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2010年3月22日 (月)

情報スーパー下水: インターネットは企業権益によってハイジャックされるのか- Chris Hedges

Chris Hedges

Truthdig

2010-02-15

インターネットは、私たちの、文化的、政治的、経済的衰退を促進すべく、企業権益によってハイジャックされた、もう一つの道具となってしまった。対話を活発にし、文化的な障壁を打ち破り、デモクラシーを推し進め、イノベーションと創造性を解き放つという、インターネットの壮大な展望は、詐欺であることが明かになった。インターネットは、私たちを、同じスローガンを唱え、同じ敵を憎悪する、敵対する諸部族に分裂させており、私たちの創造的作品は、それを広告のための餌として利用する、ウェブ・プロバイダーに、無料で引き渡されている。

ジャーナリスト、写真家、音楽家、漫画家や画家達に、ウェブについてどう考えているか、尋ねてみられたい。映画プロデューサーに尋ねてみられたい。建築士や、技術者に尋ねてみられたい。ウェブは、コンテンツの効率的流布こそするが、知的所有権を保護することはしない。作家や芸術家は、次第に生計をたてることが不可能になりつつある。しかも、技術職も攻撃を受けている。デジタル化が可能なあらゆるものは、給料がわずかで、福利制度も皆無である、インドや中国などの国々に外注することが可能であり、外注されつつある。生活賃金が得られる唯一の職業といえば、プロパガンダか企業経営しかない、新グローバル農奴制の世界にようこそ!

ウェブは、創造的な作品を破壊するのと同時に、集団的憤激、不寛容、偏見を発散させる、匿名の群衆も形成している。これらバーチャル・スラム街は、コミュニケーションや、対話を拡げているわけではない。こうしたものは、私たちの文化を豊かにすることはない。この点、リベラル集団も、右翼と同罪なのだが、こうしたものは、“敵”への共感を表明するような人々は、仲間から、その不道徳さを糾弾されてしまうような、群衆心理を生み出すのだ。イスラム教徒に対する人種差別は、邪悪な反ユダヤ主義と同じだが、この全くの真実を、パレスチナや、イスラエルの党派的ウェブ・サイトで、発言しようと試みて頂きたい。

“バーチャル・リアリティー技術の父”ジャロン・ラニアーは、新著“You Are Not a Gadget(邦題、人間はガジェットではない)”の中で、この恐るべき新集団主義に対して警告している。インターネットによって、押しつけられる習慣が、我々がお互いに関係し合うやりかたを、書き換えてしまったと彼は言う。“ウェブ 2.0”“オープン・カルチャー”“フリー・ソフト”や“ロング・テール”が、この新集団主義の実現を可能にする装置となったと、彼は書いている。個人的発言を故意に削除する、ウィキペディアやGoogleウエーブを、集団思考と、集団感情の勃興例として、彼は言及している。Googleウエーブというのは、誰か他の人が、会話の中で言ったことが表示され、協力者する人々はタイプ入力しながら、お互いの発言を見ることができる環境で、ユーザーがそれを編集するのを可能にする、新たなコミュニケーション・プラットフォームだ。プライバシー、誠実さや内省等、あっと言う間に抹殺されてしまう。

インターネット上では、ラニアーが集団精神と呼ぶ群衆によって、嗜好と情報が決定される。音楽、書籍、ジャーナリズム、コマーシャルや、テレビ番組や映画の断片が、ばかげたYouTubeビデオ等と一緒に、パソコン画面や国民意識に押しつけられ、インターネット群衆の嗜好が統計的分析されるのだ。彼や他のコンピューター科学者達がインターネットを開発した際に犯した、最大の過ちの一つは、インターネットへの貢献を無報酬としてしまったことだ、とラニアーは言う。こうした判断が、今や人々、特に物を創造する人々から、生計をたてる能力を、究極的には品格を保つ能力を、奪い取りつつあるのだと彼は言う。デジタル集団主義は、時間、投資や内省が不可欠な、ジャーナリズムを含む、辛うじて、わずかに残された、本物の創造性や、イノベーションを破壊しているのだ、と彼は警告している。そして、コンテンツに対し、支払をするサイトも、わずかながら存在しており、Truthdigもその一つなのだが、大多数は寄生虫だ。創造をする人々の多くに残された、唯一の収入は、自己宣伝によって稼ぐものだけなのだが、ラニアーの指摘通り、これは文化を単なる広告に変えてしまう。群衆操作をする能力の方が、真実、美や、思想よりも、高く評価されてしまうという、社会倫理を助長するのだ。

