アメリカ合州国は、なぜ教育制度を破壊しているのか
Chris Hedges' Columns
2011年4月10日
Lin Pernille の写真画像を基にした、PZSによる写真イラスト
Chris Hedges
自国の教育制度を破壊し、公共情報の質を低下させ、公共図書館を破壊し、放送波を安手で低俗な娯楽の為の媒体に変える国は、耳が聞こえなくなり、口がきけなくなり、目が見えなくなる。アメリカは、批判的に考える能力や読み書き能力よりも、テストの得点を重んじている。アメリカは、丸暗記の職業訓練や、特異な、金を儲けるという、道徳心に欠けた技術を褒めたたえている。アメリカは、様々な思い込みや、法人国家構造に疑問を投げ掛ける能力や語彙が欠如した発育不良製品人間を量産している。アメリカは、そういう連中を、ごくつぶしやシステム管理者のカースト制に、注ぎ込んでいる。アメリカは、民主的国家を、大企業の奴隷所有者と奴隷という封建制度に変身させている。
現在攻撃されている教師、教員組合は、バーガー・キングの最低賃金従業員同様入れ換え可能なものとなりつつある。子供たちに考えるよう動機付けたり、若者が自分の才能や潜在力を発見するのを手助けしたりする能力がある本物の教師を、我々は拒絶し、彼等を、共通テストに絞って教える講師と置き換えている。そういう教師達は服従する。彼等は子供たちに服従することを教える。そして、それが大事なのだ。“テキサス州の奇跡”を範にした落ちこぼれ防止計画は詐欺だ。アメリカの規制緩和された金融制度同然の機能しかない。しかし議論を排除してしまえば、こうした駄目な考え方が、自己増殖できる。
マークシート式テストというものは、特定の形の分析的知能を称賛し、報いるものだ。投資管理者や大企業は、この種の知能を重んじる。連中は従業員に、気まずい質問をしたり、既存の体制や前提を検討したりして欲しくないのだ。連中、従業員は体制に奉仕して欲しいのだ。こうしたテストは、基本的な機能やサービス業を勤めるのに十分なだけの読み書き、計算しかできない人々を生み出す。テストは、そうしたテストに備えられる経済的資力を持った連中を昇進させる。連中は、規則に従い、公式を暗記し、権力に対して服従する人々を評価する。反逆者、芸術家、自立して考える人々、変わり者や、因習を打破する人々、我が道を行こうとする人々は、排除される。
ニューヨーク市のある公立学校の教師が、名前を決して出さないことを条件に話してくれた“自分がしていることのほとんどが詐欺的だと知りながら、一層残酷な世界での暮らしに、自分の生徒を備えさせようとしているわけでは決してないと知りながら、お膳立て通りの試験対策コースを教えなければ、しかもそれを更にうまくやれるようにならなければ、失業すると知りながら、毎日学校に出かけるのを想像してください。つい最近までは、学校の校長というのは、オーケストラの指揮者のようなものでした。メンバー全員のパート譜、全ての楽器の位置について深い経験と知識を持った人物です。過去10年間に、[知事の]マイク・ブルームバーグのリーダーシップ・アカデミーやら、エリ・ブロードの監督者アカデミーが登場していますが、いずれも、もっぱら即席の校長やCEOを手本にした管理者やらを作り出すべく設立されています。一体どうして、この種の学校なるものが合法的なのでしょう?そのような‘アカデミー’は一体どうして認可されるのでしょう?一体どんな質の指導者が、‘リーダーシップ・アカデミー’を必要としているのでしょう?一体どのような社会が自分の子供が通う学校をそういう連中に運営させるでしょう?いちかばちかの試験は、教育として価値などない可能性が高いのですが、学校制度を弱体化させ、恐怖を植えつけ、企業乗っ取りの論拠を生み出すには素晴らしい仕組みです。教育改革が、教育者ではなく、投資家や投機家や億万長者に遂行されつつある事実は、何とも奇怪なことです。”
あらゆる方向から攻撃されつつある教師達は、仕事から逃亡しつつある。“改革”電撃作戦が始まる前から、働き始めてから五年以内に、全ての教師の半数を失っていたのだ。しかもこの人々は、教師になる為に何年も学校に通い、何千ドルも費やした人々なのだ。敵意という今の条件の下で、一体どうして国が、威厳ある、経験を積んだ専門家を雇い続けることを期待できようか。税補助は受けるが、従来の公的教育規制を受けない学校、チャーター・スクール制度の背後にいる、ヘッジ・ファンド・マネージャー達、つまり、一番の関心事が決して教育ではない連中は、本物の教師を、非組合員で、経験の乏しい講師に、喜んで置き換えようとしているのだと見ている。本当に教育をするということは、公益を推進し、歴史的健忘症の愚行から社会を守る価値観や知識を教え込むということだ。共通テストや、リーダーシップ学校という制度が奉じる功利主義的な、大企業イデオロギーには、文科系の教育に特有の微妙なあやや、道徳的な曖昧さ等を、論じている暇などないのだ。大企業が政治を牛耳るコーポラティズムというのは、我欲崇拝だ。人間存在の唯一の目的として、個人的豊かさと、利益が大切なのだ。そして同化しない連中は脇に押しやられる。
