Richard Mynick
2010年6月12日
大衆的語彙の中に初めて登場して以来、“オーウェル的”という言葉は、典型的な“全体主義国家”の姿を呼び起こす。秘密警察だらけの一党独裁、自国民をスパイし、異議を唱える連中を弾圧し、恣意的逮捕や、囚人の拷問を行い、永久戦争を遂行し、ご都合主義のために歴史を書き換え、自国の労働人口を貧困化させ、ダブルシンク(二重思考、つまり“二つの相反する信念を、同時に心の中に保持し、両方の信念を受け入れる力と、定義される思考体系)に根ざす政治論議。
多くのアメリカ人は、この“オセアニア”描写が、20世紀中期の最も影響力がある不滅の英語小説の一冊、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』にある未来の暗黒郷であることは容易にわかるだろう。
多数のアメリカ人が、この描写が自らの社会そのものにもあてはまると思うかどうかは、また別の話だ。しかし2000年の大統領選挙の不正以来、出来事 9/11攻撃、架空の“WMD”(大量破壊兵器)に基づくイラク侵略、拷問スキャンダルや、2008年の金融危機等が起きた時期として、この事は益々多くのアメリカ人が理解しつつあるものと思える。
『1984年』は冷戦の緊張が高まる最中、1949年6月に刊行された。大半の西欧の読者にとって、当時の反共というプリズムを通して、本書はたやすく理解ができた。
小説の警察国家は、スターリンのソビエト社会主義共和国連邦と、疑うべくもないほど類似している。スターリン主義に激しい敵意を持っていた、自ら認める民主社会主義者、オーウェルが書いたものゆえ、それも驚くべきことではない。しかし、オーウェルはスターリン主義と社会主義を一緒くたにするには、余りに明敏で(例えば、“私の最新の小説 [‘1984年’]は社会主義に対する攻撃を意図したものではなく…共産主義やファシズムにおいて既に一部実現されている…逸脱を表現するものです...。”と書いている[1])、冷戦時代に彼の小説を読んだ人々は、得てしてこの違いを理解しなかった。彼の注意書き(“英語国民が、他のどの国民より、生まれつき優れているわけではなく、そして全体主義が…どこにおいても勝利しうる”ことを強調するために、本書の舞台がイギリスに置かれた…)はほとんど見過ごされ、世上、小説のゾッとする予言(“もしも将来の姿を見たければ、永遠に人間の顔を踏みつけるブーツを想像すればよい”)は、主に西欧風資本主義“デモクラシー”の敵と見なされている政治制度の特性だとされている。(2)
しかし『1984年』は、決して西欧を裏書きするものではない。国営マインド・コントロールを論理的極限まで利用して、自分たちの権益のために、支配し、権力を維持する、責任を負うことの無いエリート層を仮定しているのにすぎない。経済組織という名目的構造にはこだわらずに、国民を搾取的支配に強制的に服従させる上で、運営上、一体何が関与しているのかを、本書は検証しているのだ。いささか違う言い方をすれば、この小説は、支配的官僚制度なり、金融資本なりのいずれから発生するものであれ、責任を負うことのない国家権力一般についての、心理-社会的機構を検討しているのだ。小説は、極めて不平等な社会において、社会的安定性を維持するための、抑圧と国民意識の支配という、ある種の組み合わせによってのみ実現可能となる、基本的な問題を探っている。
粗野な専制政治は主として弾圧を用いる。洗練された専制政治は、意識を支配する、より巧妙な手段を見いだすのだ。逆に意識は、社会における言語の公的な使用方法と深くからんでいる。オセアニアもアメリカも、国民の意識を巧妙に形成する国家なのだ。それこそが、なぜ二つの社会が、益々核となる特徴を共有しており、既に言語、意識、順応や、権力との間のつながりに対する鋭い洞察を認められている『1984年』が、冷戦当時より、2010年、一層読者にあてはまるのは確実だという理由だ。
1984年のオセアニアにおけるマインド・コントロール
オーウェルの架空のオセアニアでは、心理社会的な機構は、大まかに言ってこんな風に機能している。全ての権力は党に掌握されている。永久戦争は国家政策の原動力だ。マスコミは、国家プロパガンダの単なる道具に過ぎない。国民は、思考警察が実施する絶えざる監視と、思考の幅を狭め(言語そのものが、異端思想を形成するのに必要な構成概念に欠けている為)思考犯罪(異端の思想)を原理的に不可能にするのが狙いである新言語、ニュースピーク(新語法)の発展のおかげで牽制されている。
囚人の公開処刑や二分間憎悪等の国家が提供する儀式は、残虐な国粋主義や好戦的愛国主義への熱中を生み出す為のものだ。国民の85パーセントを占める“プロール”は、彼等が政治意識を発達させるのを防ぐために(主として、スポーツ、犯罪、宝くじや、セックスに注力した映画という)頭を麻痺させるようなマスコミの気晴らしで一杯にされてしまっている。プロールは“今ある姿とは違う世界がありうるはずだということを理解する想像力を持てない”ままにされている。
一方で、党員達国民の2パーセント以下である党中枢“インナー・パーティー”と、より権限の少ない党外郭“アウター・パーティー”のいずれも)は、思想犯罪を行うことを避けるために、ダブルシンク(二重思考)の技術を習得しなければならない。党員は“外国の敵や、自国内の裏切り者に対する憎悪、勝利に対する歓喜、党の権力と叡知を前にした自己卑下といった具合に、常に熱狂して暮らすことを期待されている”自分の思考を自主規制するのが下手で、正統思想に対する潜在的脅威となりかねないような人々は、国民の中から体系的に間引かれてしまう。反抗分子は、人間性を破壊するよう科学的に設計されたやり方によって拷問されるのだ。
2010年のアメリカ合州国で、それがいかに機能しているか
