はだしのゲンが見たヒロシマ・原発切抜帖・ひろしま・あしたが消える日
翻訳記事ではなく最近見た映画。並べた順序、同一の映画館で見た順番に過ぎない。いずれも、マスコミでは、ほとんど紹介されていない、と思う。人気コメディアンのバラエティ番組だけでなく、こうした番組も放送して欲しいものだが、それは永久にありえないだろう。
筆者撮影
「はだしのゲンが見たヒロシマ」:2011年 77分
漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治氏の語り。以下パンフレットを流用させていただく。
─もう黙っていない、自分にできるのは漫画しかない。漫画で原爆をとっちめてやる─
1945年8月6日の広島、中沢は国民学校1年生(6才)だった。原爆投下の時、奇跡的に助かるが、父・姉・弟を亡くし、被爆直後に生まれた妹も4ヶ月で亡くなった。漫画家として活動を始めてしばらくした頃、原爆病院に長年入院していた母が亡くなる。火葬し、骨を拾おうとすると粉々に砕けてほとんど残っていなかった。「原爆は母の骨まで奪うのか」怒りがこみ上げた。それまでは被爆者差別もあり「原爆」から逃げていたが、母の死をきっかけに自分にできることは何なのか」必死に考え続け、原爆をテーマにした漫画の第1作目『黒い雨にうたれて』を描き上げた。その後少年ジャンプの編集者との出会いから「はだしのゲン』が生まれる。
─踏まれても人地に根を張りまっすぐ伸びる、そして豊かな穂を実らせる。『はだしのゲン』のテーマは麦なんです─
中沢は自らの体験を「ゲン」に託して描いた。父からの「麦のような人間になれ」という言葉を胸に、辛くて泣きたいときにはカラ元気で歌をうたって乗り越えてきた少年時代。『はだしのゲン』には人生の応援歌がこめられている。
─子どもたちに戦争、核兵器のない未来を追求し続けて欲しい、それには漫画がひとつの役割を果たしていると思う─
中沢は児童向けの漫画にこだわってきた。被爆のシーンを描写することに自身が苦しみ悩みながらも「体験した者にしか描けないことがある、それを読者に届けないと本当のことが分からない」と徹底して表現し続けた。「文章だと読みづらい子にも、漫画なら素直に人っていく。子どもたちに、素直素に戦争反対の気持ちが根付いていってくれたら作者冥利につきます」中沢は笑顔で語る。
水木夫妻を描いた「げげげの女房」も結構だが、「ゲンの女房」を見たいもの。
「はだしのゲン」中沢氏、アシスタント役をつとめられた奥様に、もっと光があたるべきだろう。
中沢氏、これまで広島の式典が偽善的でいやで、一度も出席されたことはなかったが、昨年の大病後、今年始めて出席されたという。
中沢氏、彼の前を、幽霊のような姿で、手を前に出した人々がぞろぞろ並んで歩いていったこと。みずぶくれの顔、皮のむけた手、足。皮がじゃまで、ずるずるとしか歩けないこと、「水」「水」という声、合唱。水を飲ませてあげたら、すぐに亡くなってしまった人のことなどを詳細に語っていた。彼は、人が制御できない原発には反対だ。中沢氏が初めて描かれた「黒い雨にうたれて」、会場で販売されていたが、買おうとしたら、売り切れで残念。
映画の製作・配給会社シグロのホーム・ページ
ご覧になった方のブログを一つ。広島在住のお医者様、河野美代子のいろいろダイアリー記事、ドキュメンタリー映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」
中沢さんの「はだしのゲン」を様々な言語版で刊行するプロジェクトのウェブは下記。英語版の漫画を購入可能。口語英語の実力強化、あるいは海外の知人へのプレゼントにお勧め。テーマは既知の話題。辞書を引く手間は少ないはず。
「原発発切抜帖」:1982年 49分
チラシから拝借
土本典昭監督の作品。ナレーターは小沢昭一。文字通り、新聞の切り抜きをもとに、構成されている。
原爆を投下された国が、原発大国になってゆく姿が、新聞切り抜きを通して浮き彫りにされる。
チラシから引用。
土本典昭・小沢昭一のコンビが日常生活の淵から問いかける衝撃のシネエッセイ!