“こうしたお決まりの企業読書計画や共通テストは、色々なことに役立つのだと、子供たちに教え込み、事実上、嘘をついているのだと自覚するのは、何ともやりきれません”彼がはっきり意見を述べていることを、もし学校の管理者連中が知ったら、報復されるのではあるまいかと恐れるこの教師は、そう語っている。“自分の生計が、益々この嘘を維持し続けることにかかっていることを考えると更に気が滅入ります。一体なぜヘッジ・ファンド・マネージャーが突然に都市部貧困層の教育に関心を持つのか?と自問すべきです。テストが流行っている、本当の狙いは、生徒の格付けではなく、教師の格付けです。”
“確信をもって言うことはできませんが、全く何も知らない分野について、絶大な確信を持って、もったいぶって語るビル・ゲーツや、マイク・ブルームバーグのような確信では。けれども、改革キャンペーンの主な狙いは、教師の仕事を、極めて恥ずべきものにし、威厳ある、本当に学識のある教師達を侮辱し、一片の自尊心がある間に、簡単に離職させるのが狙いだろうと益々勘ぐるようになりました”彼は補足した。“十年もたたない間に、私たちは、自主性を剥奪され、益々こと細かに管理されつつあるのです。生徒達は、テストに落ちることによって、我々を解雇するという権力を与えられています。教師達は、餌桶の所にいる豚にたとえられ、アメリカ合州国の経済崩壊の原因だとされています。ニューヨークでは、校長は、経験豊富な教師を、22歳の終身在職権がない新米で置き換えるよう、財政上でも、管理上でも、ありとあらゆる手段で仕向けられているのです。そういう連中は給料が安いのです。連中は何も知りません。連中は従順で、首にしやすいのです。”
教師を悪者に仕立て上げるのは、アメリカ労働者の給料、貯蓄や収入から、約170億ドルを窃盗する行為や、労働者六人に一人が失業している状態から、目をそらせるための、大企業にとっての方便、もう一つの陽動作戦広報活動なのだ。ウオール街の相場師連中は財務省を略奪した。連中はあらゆる種類の規制を妨害した。連中は刑事責任を免れてしまった。連中は、基本的な社会福祉をはぎ取っている。そして今や連中は、アメリカの学校や大学を運営すると主張しているのだ。
“改革論者達は、要因から、貧困を除外しただけではありません。連中は要因としての生徒の適性や、動機付けも除外してしまいました”教員組合に加入している、この教師は言う。“生徒達は草花のようなものだから、水をくれてやり、自分による教育という日に当ててやれば、全て花開くのだと、連中は考えているように見えます。これは生徒と教師双方を侮辱する妄想です。改革論者達は、教育という職業を専門職とするためのステップなる様々な狡猾な策略を考え出しました。連中は全員実業家なので、この分野のことを何も知らず、教師達に、自主性を与え、敬意を払って、こういうことをする訳ではないのは、当然のことだ。連中は、マークシート式テストの成績が良い生徒の教師には、多く給与を支払い、マークシート式テストの成績が、さほど良くない生徒の教師にはより少ない給与を支払うという業績給を持ち込むのです。もちろん、考えられる限り、そういうことが公正となる唯一の方法は、それぞれのクラスの生徒を全く同等の集団にすることですが、それは不可能です。業績給の本当の狙いは、教師達が、より賢く、より意欲のある生徒を奪い合うことで、教師同士を分断することと、共通テストという愚劣な発想を更に制度化することです。この両方において、ある種の悪魔的な諜報工作が行われています。”
“もしも、ブルームバーグ政権が何かの点で成功したと言うのであれば”と彼は言う。“連中は、学校を、校長を満足させられるかどうか、学校は今から一年先も続いているかどうか、自分たちの組合が、その頃でもまだ存続していて、何らかの保護をしてくれるかどうか、来年も仕事があるのかどうかと、教師達がいぶかりながら、走り回るストレス製造工場へと転換することには成功したのです。これは学校組織を運営する方法とは言えません。これは学校を破壊する方法です。改革論者達と、マスコミ業界にいるその友人連中が、駄目な教師と良い教師という、マニ教の二元論世界を作り出したのです。この二者択一の世界には、他の要因は一切存在しません。あるいは、貧困、堕落した両親、精神疾患や、栄養失調など他の全要因は、全て駄目な教師の言い訳で、勤勉と良い教師によって克服できるのだ。”