上記特徴の全ては、2010年のアメリカ社会に、すぐそれとわかる形で存在している。あるものは本格的な形で。またあるものは、より原初的な形で(また現在も進化中だ) 。今日の類似しているものの多くを網羅的に列記すれば、丸ごと一冊の本ができてしまうだろう。そうした本には、オセアニアの皮肉に名付けられた“平和省”アメリカ“国防省”よりも、オーウェル風婉曲表現はないという些細な事実の一致までも含まれるだろう。
そうした本は、より重要な類似、つまり“異端の思想”を発展させるのに必要な概念や物の見方(つまり既成政治経済制度に対する合理的な批判)を体系的に国民から奪い取るために、アメリカのマスコミ等が、一種のニュースピーク(新語法)として機能している、様々なやり方を載せることになるだろう。その本には、本質的に世界金融危機の負担は、この危機の犠牲者によって支払われるべきであり、危機の犯人達は損失に対し免責されるべきだという、ウオール街救済措置の根本にある論理も載るだろう。しかもこの政策は、彼等が“民主的に選び出した”政府によって犠牲者に押しつけるべきなのだ(つまり、ほとんど全国民に) ということも。(マルクス: “抑圧されている人々は、数年に一度、彼等を抑圧している階級の、どの代理が自分たちの代表となり、自分たちを抑圧するかを選ぶことが許されている。”)
以下は、オーウェルの洞察が未来の空想と見なされて以来、数十年のうちに、そして西欧の限定された資本主義“民主主義”の姿がオセアニア風専制政治に対する防波堤と見なされて以来、一体我々はどこまで来てしまったのかを示してくれる、いくつかの類似点の概要だ。
労働者階級が、ファシスト・ドイツやイタリアの場合のように、歴史的敗北を被ったか、あるいはソ連のように、反革命的な官僚制度によって、権力を奪われてしまった状態を、オーウェルが想定していたことは留意しておく必要がある。現代アメリカにおいて、物事に対する公式見解は、その多くは混乱した異議だとは言え、益々異議を唱えられ、認められにくくなりつつある。確かに、アメリカ支配者の、権威主義的な狙いと、野望に関する限り、オーウェルの概念を書き換える必要は皆無だ。
- 永久戦争: オセアニア同様、今日のアメリカ合州国は、永久戦争状態にある。この状態は、いずれの社会においても“正常”として受け入れられている。元アメリカ副大統領のチェイニーは、2001年にアメリカの対テロ戦争は“決して終わらないかも知れない。少なくとも、我々が生きている間には”と述べた。この発言は、大企業政党のいずれからも、商業マスコミからも、激しい抗議を引きだすことはなかった。今日に到るまで、この発言は問題にされないままになっている。チェイニーがこの主張をして以来、四度の国政選挙のいずれにおいても、永久戦争という問題はあえて言及する程(まして討論する程)重要だとは見なされなかったのだ。
- 社会の階級構造を維持するための戦争: (歴史上のトロツキーをほぼなぞった)“ゴールドスタイン”という人物に語らせながら、オーウェルはこう書いている。“戦争とは、各国の支配者集団が、自国民に対してしかけるものであり、戦争の目的は領土を征服したり、守ったりすることではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。”オーウェルは更に続ける。“しかし、物理的な意味では、戦争は、その大半が高度に訓練された専門家であり、ほんの少数の人々しか必要とせず、比較的少ない死傷者しかもたらさない.... また同時に、戦時下にある、したがって危険な状態にあるという意識によって、少数の特権階級に、あらゆる権力を引き渡すことが、生きるためには、自然で不可避な条件に思えてしまうのだ。”
こうした見解は、それぞれ、アメリカの“対テロ戦争”に実にぴったりあてはまる。いわゆる“特殊部隊”や“プレデター無人飛行機”の使用。そして執拗なテロ脅威恐怖の利用と悪魔化キャンペーン。アメリカの戦争は、実際には領土獲得、つまり、石油が豊富な、あるいは、パイプライン経路、および/あるいは軍事基地として戦略的価値がある地域の支配を狙ったものである点を除いては、一単語たりとも変える必要がない。この例外は、“戦争の目的は[少なくとも一部は]社会構造を保全することにある”そして“支配者集団同士により、それぞれの主題をめがけて、戦争は遂行される。”という、オーウェルの主張を決して無効にするものではない。
- 一党国家: オセアニア同様、アメリカは事実上、一党国家だ。二つの巨大企業政党が、偽って二つの“対抗している”党であるかのごとき振りをしているのだ。実際には、両党は、実際は一つの党の軟派・硬派二派閥に過ぎない。金融支配層が経済的に重要なあらゆる物事と、資源開発を、しっかり支配している。アメリカ版の一党国家は、表面上、明らかにそうでないもののように見えてしまうがゆえに、実際オセアニア版よりも一層危険な程、オーウェル風だ。オセアニアは、民主主義のふりをしようと気を使わないだけ、少なくとも十分に“正直”だ。
アメリカ人は、共和党と民主党との間の、限られた、ほとんど言葉のあやの違いでしかない違いを“民主主義”である“証拠”だと思い込むよう飼い馴らされている。物事の進展は、この理論の嘆かわしい欠陥を、容赦なく暴露してはいるのだが、長年にわたりこの理論が広く受け入れられてきたことが(アメリカ帝国主義の残留強度やAFL-CIOや様々な“左翼”勢力が演じる役割も考慮すれば)、大衆の意識を支配し、形作る、公式政治文化の威力を実証している。(マルクス:“支配階級の考え方がいつの時代も支配的な考え方である。”)
- 国家プロパガンダの手段としてのマスコミ: オセアニアと同様に、今日のアメリカのマスコミは、本質的に国家プロパガンダの道具だ。過去十年間の主要な出来事に関するニュース報道をざっと見てみるだけで、この評価は十分に実証されようし、過ぎ行く日々が、こうした行動の無数の例を提供してくれる。オセアニアのテレスクリーンは、“マラバル戦線の英雄”が勝ち取った栄光の勝利の報道を交えながら、銑鉄生産とチョコレート配給の増加を絶え間なく、しつこく売り込み続ける。