1979年のスリーマイル島原発事故、1981年の敦賀原発の放射性廃液の流出事故を機に、土本典昭監督が長年切り抜きを続けてきた新聞記事から"原子力"をテーマに企画したドキュメンタリー。当時から問題にされていた原子力発電所や政府の姿勢を、新聞の記事から読み解き、小沢昭一の軽妙な語りと新聞記事だけで構成。斬新な手法が話題
新聞から見えてきたゲンパツ王国日本の姿!!
作者よりあらすじにかえて 土本典昭
この映画製作の動機に、ある若いアジア人のひとことがありました。「私の国で原発をつくる日がきたら、きっと日本がひきあいに出されるでしょう"原爆の怖ろしさをあれほど知っている日本でさえ、原発大国になっているではないか"」と。
昭和20年8月7日、広島のピカの第一報は3.5センチ角のべタ記事でした。「焼イ弾により若干の被害が出た模様」と国民の眼に原爆であることを隠したまま終戦に至りました。以後7年の占領期間、原爆被害報道はタブーであり、日映の原爆フィルムは没収されたのです。
昭和29年の第五福竜丸の死の灰による被爆は大事件でした。今回映画で当時の連日のニュースを追ってみると、福竜丸は広大な危険区域(立入禁止)の60キロ圏外の洋上で被災したことに気づきました。
アメリカ軍部の原子力・放射能障害の危険性の認識ぐあいはせいぜいその程度だったのではないか─とすれば、それをベースに計算された原子炉の安全性、放射能の安全基準は、その出発から誤算したままではないかとの疑いが生じました。
この映画は内外の原子力事故の追跡を当時の新聞報道の一行一行で試みたものです。そして何より自ら怖ろしくなったのは、アメリカの米兵にせよ、南太平洋の島民にせよ20年、30年ののちに病み死んでいっている、その"時差"でした。
ヒロシマ・ナガサキの体験をいつ、なぜ見失ったか、それは一篇のミステリーとも思えるのでした……(公開時チラシより)歩み出しの原点として 高木仁三郎
情報の洪水の中に置かれた私たちは、次々と新しい情報を追い求めるごとが習性になっている。だが、情報の海の前に、私たちは曇りなく状況を見据えるみずみずしい感性をすり減らしていないか。
原子力と核をめぐる彩しい情報は、戦後的世界の特徴である。そこでは、大事故の情報にすら私たちは飼い馴らされ、憤りを忘れ、被害者たちの苦しみを受けとめる感性を失っている。
土本さんの映像が、小沢さんの語りと相まって私たちに問うのは、そんな私たちの現在(いま)、私たちが原発や核と向き合う姿勢そのものである。恐しいまでに私たちの心につきささるこの映画が、全国をかけめぐり、明日への歩み出しの力となることを、大きく期待したい。(公開当時のチラシより)
映画の製作・配給会社シグロのホーム・ページ
そして、きわめつけの映画「ひろしま」。
「ひろしま」:1953年
webから画像を拝借
チラシの文書を転載しよう。
58年の時を経て、幻の映画が奇跡の再公開!