本当に教育された生徒は自覚を持つようになる。生徒達は自己認識をするようになる。生徒達は、自分自身に嘘をつかない。生徒達は、詐欺は道徳的であるとか、企業の強欲は善であると偽りはしない。彼らは、子供たちの飢餓や、病人の診療を、市場の要求で拒否することが、道徳上、正当化できるなどとは主張しない。彼等は、事業を行う為のコストだとして、600万の家族を家から追い出すようなことはしない。思索とは、人の、内なる自分との対話だ。お上が、聞かれたくないと思っている質問をしよう、と彼等は考えるのだ。彼等は、私たちが何者かを、我々の出自を、そして我々が進むべき先を知っている。彼等は、権力については、永遠に懐疑的で、不信の目を向けつづける。そして彼等は、この道徳的自立こそが、集団的無自覚からうまれる根本的な悪に対する唯一の防御であることを知っている。考える力こそが、盲目的服従を押しつけようとする、あらゆる中央集権化した権力に対する唯一のとりでだ。ソクラテスが理解していた通り、人々に、何を考えるべきかを教えることと、いかに考えるべきかを教えることには、大きな違いがある。道徳的な判断力に恵まれた人々は、たとえそれが、法人国家によって認可されたものであっても、犯罪を行うことを拒否する。彼等は、結局、犯罪人連中と一緒に暮らしたい等とは望んでいないからだ。
“世界中と対立する方が、自分自身と対立するよりはましだ”とソクラテスは言った。
正しい質問ができる人々は、道徳的判断をし、外部からの圧力に直面した際、善を擁護する能力を備えている。そして、これこそが、哲学者イマニュエル・カントが、他人に対する義務より、自分自身に対する義務を重んじた理由だ。カントにとっての規範は、自己愛、つまり、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい、という聖書の考え方ではなく、自尊心なのだ。私たちを、人間として、意義があり、価値あるものとしてくれるのは、全世界の不正や、巨大な道徳的無関心に対して、立ち上がり、立ち向かう能力なのだ。正義が滅びてしまえば、カントが理解していたように、人生はあらゆる意味を失ってしまう。宗教法も含め、外部から押しつけられた法や規則に、おとなしく従う人々は、道徳的人間とは言えない。押しつけられた法律を履行することは、道徳的に中立とは言えない。本当に教育された人々は、正義、共感や良識といった高尚なものに、自らの意思を役立たせようとするものだ。ソクラテスも、悪に苦しむ方が、悪を行うより良いと言って、同じことを主張した。
ハンナ・アーレントが書いているように、“しでかされた最大の悪というのは、誰でもない人間、つまり人間であることを拒否している人間によって犯された悪だ。”
アーレントの指摘通り、我々はこの自覚を持った人々だけを信じるべきなのだ。この自覚は、意識することから生まれる。それは、犯罪が行われるのを見た際“私にはやれない。”と言える能力に付随する。アーレントは警告した。盲目的服従という脆弱な構造を中心に構築されている道徳体系の持ち主達を、私たちは恐れなければならない。考えることができない人々を恐れなければならない。自覚無き文明は、全体主義の荒れ地となる。
“悪事を働く者共の中で一番悪い奴らは、決して、物事にじっくり思いを巡らすことをしない、記憶のない連中であり、彼等に記憶が無ければ、何事も連中を引き止めることはできないのだ”と、アーレントは書いている。“人間にとって、過去の出来事を考えるということは、深みの方向に向かい、根を下ろし、そして時代精神なり、歴史なり、単なる誘惑なり、起こりうるあらゆることによって押し流されないよう、自らを安定させることを意味している。最大の悪というものは、根源的なものではない。根を持たず、根が無いがゆえに、限界が無く、想像を絶するような極端に走って、世界中を襲いかねないのだ。”
記事原文のurl:www.truthdig.com/report/item/why_the_united_states_is_destroying_her_education_system_20110410/
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小学生に英語を教えるより、高校生に、こうした文章を読める力をつけることの方がよほど大切だろう。その逆を無理やり押しつける文部科学省という組織、学習や科学する力を破壊する組織だろう。「属国は宗主国を模倣する。」
教育を破壊することの大切さを充分理解している宗主国は、日本だけでなく、イラクでも、教育を徹底的に破壊している。
土肥さんという元都立三鷹高校校長が、高校の職員会議で『挙手・採決』を禁止することに反対して、退職後の継続採用を拒否され、訴訟をしておられる。
