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2013年8月 9日 (金)

1945年8月9日長崎爆撃: 無検閲版

医学博士ゲーリー・G・コールズ

Global Research
2013年8月7日

68年前の1945年8月9日午前11:02、全員がキリスト教徒の爆撃機乗組員が、長崎にプルトニウム爆弾を投下した。その爆弾は二発目で、最後の原子爆弾で、標的は民間人が暮らす都市だった。いささか皮肉なことに、本エッセイの後半で詳述する様に、長崎は日本で最もキリスト教信者の多い都市で、グラウンド・ゼロ(原爆爆発の真下)はアジア最大の大聖堂だった。

洗礼を受け、堅信礼を受けた航空兵達は効率的に仕事を行い、軍の誇りを持って任務を完遂した。自分達が参加しているものが、国際戦争犯罪の定義(それから間もなく、多数のドイツ・ナチス死刑を正当化するのに用いられたニュルンベルク原則によれば)に合致していることを、乗組員達が知り得なかった可能性はまず有り得ない。

8月6日の爆撃でウラニウム爆弾が広島を滅ぼしたわずか3日後のことだった。ファシスト軍事政権が何ヶ月にもわたって立派に戦争を終わらせる方法を探し求めていた東京のひどい大混乱・混沌のさなか、長崎の爆弾は投下された。降伏への唯一の障害は、無条件降伏に対するルーズベルト/トルーマン政権の主張、つまり日本人が神と見なしていた天皇裕仁が、名目上の日本の長という立場から退位させられるというもので、日本にとっては耐え難い要求で、戦争を引き延ばし、日本が何ヶ月も前に降伏するのを妨げていた。

ロシア軍は、8月8日に日本に宣戦布告し、40年前に惨敗した日露戦争で、日本に奪われた領土を奪取しようとスターリンの軍は、満州を越えて前進しつつあった。ロシアの参戦は、日本にとって、戦争を早急に終わらせる強力な動機となり、日本はロシアではなく、アメリカに降伏することを望んでいた。戦争を早急に終わらせることは、アメリカにとっても重要だった。アメリカには、ロシアといかなる戦利品も分け合うつもりがなかったのだ。

ワシントンD.C.の標的委員会は、1945年上半期中に、焦土と化する(ナパームを用いた)通常の焼夷爆撃作戦から除外されるべき、比較的無傷の日本都市のリストを作成しており、60+の日本の主要都市。保護されていた都市の理リストの中には、時により、広島、新潟、小倉、京都と長崎が含まれていた。これらの比較的被害の少ない都市は、焼夷弾テロ爆撃の立ち入り禁止区域だが、新たな“仕掛け”大量破壊兵器向けの潜在標的として、保存されるべきことになっていた。

科学的好奇心は、標的都市を選定する一つの動機だった。軍と科学者達は、原子爆弾が頭上で爆発した際に、無傷の建物や、そこで暮している住民達に、一体何がおきるのかを知る必要があった -。皮肉にも、8月6日と9日以前、広島と長崎の住民は、他の都市の様に爆撃を受けない自分達は幸運だと考えていた。彼等は全く何も知らなかったのだ。

1945年8月9日の早朝、ボックスカーと名付けられた超空の要塞B-29は、ルター派とカトリックの従軍牧師による祈りと祝福を受けて、南太平洋のテニアン島を離陸し、第一標的の小倉へと向かった。ボックスカーのプルトニウム爆弾は爆弾倉に納められ、ウインストン・チャーチルにちなんで“ファット・マン”というコード・ネームで呼ばれていた。

核兵器の唯一の実地試験は(不敬にも“トリニティ(三位一体)”というコード・ネームで呼ばれた)わずか三週間前に(1945年7月16日) ニュー・メキシコ州のアラモゴードで行われた。爆発熱(太陽の温度の二倍)の結果できた、溶岩の岩が、今日でも現場で見つけられる。岩はトリニタイトと呼ばれている。

広島で起きたことの現実は、東京のファシスト軍事指導部には、実に緩慢にしか明らかにならなかった。日本の軍事参議官会議が、そこで一体何が起きたのをかを部分的に理解できるようになり、合理的な決定をしたり、降伏の可能性を再度議論できるようになるまでには、広島が焼却されてから2から3日間を要した。

しかし、東京でその朝、軍事参議官会議が会合を開く頃には、ボックスカーと他のB-29の大編隊が、無線封止の下、既に日本に接近しつつあった為、それは余りにも遅すぎた。二発目の原子爆弾は、当初8月11日に予定されていたが、悪天候が予想され、任務は8月9日に繰り上げられた。