これとアメリカのニュース番組内容との間には(おそらくは、その無理強いの陽気さが、オセアニアの殺風景で好戦的な“ニュース放送”から聞こえてくるものより陽気な調子をもたらすのに貢献している広告がある、という点を除いて)本質的な差異はほとんどない。2009年、アメリカのマスコミは、イランにおける不正選挙とされるものに対し、どれもよく似た“激怒”を表明した。選挙不正という主張を支持する本格的証拠は何も提示されなかった。こうしたマスコミのどれ一つとして、露骨に不正だった2000年の米大統領選挙には触れもしなかった(まして激怒などするわけもない)。(実際マスコミは、暴力なしに権力が移行したという理由から、2000年選挙の結果を、“制度が機能した”証拠だとして異口同音に称賛した。言い換えれば、エリート階級は、国民の抵抗を受けることなく、不正選挙をすることができたのだ。)
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- 監視:小説の2ページで『思考警察』というものが紹介される。“『思考警察』が、どれだけ頻繁に、あるいはどのようなシステムで、どの個人の回線に接続しているかは当て推量するしかない。全員を常時監視できるということさえあり得る。”2004年頃から、こうした監視機能が国家安全保障局のような機関によってアメリカ内に導入され、アメリカ国民の私的通信の膨大な盗聴が行われてきた。この問題は、2004年以来、三回の国政選挙のいずれにおいても触れられることはなく、ニューヨーク・タイムズ(ブッシュ政権の要求に応じて)は2004年の選挙前、NSA盗聴計画に関する記事を意図的に没にしていた。(一年以上後、これを主題にしたタイムズ紙記者ジェームズ・ライゼンによる本の刊行直前、新聞は最終的に“報道した”。彼の記事を同紙は差し止めていた。)(訳注:ジェームズ・ライゼンの本というのは邦題『戦争大統領』のことだろう。)
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- エリートが主導する、大衆の政治意識の文化的骨抜き: 国民の政治意識を骨抜きするのに、大衆文化を道具としし利用するというオーウェルの洞察は、アメリカの支配エリートの尽力によって実現している。オーウェルは、宝くじや、“スポーツ、犯罪と、星占い、扇情的な5セントの中編小説…セックスまみれの映画…(そして)最低品質のポルノ以外はほとんど何も載っていないくだらない新聞”等、頭を麻痺させるような、主要な娯楽の数々をあげている。有名人のゴシップや、株式市場についての雑談といった重要なカテゴリーを見過ごしてはいたものの、原理的に彼は的を射ている。著名人の話を載せた雑誌を読み、娯楽TV番組を見るだけの国民は、自分たちの劣化しゆく生活水準の原因となる社会勢力を理解する用意などまったく出来ておらず、したがって自らの防衛もしがたかろう。
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- 指導者のカルト: 小説は殺風景な“未来”、1984年4月のロンドンが舞台だ。オーウェルの主人公ウインストン・スミスは、“勝利(ビクトリー)マンション”という名の、茹でたキャベツの匂いがする崩壊途中のアパートに住んでいる。アパートの踊り場に目立つように掲示されているのは“太い黒い口髭を生やした、いかつい45歳位のハンサムな男の大きな顔”を描いた巨大カラー・ポスターだ。2010年に、ゾッとするような荒廃したロンドン至る所にあるビッグ・ブラザーのポスターという文章を読みながら、人は今日の斜陽化しつつあるアメリカ都市の至る所にある“バラク・オバマの希望”ポスターを必ず思い出さずにはいられまい。
ビッグ・ブラザーは、“党が、自らを世界に対して表現するのに選んだ姿だ。彼の機能は、組織よりも個人に対して、より自然に感じやすい、愛、恐怖、崇敬、感情などの焦点として役立つことにある”として描かれている。この文章は、2008年、ウオール街の候補者であるオバマを、アメリカ有権者に売り込むにあたって使われたPR戦略の本質を捕らえている。実際、オバマ選挙キャンペーン全体が、愛と希望のような感情は、何よりもその権益を彼が代表している銀行等の組織に対するより、“個人に対してこそ一層身近に感じることができる”という発想を生かすよう仕組まれていた。
- “現在を支配する者は、過去を支配する….”: ウインストンは真理省で働いており、その業務は“毎日、過去を改ざんすること…[この仕事]は、政権の安定に、抑圧作業として必要だ。”オセアニア真理省の諸機能は、アルカイダやタリバンのような集団のことを、24時間態勢で悪魔化しながら、こうした集団のいずれもが、ここ数十年間、CIAによる何百万ドルもの資金援助によって育て上げられてきたことを入念に“忘れ去る”アメリカの大手マスコミによって実施されてきた。そうした不都合な真実は、もはや国家政策と調和しないので、定期的にメモリー・ホール(訳注:『1984年』中で、この名で呼ばれる穴の中に、過去の正しい記録は廃棄される)へと投げ捨てられる。従って、現在という文脈で“正しく”なるよう、事実は改ざんされる必要があるのだ。(2002年“WMD”(大量破壊兵器)と、計画中のイラク侵略に関して、イギリスMI6のトップが、ブッシュに分かりやすいようこう説明した。“諜報情報と事実は政策を巡って、調整されています”)。ちょうど、オセアニアが、ある日はイーストアジアと同盟を組み、翌日にはイーストアジアと戦争状態となるように、アメリカは、ある時期に、サダム・フセインやイスラム教原理主義と戦争状態となるが、レーガン時代には、積極的にこの両者を支援していたのだ。(レーガンは、アフガニスタンのムジャヒディーンを“自由の戦士”、“道徳的に、アメリカ建国の始祖に相当する人々”と呼んでいた。)