広島の市民ら約8万8千人が出演し、原爆が投下された直後の惨状を再現した
自らも被爆した教育学者・長田新が編纂し1951年に刊行した文集『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』を、日本教職員組合が映画化を決め、広島県教職員組合と広島市民の全面的な協力の下、多数の広島市の中学・高校生と父母、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し、八木保太郎(『人生劇場』『第五福竜丸』『橋のない川』)の脚色・東宝出身の関川秀雄の演出により制作された。出演者の申には原爆を直接体験した者も少なくなく、また映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。映画『ひろしま』で描かれる原爆投下後の庄倒的な群衆シーンの迫力は、広島県民の協力なくしてはあり得なかった。監督の関川秀雄は、原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に精力を傾け、百数カットに及ぶ撮影を費やし、克明に原爆被災現場における救護所や太田川の惨状等の阿鼻叫喚の修羅場を再現した。
この映画の持つ平和を希求する圧倒的な『熱」に動かされた人々により、21世紀に入り上映の機運が高まり、映画『ひろしま』を国内海外へ伝えていくプロジェクト『奇跡への情熱プロジェクト」が発足。2010年秋より精力的に上映活動を行い、ついに一般劇場での公開が実現した。「3.11」を経た今、核のない世界をのぞむすべての日本人必見の名作である。
中沢氏がいわれた行列が延々と続く。ちなみに、『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』には、中沢氏の文も掲載されている。『原爆の子』ワイド版岩波文庫(上)50ページ。
学校につくと、きゅうに思い出した。わすれ物をしたのだ。ぼくは早速家に帰ろうと思い、学校の裏口まで来た時、一人のおばあさんが、ぼくにたずねた。そのおばあさんは、ぼくらの組の人のおばあさんでした。ぼくはそのおばあさんと色々話をしていると
1955年ベルリン国際映画祭長編映画賞受賞。毎年8/6にテレビ放送されるべき映画。「はだしのゲン」とともに。
映画制作当時も今も、米日支配体制に不都合な映画は、決して上映されず、マスコミはあつかわない。Wikipediaから引用させていただく。
製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」と一部カットを要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した。9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞[10]。10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。
奇跡への情熱(核廃絶プロジェクト)、 映画『ひろしま』を世界へ
ご覧になった方のブログを一つ。「「ひろしま」」映画三昧
「あしたが消える日」-どうして原発?:1989年 55分
原発で作業をしていた52歳の父親を骨癌で失った仙台市の主婦が、それをきっかけに、原発について考え、調べる様子を追ったドキュメンタリー。新聞への投稿がきっかけだという。父親をほこりに思う一方、原発に疑問をもつのは、父親に申し訳ないのではという自然な感情をつづった文章だ。
偶然、父親、福島原発でも、作業をしていた。
原発の危険さを訴えておられる田中三彦氏も登場。
今も、東北に暮らしておられるご本人、今回の地震で影響を受けたという。
広瀬隆氏、チラシに寄稿しておられる。一部を転載させていただく。
最後のナレーションは、「福島原発」で大事故が起こった時に、日本全土がチェルノブイリと同じように危険地帯に一変することを予言していた。
22年前に公開されながら、日本中を走り回っていた私はこの映画を見ていなかった。当時は、このように日本中が放射能の危険性に気づき、意識が高まった時期であった。ところがどうだろう、今年3月、実際にこの映画の予言通り、おそれていた福島第一原発メルトダウン事故が起こってみると、現在の日本は、当時のソ連よりおそろしい日本人の愛国心と放射能に対する無知のために、大量の被爆者が汚染地帯で過ごし、子供たちが学校に通っているのだ。
しかし先日、7月2~3日に、福島県のいわき市、福島市、郡山市で放射能の危険性についての学習会が開かれた。会場を埋めつくし、不安に満ちた父母を前にして、この作品を観る前の私は、県内がどれほど危険な状態にあるかを説明しなければならなかった。そこで語ったことこそ、この作品『あしたが消える』が描いた内容そのものだったのである。それはつまり、これから何年後かに、何が起ころうとしているか、である。私は何度も、涙をこらえきれずに話さなければならなかった。
22年の星霜が流れるあいだに、われわれ日本人は何を忘れたのか。原発で働く被曝労働者と同じ条件の汚染地帯に、福島県内の学童が生きている今、この秘蔵されていたドキュメントは、誰の胸にも突き刺さる問いを発してくる。
パンフレット(500円)を購入したが、原発映画リスト他、あるいは、映画に登場された医師のお話など、情報が有り難い。「ひととき」への投書もそのまま掲載されており、当時のインタビューもある。「蟷螂の斧ではなく」と題する千葉茂樹氏の冒頭の文章から、一部ご紹介しよう。
反原発に関する映画を創ろうとしてた時、テレビ局の仕事もしているので、会社名を名乗るのは止めた方がいいという意見が出た。結果として、近代映画協会の
オフィスの中に机を一つ用意して、仮の看板を掲げた。「原発を考える映画人の会」である。電話も近代とは別の回線を使った。それほどに、当時は反原発を名乗ることが厳しい時代であった。
今、反原発を名乗る環境、さほど厳しくなくなっただろうか?