職員会議で『挙手・採決』が禁止、というのであれば、日本、北朝鮮と変わらないではないか?そう、日本は、北朝鮮レベルの国なのだ。原発情報発信をみれば、ソ連以下の国であることは誰でもわかるだろう。
子供が放射能で汚染された校庭で遊び、やがて甲状腺ガンになっても関知しない国だ。とうとう国民すら棄民する国だ。
教育の話題ではないかも知れないが、吉本隆明という人、小生の学生時代、一世を風靡していたと記憶している。多くの同級生、彼の発言を先生方の発言より有り難がっていた。「吉本ばななのお父さん」ではなく、日本言論界のヒーローだった(ように被害妄想している?)。
彼が1982年に書いた『「反核」異論』なる本がある。刊行当時大評判になったらしい。(マスコミの「評判」なるもの必ずしも品質を保障するものではないだろう。)
彼の言説、体質的に全く受け付けられない(早い話が、難解な論理を理解するIQがない)ので、当時読まずにいたが、今回思い出し、我慢して読んでみた。
東工大卒業の人物による文章だが、高校の物理・数学につまずいた小生でも、唖然とする手放しの楽観主義。本当にこの言説で、旧左翼なるものをなぎ倒せたのだろうか?
ほぼ日刊イトイ新聞で最近の発言も読める。「ほんとうの考え」。是非とも、この文章について、「ほんとうのコメント」を頂きたいものだ。
『「反核」異論』の60ページから、62ページを丸ごと転記させていただこう。ただし太字部分は小生が加工した。
もちろんマルクスが資本制生産の解明が「社会」の「科学」であると信じ、序文で宣明しているのは「科学」が政治や党派にたいしてニュートラルだといいたかったのではない。 「科学」が本質的には自然の解明であり「社会」にも自然史の延長として解明して大過ない「本質」的な性格を示す部分があり、その範疇でだけ、「社会」の経済学的分析をじぶんがやっていると信じたのだ。もちろん「核」エネルギイの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。この「本質」を政治や倫理と混同すれば、黒古一夫や山本啓のように暗黒主義や原始主義の陥穽にかかってしまう。山本啓はもともと本質論を欠いた機能主義者だから、わたしの論議を正確に読めない。そればかりか、すぐに政治的応用や政治的統御の問題にすりかえて、典型的に「政治」と「科学」の混同に陥込んでいる。何もちっとも理解できてはいない。それにもっとひどいのは、専門外のことだと、幼稚な倫理主義者に退化してしまう、つまらぬ啓蒙科学者の言説を鵜呑みにしていることだ。
「放射性物質は、その放射能が半減する半減期が、いちばんみじかいものでセシウム一三七の三〇年、プルトニウム二三九にいたっては、何と半減期が二四三六〇年である。いま日本に蓄積されている放射性物質はドラム缶で五〇〇〇〇本をとうにこえており、この南太平洋への海洋投棄がおおきな政治問題化しているのも、周知のことだろう。核エネルギー開発をこれ以上すすめていくのかどうか、この選択以上に政治的な問題はない。」(同前)
知ったかぶりをして、つまらぬ科学者の口真似をすべきではない。自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。これが「核」エネルギイにたいする「本質」的な認識である。すべての「核」エネルギイの政治的・倫理的な課題の基礎にこの認識がなければ、「核」廃棄物汚染の問題をめぐる政治闘争は、倫理的反動(敗北主義)に陥いるほかないのだ。山本啓の言辞に象徴される既成左翼、進歩派の「反原発」闘争が、着実に敗北主義的敗北(勝利可能性への階程となりえない敗北)に陥っていくのはそのためだ。こんなことは現地地域住民の真の批判に耳を傾ければすぐに判ることだ。半衰期が約二万四千年だから、約五万年も放射能が消えないプルトニウム廃棄物質にまみれて、あたかも糞尿に囲まれて生活するかのような妄想を、大衆に与えるほかに、どんな意味もない。いいかえれば開明によってではなく、迷蒙によって大衆の「反原発」のエネルギイをひき出そうとする闘争に陥るほかないのだ。
山本啓の放射能廃棄物質への妄想は、大江健三郎の「核」兵器への妄想と寸分ちがわぬ被虐的(マゾヒック)なものにすぎぬ。山本は核エネルギイの解放の「本質」が、即自的に宇宙の構造の解明、いいかえれば物質の起源への接近の一歩の前進にあたっているという本質論を欠いている。