- 国家の敵を悪魔化するための公式行事:“二分間憎悪”は本質的に、サダム・フセイン、ハマース、アフマディネジャド、カストロや、ウゴ・チャベスといった公式の敵の名前が出るたび毎に、アメリカのテレビで起きていることだ。これは、フオックス・ニューズやウオール・ストリート・ジャーナルの論説ページの様にあからさまに右翼のマスコミで、最も露骨な形で起きるが、“リベラル”だと言われているマスコミでも、同様に存在しており、あからさまさこそ控えめにはなるものの、視点は本質的に全く同じだ。フセインの絞首刑は、アメリカのマスコミによって、オセアニアの公開絞首刑と同様、息もつかないほどの、あえぐような流血への渇望で迎えられた。“昨日、囚人たちが絞首刑にされるのを見にいったかい?”省の食堂で昼食をとるため座っていたウインストンは、同僚サイムにそう質問される。2006年12月にフセインが処刑された時、これと同じ光景が、アメリカ中で、確実に存在していたのだ。
- 娯楽としての敵”民間人“への爆撃: ウインストンは、7ページで、映画を見にでかけ、戦争のニュース映画を見る。オセアニアの攻撃型ヘリコプターによって無力な民間人が粉々にされる映像を、観客は“大いに喜んだ”と彼は日記に書いている。広範なアメリカのTV番組、映画、ビデオ・ゲームは、全く同じ基本的本能を、育て、奨励しようという企みだ。
- 相手側の主張によって、自らを覆い隠してしまう政治文化:“ゴールドスタイン”はこう述べている。“党は、社会主義運動が本来立脚している、あらゆる原理を否定し、非難する。しかも…社会主義の名において[そうしているのだ]。”これは、1949年における、スターリン主義に対する、実にもっともなオーウェルの評価だ。この文章は現代の類似物を示唆している。“アメリカ政府は、民主主義の実質的核心を、弱体化させるか、骨抜きにしている。民主主義の名において、そうしているのだ。”
- 警察による国民の威嚇:オセアニアで最も恐ろしく、物理的に堂々とした政府省庁である愛情省は、“伸縮式警棒を持って、黒い制服を着たゴリラのような顔つきの守衛”が警備している。こうした守衛に、現実に対応するものが、アメリカの政党大会やWTO会議の外に出現し、防弾チョッキをまとい、威嚇し、小突き回し、非武装の抗議デモ参加者を警棒で殴ったりさえしている。マスコミは、イランのアフマディネジャド反対デモや、ベネズエラのチャベス反対デモを、“合法的反対者”のお手本として満足げに引用しながら、自国の抗議デモ参加者は決まって“チンピラ”や“アナーキスト”と表現する。(“オーウェル的”という点で言えば、最近アメリカの政党大会で反対デモをしようとした反戦抗議デモ参加者は、蛇腹式鉄条網を張り巡らせた、会議場から離れた、マスコミの目に入らない、塀で包囲された仕切りの中に押し込められた。こうした仕切りは、何の皮肉の意図もなしに、“自由発言ゾーン”と呼ばれていた。)
- 国家政策としての、悪行と非人間化:小説は、拷問の描写という点で、ゾッとするほど想像力豊かだ。ある時点で、尋問者のオブライエンは、ウインストンに彼の抵抗が、どれほど無益で哀れなものかを示すべく、ウインストンの虫歯の一本を素手で抜き取る。そして、有名なクライマックスの101号室での拷問場面が続く。ネズミ・カゴのマスクが、ウインストンの顔にはめられる。現代の読者なら、最近のアメリカ拷問メモで暴露された“昆虫”版を即座に連想するだろう。そこでは、無力で怯えた囚人が入れられている閉ざされた箱の中に、“刺す虫”が放たれた。しかしこれでさえ、強姦、性的な辱めや、イスラム教徒の囚人の頭に、経血にまみれた女性のパンティーをかぶせるといったような、宗教的信念に対する意図的な侮辱を含む、アメリカの拷問手法の全貌を示すには十分でない。腐敗と拷問に関する限り、“オーウェル的”という形容詞でさえも、アメリカ軍-諜報機関の巧妙さを十分公平に評価してはいない。
階級意識と社会的不平等
オーウェルの本はアメリカで熱狂的に受け入れられた。刊行から二週間後、タイム誌はこの本を、彼の“最高の小説作品”と呼んだが、この本は、主として(『動物農場』と共に)“共産主義”に対する攻撃だと解釈していた(3) ところがオーウェルは、(先に触れた通り)、二冊の本を西欧デモクラシーのすう勢に対する警告として考えてもいたのだ。本がアメリカで温かく受け入れられたのは、本書が、社会における原動力の、明晰かつ、説得力のある、階級的視点に基づく分析であることからすれば、いささか逆説的である。この視点は、許容可能なアメリカ思想から、階級意識が体系的に抹殺される過程にあった時期、1949年に浮上しつつあった政治的規範に逆らっていた。この小説の明白な“反共主義”が、階級意識に対する反発から、この小説を保護してくれた可能性は高い。階級意識は、1949年のアメリカ合州国では確かに思考犯罪であり、今日も犯罪のままだ。
ウインストンは、“プロール(労働者階級)”に対しては、断固として同情的で、期待を持った態度をとっている。少なくとも四度、彼はプロールは将来の唯一の希望だと語っている。彼等を以下のような言葉で表現している。“もしも希望があるとすれば、それはプロールにあるに違いない。オセアニア国民の85パーセントに、無視された群れなす大衆の中にのみ党を破壊する勢力が生まれる可能性があるからだ。”ウインストンは信じていた。“プロールが、何らかの方法で自分たちの力を自覚するようになりさえすれば…立ち上がって、体からハエを振り払う馬のように身をふるわさえすればよい。もしも彼等がその気になりさえすれば、明日朝にも、党を粉砕することができる。”オセアニアの支配層は、党員の対人的連帯感を粉砕するのには成功したが、一方“プロールは人間として残っている。彼等はその点、無感覚になってはいないのだ。”彼等には“党が共有できず、抹殺することもできなかった生命力がある…将来はプロールにある。”