『あしたが消える―どうして原発?―』(1989)緊急公開をめぐって Women's Action Network
HogaHolicには、下記の素晴らしい記事がある。
『はだしのゲンの見たヒロシマ』『原発切抜帖』『あしたが消える―どうして原発?―』
文章:水上賢治
というわけで、「原発発切抜帖」や「あしたが消える日」をみれば、決して『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』わけではなく、私たちはこうして原発を押しつけられたことがわかるはずだ。普通に考えれば。
『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』の著者が言う?賛成派でなく、反対派でない、第三の立場、ありえまい。原発推進派と反対派、論理の力は別として、力関係、圧倒的に非対称的なのは明白。政治権力の圧倒的与党、超巨大資本、財界、官庁、マスコミ、学界すべてが、基本的に推進派、311後の今でさえ推進プロパガンダを展開しつづけている。ダビデとゴリアテ。「中庸」とは、現状肯定の糊塗表現、最後は多数派につくコウモリ、隠れ推進派によるプロパガンダに思えてくる。ネット大書店では、不思議なことに、絶賛が大多数。念の為読んだが、人さまに勧める気にはなれない。
ところで、NHK ETV「ネットワークでつくる放射能汚染地図3」を見損ねた。うかつにも放送があることを知らなかった。再放送に期待しよう。
広島には、チェコ人建築家ヤン・レツルが設計した広島県物産陳列館、つまり原爆ドームが原爆被害の歴史的遺跡として残っている。長崎には、同様な姿になった浦上天主堂があったが、不思議なことに、すっかり撤去され、新築された。現在は壁のごく一部が爆心地に移設されているに過ぎない。撤去された理由を追った興味深い本がある。その本を読んで以来、不都合な真実は消されたのだ、と思っている。
高瀬 毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」平凡社
asahi.com で「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」保阪正康氏書評が読める。
積読よみ崩し読書日記-ノンフィクション系の2009年11月27日記事も、この本の書評。
結局は金力の差で、松下とアメリカ財務省出張所の傀儡が首相になる。
放射能に、自然環境・土壌は汚染され、財界と宗主国によって、どじょう首相も汚染されたまま。われら汚染どじょう不沈空母の虜囚。
『平成経済20年史』をお読みいただきたい。選挙を超越して、66年間、宗主国向け施策を強化・推進し続けている役所の姿がわかる。
志村建世のブログ、四回にわたり『平成経済20年史』を読む、が書かれている。
原発問題での間違いを率直に語る政治家もおられるのだが。郵政破壊に真っ向から立ち向かった人だ。
本澤二郎の「日本の風景」(861)<荒井広幸参議院議員の絶叫>2011年08月29日
そして、福島の真実。
ドイツZDF-Frontal21 福島原発事故、その後(日本語字幕)7:55 (福島中央テレビの要請で削除?爆発の瞬間の画像が福島中央テレビの画像なのだろうか?著作権侵害というが、国・県・マスコミをあげた真実抑圧が狙いでは?)北朝鮮の翼賛報道や中国高速鉄道の証拠隠滅を笑えまい。あやしいお米セシウムさんテロップどころではない蛮行。
ドイツZDFの『福島原発事故、その後』日本語字幕文字起しで、テキスト化されたものが読める。(今は、もはや読めない。)
最近のコメント