必ず目視で確認して、爆弾投下するという指示の下、ボックスカーは第一標的に到着したが、小倉は雲に覆われていた。そこで都市上空を虚しく三度旋回した後も、雲に切れ目がなく、その過程で、燃料がひどく少なくなってきた為、飛行機は二番目の標的、長崎へと向かった。

長崎キリスト教史

長崎は日本のキリスト教史において有名だ。アジア最大のカトリック教会、聖マリア教会(1917年完成)が存在するのみならず、日本全国中で、洗礼を受けたキリスト教徒の最大人口を擁していた。それは12,000人の洗礼を受けた成員を擁する当時の巨大聖堂だった。

長崎は、伝説的なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、1549年に宣教教会を建てた場所だ。キリスト教徒社会は、数世代にわたり、存続し、繁栄した。ところが、ザビエルが日本に教会を建てて間もなく、日本の支配者達にとって、ポルトガルとスペインの商業権益が日本を搾取していることが明白となり、ヨーロッパ人全員が、異教と共に日本から追放されるまでには、そう長くはかからなかった。新たな日本人改宗者を含め、キリスト教のあらゆる側面が残酷な迫害の標的となった。

1600年まで、日本では、キリスト教徒であることは、死刑に値する重罪だった。新たな信仰を取り消すことを拒否した日本人キリスト教徒は、拷問を加えられ、キリスト教の最初の三世紀におけるローマの迫害によく似たはりつけにされることさえあった。恐怖支配が終わった後、全ての観察者に、日本のキリスト教徒は絶滅したと思われていた。

ところが250年後、1850年代、ペリー提督の高圧的な砲艦外交で、アメリカの通商目的の為沿岸の島を無理やり開国させた後、長崎には、政府が全く関知しないまま、信仰を密かに隠して暮している、洗礼を受けた何千人ものキリスト教徒がいることが発見され、即座に次の迫害が始まった。しかし国際的圧力の為、迫害は間もなく止み、長崎におけるキリスト教信仰が、地表に現われた。1917年迄には、政府からの何の支援も無しに、拡大する日本人キリスト教徒集団は、長崎の浦上川流域地に壮大な浦上天主堂を作り上げた。

善悪の神秘から、壮大な天主堂は、ボックス・カーの爆撃手が説明を受けた長崎の二つの陸標の一つであることが今では分かっており、9600メートル上空の爆撃手席から覗いて、彼は雲の切れ目から天主堂を確認し、投下を命じたのだ。

午前11:02、朝のミサの中、長崎のキリスト教徒は、天主堂上空500メートルで爆発した焼け付く熱放射性の火の玉の中で、煮られ、蒸発させられ、炭化された。グラウンド・ゼロは、日本のキリスト教徒が迫害され、力強く存続している中心地だった。

長崎キリスト教徒の死者総数

天主堂が爆心地であった為、大半の長崎キリスト教徒は生存できなかった。その朝、教会に告解に行っていた人々を含め6000人が即死した。12,000人の教会員のうち、8,500人が、爆撃による直接の結果として亡くなった。三つの女子修道院と、キリスト教女学校一校が黒煙、あるいは黒焦げの残骸の塊となって消え、何万人もの無辜の神道信者や仏教徒達も即死し、何十万人もが重傷を負い、そうした人々の子孫の中には、いまだに猛毒のプルトニウムによって引き起こされる、世代を超える悪性腫瘍や免疫不全による緩慢な死の過程にある人々がいる。

日本の帝国主義政権が200年以上の迫害をもってしても出来なかった日本キリスト教徒殲滅を、アメリカ人キリスト教徒は9秒でなしとげた。現在でさえ、日本のキリスト教徒は人口の1%という少なさで、キリスト教礼拝の平均出席者数は30人だ。戦争最後の長崎殲滅が、一時は盛んだった教会を麻痺させたのは確実だ。

記事原文のurl:www.globalresearch.ca/the-bombing-of-nagasaki-august-9-1945-the-un-censored-version/5345274

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Nagasakigz

長崎の爆心地<

 

Nagasakikietamouhitotsuno

以前『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』平凡社版を読んで、目からウロコ体験をした。長崎の遺跡と、広島の遺跡のあまりの違いを、現地で見て驚いた。アメリカ都市からの碑があるのを不思議に思った。そうした疑問が本書で解けたのだ。自分たちが破壊したキリスト教教会の悲惨な遺構を、残させないよう強烈に働きかけた宗主国キリスト者達の懐柔工作。北村西望の平和祈念像の手前に、各国から贈られた像の中に、なぜアメリカのセントポール市からの像があるのか、意味がようやくわかった。