ジャーナリストであれ、写真家であれ、あるいは音楽家であれ、知的所有権を、作品を創造する人々から断ち切ることは、それを創造した人々が、その作品によって生計をたてる能力を失ってしまい、Googleのような、データ集積企業が、広告主を引き付けるために、こうした作品を収集し、頒布することで、儲けることを意味するのだ。インターネット上の、オリジナルな作品は、ラニアーが指摘しているように、“コピーされ、すりつぶされ、匿名化され、分析され、誰か他の連中が広告戦略を維持するための要塞用レンガに変えられてしまう”もしもこの傾向が止められなければ、それは“長期的には、アメリカの国民が生計を立てる方法を皆無にしてしまう公式”を作り出してしまうだろうと、ラニアーは警告する。

“広告を、文明の財源にするというのは、自分の肛門から口にチューブをつなげて、栄養をとろうとするようなものだ”とラニアーは言う。“体は、自らを破壊し始める。それが、私たちがオンラインで行っていることだ。ますます多くの人間活動が凝集されるにつれて、人々は最後に残された収入源のオアシスに群れ集まるようになる。現代の音楽家は、例えばゲームは、まだ今でも閉じられた操作コンソールの中で遊ばれており、集団化されていないので、ビデオ・ゲーム用の音楽を作曲して、作曲料を得ることができよう”

私はサンフランシスコのラニアーに電話した。彼はインターネットに反対なのではなくて、その発展の仕方に反対なのだというところから話をはじめた。もしも、アメリカが経済的きりもみ降下に陥れば、インターネットは、人類史における、他の革新的なマスコミュニケーション・システム同様に、社会的な確執を激化するのに用いられ、アメリカ全体主義へと至らしめる可能性を恐れているので、警告しているのだと彼は言った。

“私に想像できるシナリオは、経済衰退したアメリカですが、私たちは何の調整もできず、多数の不幸な人々がいるゆえに、そうなろうと心に決めているように思えます。”とラニアーは言う。“彼等は、農村部と、共和党支持者の多い州、かつて奴隷制度があった州で、人数的に優勢です。そして、彼等は全員が結びつき、一層激しく怒るようになるでしょう。一体何が起こるでしょう? 彼等は、妊娠中絶医院に、集まって来るでしょうか? 多分。彼等は議会に集まって来て、占拠するでしょうか? わかりませんが、そうなるかもしれません。私が話すべきことではないでしょう。こうしたことを想像するなど、忌むべきことです。しかし、実現するのを、私は見たくないと思っているようなシナリオは、知的な人物であれば、誰でも理解できるでしょう。非常に困ったことが起きる可能性があるのです。”

それでもなお、インターネットを、ユートピア的に推奨する連中は、集団精神が、巨大なバーチャル共同体が、我々を素晴らしき新世界へと推し進めてくれるのだ、と我々に語りかける。ラニアーは、そのような展望は、多くの善意の人々が、進化する悪夢のとりこになってしまうことを可能にする、子供じみた空想だとして退ける。

“群衆現象は存在していますが、集団精神というものは存在していません”と、ラニアーは語っている。“実在しているのは、群衆現象で、それは往々にして危険なものになりかねません。もちろん私はそうではありませんが、狂信者にとって、集団精神とは、‘2001年宇宙の旅’の最後に出てくる赤ん坊のようなものなのです。それは、人類を越える超人間です。私にとってそれは、デジタル的雰囲気をともなう、古い群衆現象の誤った解釈です。全く同じ危険があります。人類の歴史で、ずっとそうであったように、群衆は実にたやすく、御しがたい暴徒へと変わりかねないのです。”

“ビンの中のジェリービーンを数えたり、雄牛の体重を推し量ったりという類の、群衆ができること、というものもあるでしょう”とラニアーはつけ加えた。“こうした現象は本当だと認めます。けれども、群衆が、効率的に考えられる時と、群衆が、そうすることができない時との違いは、いささか異なると言いたいのです。 [ジェームズ・] スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』をお読みになれば、他の理論家達同様、彼も、もしも群衆に、賢明であって欲しければ、その鍵は、成員間のコミュニケーションの流れを減らし、彼等がお互いに影響しあわないようにし、彼等を、本当に独立した、別個の標本点にすることだと言っています。これは興味深いパラドックスです。オンライン群衆というものに熱狂している人々にとっては、出発点は、つながることは良いことであり、全員がつながっているべきなのです。しかし、彼等は、群衆を賢明にするものごとについて語る際には、人々はお互いに話し合ってはならないのだと言うのです。人々は孤立していなければならないと。ここには矛盾があります。群衆を賢明にするものとは、彼等に問う質問の種類なのです。もしも情報を持った人々の集団に、雄牛の体重の様に、一つの数値を選ぶよう尋ねれば、彼等全員が、完全に狂ったわけではない理論を持ってはずなので、ある答えに、まとまるでしょう。何か有益なものが得られるでしょう。この現象は、資本主義における、価格決定の説明でもあるのです。このおかげで市場が機能できるのです。彼等に、何かを作って欲しいとか、何か建設的な、あるいは総合的なことをして欲しいとか、集合的な推論をして欲しいと頼むと、彼等はやりそこないます。その様な場合は、何か退屈なものや、平均的な所に落ち着きます。群衆の危険の一つは暴力で、暴徒に化した場合です。もう一つは、委員会方式で何かを設計した場合の退屈さ、あるいは凡庸さです。”