そのため途方もない「核廃棄物質終末論」の袋小路につんのめっている。あとは躓いて倒れるほか道はない。山本啓に専門的認識を要求してもはじまらないが、現代物理化学のイロハでも知っていれば、「核」廃棄放射能物質が「終末」生成物だなどというたわけ果てた迷蒙が、科学の世界をまかり通れるはずがないのだ。宇宙はあらゆる種類と段階の放射能物質と、物質構成の素粒子である放射線とに充ち満ちている。半衰期がどんな長かろうと短かかろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ。この基本的な認識は、「核」エネルギイの解放が、物質の起源である宇宙構造の解明の一歩前進と同義をなすものだという本質論なしにはやってこない。
山本啓のような機能的な政治主義エコロジストに捉えられるはずがない。だから「放射性物質のような非更新性のエネルギーは、それ以上の再処理の仕様がないのだ」という「核廃棄物質終末論」に陥ちこみ、その反動として「のこされた道は、更新性のエネルギーに依存して(つまり石油.石炭・薪・木炭生活ということか?)生態系の物質循環のなかで定常的な生活」を夢みる暗黒主義者、原始主義者に転落してしまうのだ。山本啓がどこまで本気で「反原発」闘争に取組んでいるのかは知らぬが、この「本質」的な認識を欠いた闘争が、勝利への一里塚としての敗北にもならぬ、ただの敗北主義的敗北に終ることはわかりきっている。山本の云い草をそっくり投げ返せば、それこそが国家権力である自民党政府に反対したつもりで、じつは加担以外の何も意味しはしない。聴く耳があればわたしの批判をきくがよい。なければじぶんたちだけで転落すればよい。ただ反動的な理念で「反原発」の大衆運動を出鱈目な方向に嚮導することだけは誰にも許されてはいないのだ。
しかし、現時点で考えれば、
科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である、などとどうして言えるのだろう?
吉本の云い草をそっくり投げ返せば、それこそが国家権力である自民党・公明党・民主党政府に反対したつもりで、じつは加担以外の何も意味しはしない。
不思議なのは、まさに彼のこの部分の発言を、有り難がる皆様が多数おられたということだ。いまでも削除せずに、そのままにされているのは、心から有り難がっておられるのだろう。
IQの低い素人には、偉大な思想家の不思議な言説よりも、「おんな組いのち」webに緊急掲載された中山千夏さんによる「私のための原発メモ」pdfのほうが、ありがたい。
生徒を放射能にさらす規制値緩和を推進する文部科学省にたいして反抗する先生方こそ人間の教師であり、教育破壊科学省に服従し規制を守る人々は、反抗ならぬ、生徒を危険にさらす『犯行』をしているのだ。犯人であっても教師ではないだろう。
そういう犯罪教師を多数派にすべく、国も、企業も、教育制度を破壊しているのだ。
政府は、想定外の津波などではなく、単純に、地震のおかげで、大事故となった原発から放出された放射性物質で、「次世代の日本人」を危険に曝している。
政府、御用学者、マスコミぐるみのこうしたあからさまな犯罪行為、情報統制と同時並行している。
NHK、貴重なドキュメンタリー『チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染』を、オンデマンドから削除しているという。
youtubeに投稿されると、削除させているという。
それでも、めげずに投稿されている。見られるうちに、ご覧いただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=4GcOF4prndE&feature=related
そもそも膨大な使用済み核燃料をあんな場所に蓄えているなど知らされていなかった。使用済み核燃料や、他の放射性廃棄物、危険でなくなるのは、100,000年先の話。
原子力発電を行う際に生じる放射性廃棄物の永久処分場として、フィンランド、オルキルオトに建設中の"オンカロ(隠された場所)"の作業・人々のドキュメンタリー。『100,000年後の安全』 渋谷アップリンク、池袋シネマ・ロサ等で上映中。
16億年?も安定した岩盤を掘削し、地下500mに危険な放射性廃棄物を埋め、2100年に全て埋め戻してしまうのだという。
安全になるのは、10万年後。
ピラミッドに残された記録の解読さえままならない我々が、一体どうやって、100,000年先の人類?に、「危険な場所だから、掘り返すな」というメッセージを残せるのだろう。図で?絵で?国連の言語で?
日本には、もちろん16億年?も安定した岩盤など、どこにもない。
「トイレのないマンション」で発生した、危険な廃棄物、100,000年の間、一体どうするのだろう。どうしても、
即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。
とは考えられない。お弟子さん?のイトイさん、教えてください。
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