Stpaulnagasaki

うれしいことに、その名著が文春文庫化され、しかも、福島原発事故を受けた、読みごたえのある追記まである。遺構を早計に撤去してはいけない。税込み価格683円。

新刊『忘却のしかた、記憶のしかた 日本・アメリカ・戦争』ジョン・W・ダワー著の第五章 被爆者─日本人の記憶のなかの広島と長崎 を今読んでいる。

イエズス会といえば、『イエズス会の世界戦略』高橋裕史著、講談社選書メチエ、と、『武器・十字架と戦国日本 イエズス会宣教師と「対日武力征服計画」の真相』高橋裕史著、洋泉社刊を興味深く読んだ。この文章の著者の表現にある

ポルトガルとスペインの商業権益が日本を搾取していることが明白となり

だけでなく、軍事的な動きも確かにあったことが検証されている。『武器・十字架と戦国日本』あとがきの一部を引用させて頂く。

 昨今、短期的な利益ばかりに振り回され、物事を長い目で考え、その価値の将来における有用性を省みないという愚かな価値観が、日本社会と大学における研究をも支配している。
 そのような社会の風潮にあって、実利主義や功利主義者がもっとも攻撃の対象としているのが歴史学を始めとする人文諸学である。現在の日本に見られる、行き過ぎた実学至上主義には、必ずや鉄槌が下される時期がやってくることはまちがいない。
 未来への指針は、過去から謙虚に学び、反省することから始まる。それを怠った典型例が、現在も継続中の某電力会社による原子力発電事故であることは、述べるまでもない。また、無節操にひとつの価値観や考えを極端に重視し、それを至上主義化してしまった結果、取り返しのつかない事態がもたらされていることは、我国や他国の歴史が雄弁に証明しているところでもある。歴史を侮る者は、歴史に泣かされることを忘れてはならない。

朝刊記事、「東電福島事故、誰も起訴されない」という。

またしても「津波は予測できなかった」といガセ見出し。

先月刊行された島村英紀著『人はなぜ御用学者になるのか--地震と原発
原発学者のみならず、地震学者も多かれ少なかれ、原発村の中にとりこまれている様子が描かれている。ご本人が一流の地球物理学者なのだから、間違いはない。書評はここで読める
中に、様々な事故調査委員会についての的確な寸評もある。

国会事故調のみが、津波でなく、地震そのものが原因である可能性を想定し、現場検証もしようとしたが、現地調査は東電の妨害で果たせなかった。

状況から判断すれば、「地震そのものが原因である」ことを実証されては困るからだろうとしか思われない。そういう妨害工作を、体制護持機構である検察も、大本営広報部も決して追求しない。

過ちはくりかえしますから。

2013/8/23追記:

宗主国の強力なプロパガンダ効果の見本のような御意見を頂いて、プロパガンダ効果の大きさに改めて驚かされた。

プロパガンダを信じておられる方々は、岩波書店『世界』2013年9月号掲載の日本国憲法は最高級のレシピ本!内橋克人×アーサー・ビナード(シリーズ 内橋克人の憲法対談)を是非お読み頂きたいと思う。実に読みごたえのある記事。

「原爆投下のおかげで終戦になった」というお話は、戦争犯罪の原爆投下を正当化するための宗主国のプロバガンダであること。

実際は「プルトニウム爆弾を長崎に投下するまで、対日戦争を終わらせなかった」ことが、プルトニウム爆弾開発の歴史的事実に基づいて、日本在住のアメリカ人によって明確に語られている。広島型のウラン原爆はいわば旧式なものであり、本当の原爆は、長崎に投下されたプルトニウム型。実際に世界の大半の核兵器は、プルトニウム型。

そして、原子力発電所というものは、実体は、長崎に投下されたプルトニウム型爆弾の材料、「プルトニウム製造装置」とでも呼ばれるべきものであることがよく分かる。

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コメント

キリスト教徒狙いと確信したのは最近になってからです。
原爆に関わってるのはアインシュタインとか
ニールスボーアと言った顔に恥の面子です。
いずれも自称ユダヤ人で無神論者です。
信仰より科学の連中ですから。

自分の鈍さが恥ずかしいです。
日本のキリスト教徒には感服します。
犠牲者たちに神の平安があると信じます。

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