ラニアーは言う。人類には、他の多くの種と同様に、人を自立した個人にしたり、暴徒の一員にしたりする、認知上のスイッチがあるのだ。たとえバーチャルの部族であれ、ラニアーが族と呼ぶものに、いったん縛られると、人間の中の最も低劣な本能に訴える力学に取りつかれてしまう。技術は進化するが、人間の本性というのは、変わらぬままなのだ。効率的な国家官僚制と、工業的な虐殺という新たに作り出された道具を、人類の曙以来、存在してきた暗い衝動とを、人類が結びつけてしまったがゆえに、二十世紀は、人類の歴史において、最も残忍なものになったのだ。

こうしたバーチャル部族について、“人は、上下関係と、社会的地位に対する感覚が、過敏になるのです”とラニアーは語る。“ほとんど常に、集団の中には、負け組と称される人々が、外部には、敵と称される人々がいます。自分より下と、遥かかなたに、敵がいるのです。権利を奪われた人々の、二つの階級ができあがります。人は、絶えず脅かされている自分の地位を、常に防御せざるを得なくなるのです。こうしたものの一つのメンバーになるには、多大な時間を必要とします。オン・ラインには、これをもたらすための、たくらみが至る所にあります。ピアノであれ、プードルであれ、はたまたジハードであれ、誰にでもすぐにわかるような序列があります。人々がこうした部族を形成しつつあるのが分かります。これは火遊びです。人類の歴史には、一人で行動した切り裂きジャックの様に、こうした効果と無関係な悪行の例も山ほどあります。しかし歴史上、本当に悪い人間行為の大半は、この部族力学をかき立てることを伴っています。これに影響されずにいられる人間などいるわけがありません。ドイツ人や、ロシア人や、日本人や、モンゴル人が影響されたのと同様に、コンピューター・オタクたちとて、影響されずにはいられません。それは、我々の本性の一部です。リーダーシップ構造やら政治などが無くても、喚起されうるのです。それは起きてしまうものです。それは私たちの一部です。私たちの体の中には、オンにされるのを待っているスイッチがあるのです。人は、他の人々のスイッチを操作する方法を、学んでしまえるものなのです。”

E.M.フォースターが1909年に刊行した物語“機械が止まる”は、人々がバーチャル・リアリティに魅了されている未来世界を描いている。フォスターの暗黒郷では、人類は蜜蜂の巣箱のような、孤立した、狭い、地下の小部屋でくらしており、彼等はそこでインスタント・メッセージと視覚映像を投影する装置、テレビ電話のとりこになっている。人々は外部世界から自らを切り離し、いくつかボタンを押すだけでひき起こせる、声や音の異様な疑似現実、束の間の画像や抽象的な興奮に夢中になっている。全知の人間味のない声によって、現実世界がバーチャル世界に置き換えられ、機械による世界へのアクセスが提供されている。

フォースターが理解していた通り、燃焼機関から、コンピューター、更にはロボットに至るまでの技術に、我々は魅了され、とりこになってしまうことが多い。こうした人類の創造力による驚異の代物、我々の活気を削ぎ、アイデンティティーを混乱させ、受け身にさせたままにすべく、最新技術を利用しようとする現代の奴隷所有者たちによって、必然的に乗っ取られてしまう。核攻撃後に、通信をするための防衛戦略として設計されたインターネットは、連中の手中の最新道具と化し、今や我々を新封建主義環境に追い込んでいる。技術は、道徳上からすれば、中立的なものだ。技術は、それを支配する人々の権益に奉仕するものなのだ。そして現在それを支配している連中は、ジャーナリズムや文化や芸術を強奪し、不寛容と憎悪をあおる部族へと国民を囲い込む。

“当時、デジタル文化世界が始まったばかりの頃に、よく行われた説明は、私たちは創造的な嵐の前の、一時的な凪にはいりつつある、あるいは既に台風の目の中にいるのかも、というものだった”ラニアーは著書の中で書いている。“しかし、私たちは一時的な無風状態を通過したわけではない。私たちは、むしろ持続性の傾眠に入ってしまっており、蜜蜂の巣箱を潰した時に、初めてそこから逃れられるのだと、考えるようになった。”

記事原文のurl:www.truthdig.com/report/item/the_information_super-sewer_20100214/

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『「みんなの意見」は案外正しい』は、2009/11、角川文庫刊。冒頭の雄牛の体重を推定する懸賞の話は「まえがき」に、ジェリービーンズを数える話は、第一章に、ある。
『機械が止まる』の翻訳は、E.M.フォースター著作集、第5巻 短編集I(みすず書房刊)に収録されている。
何とも暗澹とした短編だが、決して荒唐無稽と思えない。
“You Are Not a Gadget(あなたは道具ではない)”、翻訳されるのだろうか?