ウインストンは考える。“平等があれば、健全さはありうる”。これは急激に拡大する社会的不平等で特徴付けられるアメリカに、目ざましいほど当てはまる点だ。社会的序列と富の分配との関係は、こうした表現の中で限定されている。“富の全面的増加は、…階級社会を破壊しかねない。…‘富’が…平等に配分されながらも、‘権力’は少数の特権階層の手中に残る社会を想像することは、疑うべくもなく可能だ。だが実際には、そのような社会が長期間安定して存続することはできない。もしも余暇と安全を全員が等しく享受すれば、通常貧困によって麻痺状態におかれている大部分の人々は、読み書きができるようになり、自分で考え始めるようになるだろう。そして、一度そうなってしまえば、彼等は…特権階級の少数派などに何の機能も無いことを悟り、…廃止してしまうだろう。”極めて不平等な社会における支配者の視点からすれば、これは実に危険な破壊的思想だ。
こうした考え方は真に急進的な考え方だ。スペインで、POUMとともに反ファシズムのために戦う志願兵となった作家の考えとしては驚くべきことではない。特に労働者階級を唯一本当に革命的な社会勢力として特定していることは、マルクスとエンゲルスの考え方をそのまま思いおこさせる。自覚し、蜂起し、“体からハエを振り払う馬のように”党を粉砕するプロールにまつわる一節は、労働者階級が、自らを階級として自覚することによって、自らの利益という自立した意識で、思いついた要求をはっきり主張することから生じる、下からの大衆蜂起という発想を写実的に描き出している。
国民を“ダブルシンク(二重思考)”するよう訓練する
ウインストンは考える。“党の世界観の押しつけは、それを理解することができない人々に対して、最も成功している。人々は…一体何が起きているのかわかるほど、社会の出来事に対し、十分な関心を持っていない。どれほど現実をないがしろにしても、人々に、受け入れさせることができる。”そして、やや後にこう書いている。“最も地位の低い党員でさえ有能で勤勉で、狭い範囲内で知的であることが期待されるが、また同時に物事を信じ易く、無知な狂信者でなければならず、恐怖と憎悪、追従と勝利の興奮が支配的な感情でなければならない。言い換えれば、人は戦争状態にふさわしい精神構造を持っていることが好ましいのだ。”現代アメリカの公式政治文化が推奨している態度に関して、これより正確な記述を見いだすのは困難だろう。
ダブルシンク(二重思考)の完全な定義は、“矛盾する二つの信念を、自分の心の中で、同時に保持し、双方を受け入れる能力だ。… 心からそうと信じながら、意図的に嘘をつくこと、不都合となってしまったあらゆる真実を忘れさること、更に、再びそれが必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻せること、客観的事実の存在を否定する事、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れる事、こうした全てが、絶対に必要なのだ。ダブルシンク(二重思考)という言葉を使用するためですら、ダブルシンク(二重思考)を実行することが必要だ。この言葉を使うことによって、人は自分が現実を改ざんしていることを認めるのだから。ダブルシンク(二重思考)の新たな行為によって、人はこの知識を抹消する。という具合で無限に続き、嘘は常に真実の一歩先を行く。”
この一節は、2000年大統領選挙で、最高裁がジョージ・W・ブッシュを大統領に任命して以来、アメリカ政治における象徴的な出来事に関する公式説明の特性を明らかにしてくれる。事実上、あの時以降の全ての重要な出来事は、ダブルシンク(二重思考)を前提として大衆に提示されている。
例えば、イラク侵略から数カ月して、アメリカのマスコミは、結局WMDなど存在していなかったことを認めるよう余儀なくされた。しかしこの事実は、あたかも意味も影響も無いかのごとく提示された。マスコミ説明は、単なる“諜報情報の欠陥”だと気楽に片づけている。一方では過ちを認めているのだから(ニュルンベルク軍事法廷で定義されたような)巨大戦争犯罪に対して、そのような言葉を適用するのはダブルシンク(二重思考)だ。しかし過ちを認めるやいなや、新たな二行を追加している。諜報の過ちは極めて軽微だった。そしてアメリカ諜報機関の几帳面さだけが問題だった(“嘘は常に真実の一歩先を行く”)。
WMD(大量破壊兵器)が存在しないことを認めながら、戦争の一般的特質を擁護する(アメリカ当局者とマスコミの広報担当者たちの仕事だ)というのはダブルシンク(二重思考)のもう一つの例だ。戦争をしかけた建前がいつわりである場合、戦争の正当化はまずできない。人は、両方の信念を、各々を巧みに操作することによってのみ、同時に維持することができる。瞬間的に一方を忘却の彼方に追いやり、もう一方について論じることで。
小説中に、尋問者オブライエンが、四本の指を立て、ウインストンには、5本に見えるよう要求する有名な場面がある。この要求は、2009年5月21日の国立公文書館で行った演説の中で示された、拷問に対するオバマの論理的姿勢と変わらない。法支配の闘士を気取り、アメリカ憲法の羊皮紙原本の横に立ち、オバマは拷問は誤っていると宣言した。我々はアメリカ憲法の価値観を支持しなければならない。“我々は拷問はしていない”と語り、拷問を命じたアメリカの当局者は、それを理由に告訴されることはなく、アメリカの拷問を記録している写真は、公開を差し控えると付け加えた。同じ演説の中で、彼は更に“特例拘置引き渡し”を擁護し、無期限の“予防的拘留”という中世的政策さえ提案した。
