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2011年8月24日 (水)

原子力帝国:訳者あとがき

ドイツ・シュピーゲル誌、日本の状況を紹介する「アトムシュタート」(『原子力帝国』)と題する記事を翻訳された文章を読んだ。Der Atomstaat,ドイツの新聞に掲載されたのは5月23日。

文中(冒頭部分)に下記文章がある。

これはまるでロバート・ユンクの描く Der Atom-Staat 原子力帝国の恐ろしいビジョンが現実になったかのようです。彼のこの題名の本はドイツの反原発世代の必読書です。

また、別の部分(最後の部分)には下記文章がある。

不都合なことを暴露したり報道したりするものは脅される

そうこうしている間に日本政府は、福島について「間違ったニュース」をインターネットから削除するようインターネットプロバイダーに求めました。国民を不必要に心配させてはならないからです。「これはエジプトや中国より酷い」と上杉氏は言います。「公共の秩序とモラルを害するもの」はすべて取り除かなければならないのです。

原発反論者のロバート・ユンクは、原子力産業が反対者をどう扱うかについて、一つの章を割いています。その表題は「脅される人たち」です。

不都合なことを語る東電の内部の人、不都合なことを報道する上杉隆氏のようなジャーナリストたちが脅されます。

前福島県知事だったあの上品な佐藤栄佐久氏もその犠牲者の一人だと言われています。佐藤氏は原子力という権力に対抗しようとしました。彼は他の原発を持つ県の県庁と同盟を結び、反原発枢軸をつくりあげようとしました。

「脅される人たち」、原文には"Die Eingeschüchterten"とある。『原子力帝国』翻訳本(アンヴィエル)をみると、127-161ページに、「おびえる人々」という章があり、カレン・シルクウッドの交通事故も触れられている。

事故直後、マスコミで厚顔無恥で無知な御用学者の皆様が大活躍された。今は大学で、同じ与太話をしておられるのだろうか。福島の大学で副学長におさまって、医学研究にいそしむ方までいるのには驚く。マスコミ、茶番選挙や、芸人引退、福島新発売、は報道するが、事故の真実は、しっかり報道管制。24時間テレビ、原発の問題点を一日論議するのであれば、初めて見ただろうに。ああいう番組を見ないことが、節電であり、洗脳麻薬抜き対策だろう。

テレビ・新聞と違って、本澤二郎氏の「日本の風景」(855)<松下政経塾の評価>の方が、、インチキ政党の代表選茶番を鋭く分析しておられる。もろん、小生、欠陥政治家を製造する松下製品は決して買わない。例え性能が良くても、価格が安くても。

さすがに、文部科学省、許容線量は見なおすようだ。日本で反政府暴動はおきまいが、ご両親達の真摯な訴えには対応せざるを得ないだろう。

翻訳刊行は、1979年9月10日 32年前。原書、ドイツweb書店でも古本のみ。ドイツでは、こういう考え方が広がり、脱原発政策を推進している。

日本は世界最悪の大事故を目の当たりにしながら、断固、原発維持。一世代以上の遅れ。というより異質な国と認識されつつあるだろう。正気な国ではないと。シュピーゲルしかり。インデペンデントしかり。傍目八目。

著者のロベルト・ユンク、高木仁三郎氏(1997年受賞)同様、ライト・ライブリフッド賞を受賞している。名誉賞(1986)。

32年前の本とはいえ、現在も、そのまま、あてはまる。再刊されないのは残念。

Atomstaat

せめて、内容を適切に紹介しておられる、翻訳者(山口祐弘氏)あとがきの一部(255-262頁)を転記させていただこう。段落間のスペースは、読みやすくするために加えたもので、訳本にはない。

 一九七七年に出版された本書において、ユンクが提起しようとしている問題は、原子力の開発が国家社会のあり方にいかなる影響を及ぼそうとしているか、ということである。原子力という巨大技術を導入することによって、社会は自由や創造性のない硬直した管理社会となり、民主義を標榜する国家すらがその精神を失い、全体主義的国家=「原子力帝国」へと変質せざるを得ないというのである。この問題は、原子力をめぐる学問的論議の流れのなかでは、従来ほとんど欠落していたものである。従来の論議が、原子力利用と放射線管理をめぐる技術的論議、放射線被曝に関する医学的論議をもっぱらとし、比較的最近になって被爆者の精神状態をめぐり心理学的、精神医学的研究が登場したとすれば、ユンクの問題提起は政治学的、社会学的問題提起と呼ぶことができよう。

