ
我が田中正造は、口稼ぎの大道芸人では無いぞ。汝等、同郷の老偉人を見殺しにして、只だ手ばかり叩く軽薄。
この正造はな……天地と共に生きるものである。天地が滅ぶれば正造もまた滅びざるをえない。今度この正造が斃れたのは、安蘇、足利の山川が滅びたからだ─日本も至るところ同様だが─。故に見舞いに来てくれる諸君が、本当に正造の病気を直したいという心があるならば、まずもってこの破れた安蘇、足利の山川を回復することに努めるがよい。そうすれば正造の病気は明日にもなおる……
さあ、できるかできないか、もしできなければ遺憾ながら正造は、安蘇、足利の山川と共に滅びてしまう……。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋めても、そんなことは正造の喜ぶところではない。
377-378ページ
九月四日、最後の時が静かに訪れた。夜明け前、島田宗三から看護を引き取った木下が、容態はいかがですかと尋ねると、正造は、「病気は問題ないです」と答えてから、「これからの日本の乱れっ-」と低く独白した。それから、ゆっくりと、何かを悲しんででもいるかのように、正造は、自分の生涯についての最後の感懐を述べた。
鉱毒事件で、多年有志の人達を奔走させましたが、ただ奔走させただけで、教育ということをしなかった。教育をしなかったのではない。実は教育ということを知らなかった。この田中正造というものが、全くの無教育者でがすから。-それを、自分一人抜けて来てしまって、外の者を皆んな捨てほかして置いたでがすから、今日の場合、何ともやむをえないです。
その日の午前中、正造は、接客役の岩崎佐十を枕元に呼び寄せて、次のように言った。
お前方、大勢来ているようだが、嬉しくも何とも思わねえ。お前方は、田中正造に同情してくれるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来ているものは、一人もない。-行って、皆にそう言えっ。
379-380ページ
この正造の有名な言葉、原書"OX AGAINST THE STORM"では、こうなっている。
There seem to be a lot of them outside, but they 're no comfort to me. They sympathize with Shozo, but not a single one of them believes in his work. Go outside and tell them so!
正造の名前が再び広く言及されるようになったのは、一九六〇年代後半になって、日本国民が、奇跡的な経済成長の副産物としてもたらされた大規模な公害の存在を、急速に認識するようになってからである。今日では、ラジオ、出版物、テレビなどが、「公害第一号」の「英雄」として正造を頻繁に取り上げている。
現在、公害反対の気運は、これまで以上に高まっている。市民は、環境保護のために連帯する必要があることを日まLに痛感してきている。そして大変に優れた公害罪法も国会で制定されるに至った。とはいえ、官僚たちがなかなか腰を上げようとしなかったため、また歴史的に見て─そし て近年に至るまで疑いようもなく必然的な傾向として─市民からの突き上げがあっても、彼らがそれを無視して企業の側に与しがちであったため、従来の歯止めは、比較的弱いものとならざるを得なかった。それゆえ、問題がここまで拡大した現在においては、公害に対して何らかの措置を講じることが、これまで以上の緊急課題となっている。この田中正造の生涯についての物語は、次のような正造自身の俳句で幕を閉じるのがふさわしいかもしれない。何となれば、この言葉は、現在においても正造がこれを詠んだ時と何ら変わることなく、日本だけにとどまらず他のすべての工業国に対して、依然として当てはまるからである。
明日は清よかるべしといふなかれ
383-384ページ
この正造の言葉、原書の英語では、こうなっている。
Say not that all
Shall be made clean
Tomorrow!
入手しやすい関連書籍の一部は下記の通り。順不同。
没後百年にちなむ重要な講演会、IWJでみることができる。
2013/08/25 人の命の大切さを訴え続けた田中正造の没後記念100年行事開催 ~第41回渡良瀬川鉱害シンポジウム「田中正造の実像を知り、今何を受け継ぐか」
夕刊訃報欄、フレデリック・ポールが2日に亡くなったとある。 熱心な読者ではない小生、1987年、"Chenrnobyl"を見かけて購入した程度。読み始めたら止められない本だった。その翻訳『チェルノブイリ』講談社文庫、再版されない不思議。体制と関係なしに、原発事故が起きた場合の、支配層のいい加減さを知るための良い参考書と思える。『チェルノブイリ』を読む限り、ソ連より、日本の支配層の方が悪質度の程度、遥かにひどい。
日本の原発村学者には、ソ連の学者レガソフはいない。
« 対シリア“限定”戦争の嘘 | トップページ | 単独で進めるより議会を抱き込んだ方が安全と判断したオバマ »
「読書」カテゴリの記事
- 中国と中南米:地歩を失いつつあるワシントン(2022.01.20)
- オリンピック金メダル獲得をいかに避けるか(2021.12.15)
- 選挙の正当性に関する道徳的権威がサウジアラビアと同程度のアメリカ(2021.11.28)
- 人類文明を方向付ける道徳的資格がない億万長者連中(2021.11.07)
- 国際連盟復活を警告するプーチン:帰結的意味は何か?(2021.11.01)
「田中正造」カテゴリの記事
- MGMが北米でMinamataを「葬ろうとしている」と非難する著名カメラマンのステファン・デュポン(2021.10.20)
- Minamata:いかに日本企業が共同体を汚染し、アメリカ人カメラマンがそれを暴露しようとつとめたか(2021.09.17)
- ボリビア・クーデター:五つの教訓(2019.11.19)
- ボルソナーロのブラジルで、ダムはカチカチいう時限爆弾(2019.11.11)
- ダニエル・ライアンが暗殺されるまでに、どれぐらいかかるのだろう?(2019.09.02)
コメント
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: 田中正造伝 嵐に立ち向かう雄牛 ケネス・ストロング著:
» 山本太郎氏の「直訴」と天皇の父性の残映 [心理カウンセラーの眼!]
平成の亡霊たちを見るおもい、「畏れ多くも陛下にたいして・・・!」 [続きを読む]
今年は田中正造の没後百周年ということもあり、何度か取り上げて下さりありがとうございます。
その度『田中正造』という現象を一過性とさせてしまった、この百年に渡る日本の歩みに、歴史は繰り返されるものとつくづく思い知りました。
現代風に言えば、田中正造はシングルイシューポリティクスの申し子のような存在です。足尾銅山や谷中村の問題があたかも特定の公害地域の問題、廃村問題とみなすことは簡単です。だが田中正造が提起したのは、自然環境の中で、社会の中でしか生きて行く事が出来ない私たち人間が抱える根源的かつ本質的な生存問題でした。まるで百年前の事とは感じさせない程思い当たる事が、今を生きる私たちにあります。
その意味において田中正造が戦った百年前と現代はなんら違いはありません。フクシマは現代の足尾銅山であり、放射線汚染地域・沿岸域は現代の谷中村です。そして大事な事は、このような構図(足尾銅山問題や谷中村問題と類例し得る諸問題)は平時にも常に存在している、ということです。
『田中正造』の事業は私たち一人一人が背負って行かなくてはなりません。他人に期待する、他人任せにする、ということでは田中正造が戦った百年前と全く同じ結末を迎えてしまうでしょう。
投稿: 海坊主 | 2013年9月 6日 (金) 07時49分