“戦争は平和だ”
2009年12月10日にノーベル平和賞を受賞したオバマは、WSWSが痛烈に批評し、適切にも、何事も超えることができないオーウェル的光景だと述べた出来事において、この調子で続けた。現在二つの侵略戦争のさなかにある(そのうち一つについては、彼自身が大幅にエスカレートした)史上最もグロテスクに膨れ上がった軍事機構の全軍最高司令官が、主要な外交官が、イランを“せん滅”すると威嚇した政権の首長が、世界でも傑出した調停者として栄誉を受けたのだ。ガンジーやマーチン・ルーサー・キング Jr.の“信条と人生”に対する、できる限りおざなりの承諾として感想を述べることから始めたオバマは、次の一節で旋回し、彼自身の外交政策が、彼等の哲学によって特徴づけられるであろうという、いかなる幻想も打ち砕いた。(“わが国を保護し、防衛すると誓った国家の長として、私は彼等の手本のみによって導かれるというわけには行かない。”)
そして、アメリカ大統領は、国家的暴力の明白な擁護(もちろん、アメリカ合州国によって率いられる限りだが)へとまっしぐらに突入する。彼はさながら歌うように語る。“バルカン半島諸国においてそうであったように、武力は人道的な理由で正当化することが可能だと私は信じている” (つまり「戦争は平和である」)。世界中の意見と国連安全保障理事会に逆らって、イラクを侵略した国家の大統領が、彼の国も、ほかのどの国も“もし我々自身は守ることを拒否しても、他の連中には、交通規則を守るよう主張できる”と主張したのだ。サウジアラビア、エジプトやパキスタン政府と親密な盟友である国家の大統領が“我々と最も親しい友人は、その国民の権利を保護する政府だ”と主張したのだ。軍隊とCIAが、第二次世界大戦以来、多数の民主的政権を打倒し、そうした政権を残酷な独裁制に置き換えてきた国家の大統領が“アメリカは決して民主主義に対する戦争をおこなったことはない”と主張したのだ。
驚くほど聖人ぶって彼は語る。“あるべき世界へ向かおうではないか。我々皆の魂の中で、いまだわき上がる天与のひらめき。…今日どこかで、今この場で、この世界で、相手のほうがより多く武器を持っていることが分かっていても、兵士は、平和維持のため、その場に止まっている。今日も、この世界のどこかで、若い抗議デモ参加者は、自国政府の残虐さを予期しながらや、行進を続ける勇気を抱いている。今日もどこかで、大変な貧困に直面する母親が、残酷な世界にも、その子が夢を実現する場所はあるだろうと信じて、自分の子供を教えるために時間を割き、子供を学校にやるために、手持ちの僅かな貨幣をかき集めている。”
こうした類の詭弁が、2008年大統領選挙キャンペーン中、アメリカのマスコミによって“雄弁”と見なされたことは、“嘘をもっともらしくし、殺人を尊敬すべきことのようにすべく、単なる風に、しっかりした固さという見掛けをあたえるべく、政治言語は作り上げられている”というオーウェルの洞察を想起させる。(4) オバマの“平和維持”兵士というのは、恐らく、おなじみの略奪的目的で、ある国を占領しているアメリカ(あるいは同盟諸国の) 兵士のことだ。“若い抗議デモ参加者”というのは、当然ワシントンによって公式な敵として見なされているイランやベネズエラ等の政府に抗議する連中だ。
オバマが非難する“政府の残虐行為”というのは、疑うべくもなく、アメリカ軍や傭兵部隊によって直接に、あるいはアメリカが支援する傀儡政権や他の代理人によって、民間人に対して実行されている暴力や拷問のことを言ってはいない。“大変な貧困に直面する母親”というのは抽象的で理論的な母親であり、海外生産のためにひき起こされた失業や、ウオール街が引き起こした金融危機のような具体的な条件によって、あるいは、そうした危機の結果、社会福祉が骨抜きされて、つまり既存支配勢力全員の支持を得て、企業国家アメリカによって、アメリカの労働者層に押しつけられる条件によって今の貧困がもたらされている“ここで今暮らしている”本物の母親ではない。
“欺瞞に満ちた時代においては…”
“ゴールドスタイン”が説明するとおり、“(新語法で言う)クライムストップ(犯罪中止)とは、…あらゆる危険な思想を抱きそうな瞬間に、その一歩手前で踏みとどまる能力だ。それは、類推ができない能力、論理的な誤りに気づかない能力、最も簡単な主張でも、万一イングソック [“イギリス社会主義”オセアニアの全体主義的政権の公式イデオロギー]にとって有害であれば誤解してしまう能力、そして、異端的な方向へ導きかねない一連の思考に退屈したり、それに嫌悪感を抱いたりする能力も含む。クライムストップ(犯罪中止)とは、要するに、自己防衛的愚鈍のことだ。”
“イングソック”を“公式なアメリカ政策”に置き換えれば、この文章は、アメリカ・マスコミが、日々の問題を“論じる”ふりをしているプロセスにぴったりあてはまる。例えば、“武力侵略”は、アメリカや同盟諸国が侵略者でない限り、アメリカ・マスコミのひんしゅくを買う。アメリカが武力侵略する場合、その行為は、安定化、平和維持、あるいは解放にすらなる。アメリカ軍の侵略は“侵略”であるという類推が理解できなくなるような能力を人は身につけなけねばならないのだ。アメリカがあるクーデターを支持しない限りは、当然クーデターも同様にひんしゅくを買う。アメリカが支持している場合、それは(“カラー”革命等々の)デモクラシー運動となる。同様に、拷問は、強化尋問テクニックとなり、アメリカの政策なり、要員によってひき起こされた場合、民間人の死亡は、遺憾ではあるが、不可避な巻き添え被害となる。罪のない“婉曲語法”どころではなく、こうした言葉の歪曲は、アメリカ政治文化における主流思考体系の本質的特徴を明らかにしている。