 ユンク自身においてこの問題がいかにして形成されていったかは、右にみる彼の著述の歴史から知ることができる。すなわち、一九四七年にアメリカに渡り、そこでの経験をもとに一九五一年『未来は既に始まった』を著したとき、問題はすでにはっきりと自覚されていたのである。それは、高度に発達した技術がアメリカ合衆国の伝統ある民主主義的機構に全体主義的な影響を与えていることを指摘し、批判的に報告したものであり、ファシズムに対する民主益義的国家の闘争において戦勝に大いに貢献した科学技術が民主主義の否定の道に通じているという、きわめて逆説的で皮肉な未来を暗示したのである。一九四七年といえば、ホルクハイマーの『理性の腐蝕』がアドルノとの共著『啓蒙の弁証法』とともに公にされた年であり、アメリカ民主主義の虚構が亡命ヨーロッパ人の眼によって暴かれつつあったときにほかならない。民主主義の勝利による戦後はすでに終わり、技術による人間の抑圧支配というまったく新たな問題をはらんだ「未来」がすでに始まりつつあったのである。こうした視点からすれば、ユンクの眼が大戦の最大の産物である原子力の問題にむけられていくのは当然であると言わなければならない。

 唯一の被爆国民である日本人からすれば、この問題は格別新しいものを含んでいないとみえるかもしれない。軍と軍需産業を擁する広島・長崎を物理的に壊滅するという目的をはるかに超えて、施すすべのない放射線障害を引き起こし、償いえぬ責めを負ったアメリカは、その占領政策の下で、「事実」の研究そのものに干渉をくわえ、その発表を禁止する布令を出し、被爆者問題が存在しないかのような装いをこらすことによって、弁明しえない世論の批判を封殺しようとしたのであった。

未曾有の強力さを備えていながら、しかも解決不可能な結果を招く技術を開発したとき、その技術を存続させるためには、結果事実そのものを隠蔽する方向に動くことを余儀なくされる現代科学技術の非合理性が端的に示されているといえよう。

 ユンクによれば、いわゆる「軍事利用」においてみられるこうしたあり方を、平和利用もまたまぬかれることはできない。「平和利用」としての原子力発電が原爆の材料となるプルトニウムを産出することによって「軍事利用」と直結しているだけでなく、それが本質的に放射能問題を解決しえていないかぎり、生命に敵対するという性格の点で両者の問になんの相違もないからである。そして、放射能の脅威というこの一点において、原子力帝国(アトム・シュタート)は自国の市民を敵とする苛酷な「対内的軍備」の道を走らざるを得ない。すなわち、「平和利用」にとって欠かすことのできない安全性論議が、原子炉から市民を防衛するという観点を顛倒させ、市民から原子炉を防衛するという方向を辿り、市民に対する敵対的性格をあらわにするにいたるのである。それを促す契機として、ほぼつぎの二点が考えられる。

 まず、原子炉の事故が多く人為的なミスによるものであることをユンクは指摘する。したがって、原子炉の稼働はあらゆる人為的ミスから守らなければならない。そのために、事故に通じる恐れのあるあらゆる人間的要素が排除される。作業に従事する者の厳格な肉体的、精神的適格条項が定められ、厳しい事前審査がおこなわれ、雇用後も恒常的に監視と検査がなされることとなる。とりわけ、危険な作業にあえて従事しようとする者が安定した生活基盤をもたない人びとであるとすれば、この検査・監視はより徹底したものとならざるをえない。

 また、原子炉はより攻撃的な妨害・破壊行為─原子力テロから守られなければならない。原子炉内部に侵入し核物質を持ち去ろうといった行為に対しても、恒常的な警戒体制がとられる必要がある。特殊な防衛武隊が組織され、通常の警察以上の権限が与えられる。それは、やがて、原子炉に接近しようとする者だけでなく、無数の市民に対して苛酷な監視体制をつくりあげる方向に導くことになるであろう。こうして社会は、自由な活動や批判の余地がなく、与えられた指令を受容し、機械的に順応するばかりの人間─ホモ・アトミクスだけが許容される「硬直した」社会とならざるをえないのである。

 だが、こうした方策によっても原子炉の危険はなくなりはしない。むしろ、「軍事利用」に通じる「平和利用」によって核の脅威は減少するどころか増大するばかりである。そうした危険をともなうごとを承知のうえで、なお未来の進歩や繁栄を約束しようとすれば、それは一つの「賭け」であることをまぬかれない。原子力開発を推進しようとする者たちはその意味で、現在の生命だけでなく、子々孫々に及ぶ未来の生命をも危険な賭けに巻き込もうとする「賭けごと師」にほかならない。