愛情省で“再教育”されながら、ウインストンは“自らクライムストップ(犯罪中止)の学習を始めた。彼は自らに命題を課した。‘党が地球は平らだと言う’、‘党が氷は水よりも重いという’それと矛盾するような主張は無視するよう、あるいは理解できなくなるように自分自身を訓練したのだ。それは容易なことではかった。… それには…一種のたゆまざる頭の体操、ある瞬間に、論理を最も巧みに使ったかと思うと、次の瞬間には、最も明白な論理的誤りにも気づかない、という能力が必要なのだ。”
就任直前にテレビ放送されたインタビューでオバマが語った論理を解釈するには同様な“頭の体操”が必要だ。“拷問や令状無しの盗聴を含むブッシュ政権の最大の犯罪を、独立に調査するための”特別検察官を任命するのかどうか質問されて、ハーバードで教育を受けた元憲法学教授は答えた。“我々は過去を振り返るのではなく、将来に目を向ける必要があると信じている”。これは、どんな事にたいしても、どんな人物をも、告訴することを除外するという原則だ(しかしこれも、アメリカという国家、あるいは国家がその権益を代表している寡頭金融支配層によって犯された犯罪に対してのみ行使されるのに違いない)。
小説の始めに、ウインストンは破壊的行動に取りかかる。個人的な日記を書き始めるのだ。彼は切ない気持ちでこう記す。“未来へ、あるいは過去へ、思想が自由な時代に向けて。”オーウェルは“欺瞞に満ちた時代において、真実を語ることは革命的行為である。”という表現をした功績を讃えられている。アメリカの政治支配層によるニュースピークに攻撃されている私たちは、明らかに欺瞞に満ちた時代に生きている。我々は全員がウインストン・スミスであり、思想が自由な時代への道を照らすために、真実を語る革命的行為を目指すべきなのだ。
注:
(1) ジョージ・オーウェル著作集第4巻(“In Front of Your Nose”)、1945年-1950年 546ページ第158項 フランシス・A・ヘンソンへの手紙(抜粋)(ペンギン)(ジョージ・オーウェル著作集第4巻、邦訳は平凡社、ただし絶版。)
(2) オーウェルの政治的軌跡の分析については、ビッキー・ショート、 および、フレッド・マゼリス、を参照のこと。(いずれも英語)
(3) タイム誌、1949年6月20日、で読める
(4) エッセイ“政治と英語”(英語原文は、例えば: http://www.george-orwell.org/Politics_and_the_English_Language/0.html)邦訳は、小野寺健訳『オーウェル評論集』岩波文庫中の『政治と英語』、あるいは、川端康雄編『 水晶の精神-オーウェル評論集2 』、平凡社ライブラリーの『 政治と英語 』(工藤昭雄訳)
記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/jun2010/1984-j12.shtml
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階級構造が?「固定化しているのだから、流動化させるには戦争しかない」という、わけの分からない青年の言説が、大手新聞社月刊誌に載って、びっくりしたことがある。著者の意見に驚いたのではない。とんでもない、真っ赤な嘘をもてはやす、大手マスコミの下劣さに。本物の大本営ではないか?それ以上に、既に庶民は、戦争しか選択肢がない状況に、追い込まれていて、その論説に激怒しないことに。幸にくだんの月刊誌は廃刊になった。
戦争で階級構造が流動化するのであれば、建国以来、戦争を続けているアメリカ、上下構造が、何度もひっくり返っているだろう。ドラム式洗濯機のように。ところが現実は、Rich get richer, poor get poorer. 富者は益々富み、貧者は益々貧窮化してきただけだ。歴史が物語る、見るだけでわかるのに、庶民、歴史を勉強して生きているわけではない、のだろう。
戦争の目的は領土を征服したり、守ったりすることではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。
かくて『それで、日本人はまたもや「戦争」を選んだ』というベストセラーが書かれることになるだろう。
上記の文章中で、『1984年』翻訳は、新庄哲夫訳と高橋和久訳を適宜参照・利用させていただいた。
『1Q84』という本、どういう話か全く知らないが、町の書店に山積み。解説書や研究書?さえ並んでいる。宗主国のアメリカやイギリスでは『1984年』の研究書なら並んでいるが。
同じ費用と時間、本家?『1984年』にも、かけられては如何だろう。新訳版、わずか860円で読める。
現代日本にとってリトルピープルの『1Q84』よりもビックブラザーの『1984年』の方が切実な話題ではなかろうか?(リトルピープルというのが何か知らないので、説得力ゼロだ)
ただし『1984年』、面白さを期待されると、大いに裏切られるだろう。全編、暗い現実描写ばかり。楽しいわけもない。
父親、ビルマでの阿片生産を管理する役人だったが、オーウェル、自らビルマ人を支配するビルマ警察官となり、離職。二代にわたり、イギリス植民地支配実務を体験したわけだ。スペイン内戦で志願兵として戦い、強烈な反スターリン主義者になった後、イギリス帝国のメディアBBCで、戦争推進プロパガンダ放送に尽力した経験から導きだせる帰結がこの本だろう。マスコミを駆使した、新たな帝国の姿を素直に想像したのだろう。
期待できるものとして、プロールがあるというが、とってつけたような話。例えば、今回選挙の結果をみれば、プロール、喜んで自分の首を絞めることしか思いつかないものであることは明らか。この点、日本や宗主国に関する限り、まったく的を得ていない。そうでも書かねば、暗すぎて本は売れないだろう。しかし、真実は、暗く、絶望的なのだ。
選挙結果、普天間問題を誤魔化したことへの正当な怒りもあったはず、と考えたいものだ。しかし、それが本質的理由なら、自民やらみんなの党の議席増加などありえまい。小選挙区制という歪んだシステムも貢献したろう。自民、民主、みんなの党、公明といった、属国化推進政党が圧倒的大多数。株価はいざ知らず、庶民の生活、ますます悪化するだろう。自業自得。「基地問題での敗北」「属国容認で敗北」という形になるのをさけるため、マスコミ、民主、自民、みんなの党、公明という構造体が協力して、基地も、大幹事長も隠蔽し、「消費税増税で敗北」ということにしたのではないだろうか。実質的に、属国傀儡議員の人数=与党連合、全体は、増強こそすれ、まったく、びくともしていないのだから。具体的には下記記事にある現実状況なのだ。
2010.07.18 参院で9条改正(破壊派だと思うが)派が多数に
大幹事長が再度登場したとて、属国化の促進以外に一体何ができるだろう。
長いものにはまかれろ文化にいきる「ゆで蛙の王様」現象。といえば言い過ぎか。いんちき政党への投票示唆のみならず、「選挙に行く気をそぐ」こと自体が、マスコミの大切な仕事なのではあるだろうが。
一党国家:
オセアニア同様、日本も既に、宗主国アメリカ同様、事実上、一党国家だ。二つの巨大企業政党が、偽って二つの“対抗している”党であるかのごとき振りをしているのだ。実際には、
両党は、実際は一つの党の軟派・硬派二派閥に過ぎない。金融支配層が経済的に重要なあらゆる物事と、資源開発を、しっかり支配している。日本版の一党国家は、表面上、明らかにそうでないもののように見えてしまうがゆえに、実際オセアニア版よりも一層危険な程、オーウェル風だ。オセアニアは、民主主義のふりをしようと気を使わないだけ、少なくとも十分に“正直”だ。
基地は平和だ。やつらの党は貧乏人の党だ。消費税は貧乏人の為だ。(『動物農場』のへたな真似。)
オウーェルのすごさ、『1984年』だけではない。『動物農場』に描かれる、変革で農場主が交代しても、生活レベルが全く向上しない農場に暮らす豚の様相、民主党政権下の日本そのまま。もちろん、自民党政権にもどっても、なにも良くなりはしない。
原作も素晴らしいが、『動物農場』をネタに、政治のカラクリを書かれた「オーウェル『動物農場』の政治学」西山伸一著 ロゴス 2010年1月刊 1800円を合わせてお読みになれば、オーウェル、二冊の本で、日本の現在を予言してくれたのではないか?と思われるかも知れない。「オーウェル『動物農場』の政治学」178ページから180ページまで転記させていただこう。
「自主的示威行進」がもたらす「自由」
動物たちの食糧配給量は、12月に続いて2月にもさらに減配されました。食糧は「輸出」され、動物農場の運営に必要な資金確保に充てられたのです。一方、豚たちは砂糖が禁止されているにもかかわらず、太ってさえいました。おまけに、ビールの配給まであったのです。
いろいろなつらいことを我慢しなければならなかったけれども、彼らは、今の生活は、過去の生活よりもっと品位のある生活なのだ、と思い直して、やるせない思いを多少まぎらしていたのだった。歌や、演説や、行列はふえた。ナポレオンは、毎週一回、動物農場の戦いと勝利を記念するための、「自主的示威行進」とかいうものを実施せよ、と命令した。〔中略〕概していえば、動物たちはこのようなお祭り騒ぎが好きだった。なんといっても、自分たちが、ほんとうの意味自分たちの主人であり、自分たちのする仕事は、すべて自分たちの利益のためなのだ、としみじみ感ずるのは、彼らにとって愉快なことだったのだ。〔中略〕四月になって、動物農場は共和国の宣言をしたので、大統領を選挙しなければならなくなった。候補者はナポレオンただひとりで、彼は全員一致で当選した。
[121-122][137-139]
減配に次ぐ減配ですので、いかに動物たちの記憶力に問題があろうとも、生活が以前より苦しくなったことは容易に実感されました。それでも、不満がナポレオン体制に向かうまでにはまだ至りません。動物たちは、ひもじい思いを「品位」にすがることで、どうにか心の折り合いをつけようとします。
ナポレオンは、動物たちのこの心理状況を敏感に察知しました。そこで、すかさず「自主的示 威行進」を発案します。やらせておきながら、「自主的」というのがミソです。これを通じて、 実際には豚たち支配階級に搾取されている動物たちにその実態を意識させない。むしろ、自分たちは決してだれかの奴隷ではなく、自分たちが主人であり、自分たちの仕事はだれかのためではなく、自分たちのためなのだと、彼らを集団催眠にかけることに成功します。
選挙も一種の集団催眠かもしれません。フランスの社会啓蒙思想家であるルソーは、「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる」と述べました。
この言い方にならえば、動物農場で動物たちが自由なのは、「自主的示威行進」のあいだだけで、それが終われば、彼らは奴隷となるのでした。
これまで、ナポレオンを動物農場の「指導者」としてきた正当性の根拠は、動物革命を勝利に導いた彼のカリスマ性でした。その活躍ぶりは、カリスマ的指導者としてつじつまが合うように、都合よく潤色され、神話化されました。
さりとて、政権が長期化するに及んで、いつまでも「過去の栄光」に頼ってばかりもいられなくなります。正当性の新陳代謝が求められるのです。そこで、ナポレオンは選挙に訴え、合法的に選ばれることで、新たな正当性を獲得しました。
同様に、周期的な総選挙の実施にも、正当性の新陳代謝を行う意味があります。権力の陳腐化を防止するのです。政党であれば、きちんと定期党大会が開催されているかが、その組織の健全さをはかる指標になります。
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