 この賭けにはさまざまな学問分野が動員される。だが、そこでは自由な討議や批判にもとづく創造性のある学問は封殺され、科学そのものが権威をおびた賭けとしての性格をもつにいたる。巨大工業プロジェクトとして推進される原子力開発は、一定の実験を通して検証された方法にもとついてなされるわけにはいかず、それ自体がつねに実験であるというあり方をまぬかれない。安全性が確認されるまでは稼働してはならないという開発の不文律は破られる。事の成否は理論的に算定された蓋然性にもとついて予測されるだけである。そして、研究者が自分の構想を実現するために巨大な資金を動かそうとするならば、いかなる場合にも楽観論を述べ、積極的な成果への期待と幻想をかきたて、関係部門を説得しなければならない。ひとたび事業が開始されるならば、この期待を損い、否定的な成果を暗示するような事実や見解はことごとく企業利益に反するものとして隠蔽される。自由な視点の転換、批判的見解の余地は失われる。それだけでなく、なんらかの理由で批判的とならざるをえなかった技術者・研究者は、現実に進行している「事実の強制」を研究生命にかかわる脅威として受けとめざるをえない。

 こうして、原子力開発は、科学・技術を駆使して自然支配をめざすだけでなく、それに従事する研究者自身を含むすべての人間を意のままに操作し管理しようとするものである。科学・技術による自然支配は人間支配に通じているのだ。広義の人間科学はこうした人間支配に動員される。それは、社会と人間のあらゆる側面を知り尽くすことによって、批判や抵抗の機先を制し、「危険な機械装置が要求する通りの、"安全"で意志なしで働く他の機械部品と同じように、威信がなくて、注意深く、信頼でき、飽きることがなく、意のままになる"人間類型"をつくりだすことに奉仕しようとするのである。

 こうした「硬直した」支配体系としての「原子力帝国」は原子炉の安全性の確保という点に正当化の根拠を求める。だが、そのことによって利益を得るのは大多数の市民ではなく、国家社会を、自分たちの意のままに操ろうとする「新たな借主たち」、一部のテクノクラートにほかならない。

彼らは原子力を背景とした国内支配をなしとげようとするだけでなく、核の独占と供給を通じて国際社会をも自己の主導する「エネルギーの鎖」につなぎ、新たな「原子力帝国主義」を打ち出そうとする。核の拡散をめぐる論議もこうした視点から考察される必要があろう。とりわけ憂慮されるのは、核兵器の放棄を義務づけられている国家が「平和的利用」の蔭で潜在的核保有国となり、第三国との提携を通じて秘密裡に核武装をすすめようとすることである。こうした形の拡散によって、まさに新たな「帝国主義間抗争」が開始される恐れがあるのである。

 原子力帝国がいっさいの批判を封じ、原子力産業に不利な事実を隠蔽する方向でのみ機能するかぎり、真の安全性を保障するものでは決してなく、内部の硬直に反して、全体はかえってきわめて不安定な「賭け」の性格をますます強めていくと言わなければならない。それだけでなく、自由や権利の制限、さまざまな管理・統制・抑圧にどこまで人びとの忍耐心や適応力が耐えうるかということにも問題があり、重圧が増せば増すほど、その反作用として、「社会的自然の爆発を誘発する危険性は増大する。ユンクは「硬直した道」の絶頂は最大の破局に通じていると憂慮するのである。

 こうした憂慮が決して杞憂でないことを示すために、原子力帝国(アトム・シュタート)のはらむ矛盾をユンクはさまざまな事例をあげて、ドキュメント風に指摘する。ジャーナリストとしての彼の豊富な体験が縦横に生かされ、彼の眼は全世界に光っている。本書がまれにみる衝撃力と説得力をもつとすれば、それは、豊富な事例にもとついて危機を直感的に提示する実証性と、事象の本質を見抜く理論の鋭さにあるといえよう。

 そして、「硬直した道」の危険性に対して、ユンクはなお別の道が可能ではないかと問い、「柔軟な道」を提唱しようとするのである。それは原子力開発のはらむさまざまな不合理を身をもって体験し、これに反対する人びとの運動のなかに源泉をもっている。それは、たんに市民の健康や環境を守るための運動であるにとどまらず、自由のための闘争、信頼と連帯を回復し守り抜く闘争としての意味をももっており、「硬直した道」のもたらす抑圧、自然破壊、疎外、冷淡、孤立、敵対に対して、新たな将来の可能性を開くものとしてとらえられている。それは、「つつましさ」、「公平」自然との結びつき、美しいものへの愛、感情の肯定、参加、想像力の解放をめざしており、創造性を失い、ますます硬直していく文化に対して、「対抗文化」を創造しようとするものである。六〇年代の学生運動に発したこの運動の精神は、いまや職業や身分の違いを超え、また国境を越えて展開しつつあり、ユンクは名もなき村々や都市に発する運動の小さな流れがやがて大河となって合流し、水の力が岩の固さを砕くように、「柔軟な道」を歩もうとする人びとの結束が「硬直した道」に設けられた堰を越えて流れることを期待するのである。

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コメント

当たって当然、間違えたらハラキリか袋叩きか連帯責任とする特質と
間違えて当然、間違いがあればプランBに臨機応変に変更する特質との違いが
原発事故後の対応でも顕著に現れているのでしょうね。

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