ひとさまの素晴らしい著作を、英語から勝手にまずい日本語に変え、こうしてBlogに載せるのも「大多数の寄生虫」の一匹による愚かな行動かも知れない。

去年のイラン選挙後に使われたTwitter革命という言葉も思い出す。

有名オンライン掲示板や政治ブログ類の現象、不思議に思っていた。
例えば、与党・幹事長への熱狂的支持。そういう宗派に属さない者からすれば、論理的と思える反論が書き込まれると、反論ならぬ、罵詈雑言を投げつけるだけにしか見えない。従ってほとんど覗かない。そうした皆様も、口を揃えて、マスコミや宗主国の批判もしておられる。その一方では、美人議員やらハンサム議員、そして「あんたたちの党」。大金持ち「坊ちゃん」やら、超エリート賛歌。どうして人は全く無関係な人々にあこがれるのだろう。
この文章を読んで、多少は納得。

インターネット前の世界では、匿名であっても、特定企業が運営する掲示板に書き込む方式だったので、「暴徒化」にある程度の歯止めはあったように思えた。PC-VAN, Biglobe、そしてNifty-Serve。もちろん、炎上現象、皆無ではなかったが、世界中から送られるスパム・メールや無意味なトラック・バックは存在しない世界だった。

『「みんなの意見」は案外正しい』のまえがきでも『群衆心理』について触れられている。ギュスターヴ・ル・ボンによるそのままの書名の古典だ。講談社学術文庫。「古典」とはいえ、大変残念なことに、その内容、今でもほとんど通じそうだ。少数派からみると『「みんなの意見」...』より、『群衆心理』の方が、実体を反映しているように思える。

e-mail, Web, Blog, Youtube, SNS, Twitter、次々登場する新技術の宣伝本を書いて暮らす人々、こうした意見、決して書いてくれない。現代版チンドン屋さん業。
子供の頃は、チンドン屋さんが面白くて、後について行きたい誘惑にかられた。
年と共にひねくれ、新技術への礼賛、眉唾に感じるようになってしまった。
つい最近、年下の人々から、mixiに誘われたが、のらりくらり逃げた。

「昔は新製品開発にも関与してたのに勝手な奴」と誘って下さった方は思われたろう。
「そういうものだ。」So it goes.

新製品開発、委員会方式では決して実現しなかったはずと今も思っている。

追記:2010/12/18

ジャロン・ラニアーの『人間はガジェットではない』、ハヤカワ新書から刊行。1500円

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コメント

いつも興味深い記事をありがとうございます。インターネットに浮かれていた所、目を覚まさせてくれる内容と思われました。匿名で、無料で、その他一人として振る舞おうとしているうちは、道具のままなんですね

ここにある文章のおかげでいくつもの事を知る、考えられました。

結局、賢い者や能力のある者が、メディアを支配するわけですね。
媒体が自由であるからこそ、賢い者、能力のある者の性格によってどんな性質をも持ちうるのでしょう。
私を含め、多くの民衆は賢くありませんから日々の生活で頭がいっぱいです。

プログラマの視点から…


まだネットがそんなに普及していない頃、「これは世界を変えるスゴい技術だ」と興奮していた事を覚えています。弱者が情報発信出来る機会は多くはなかったですからね…だから当時は、まず何かをやったもん勝ちみたいな風潮があったもんです。ネットで初めて動画を見たときは、本当に興奮したものです。


現在、当時とは状況も変わって、ネットの仕事では情報そのものに価値が全くない事が多いです…それよりも、いかに情報をタダもしくは安価で手に入れ、それを広告に織り交ぜて発信し、そこにいくら金が発生するかが専らウェブプログラマやコンテンツ提供者側の関心事です…


我々ウェブの裏側の人間は自分らでコンテンツを作ることがないので、マスコミ記者よりもタチが悪いと思いますよ…PV(ネット用語で閲覧者数)を稼ぐことが使命みたいなものなので、ユーザーをコントラバーシーなコンテンツに誘導し議論させるのは常套手段。大型掲示板やソーシャルネットワークなどで経営的に成功しているネット起業から、有益な情報が提供される事は今後も期待出来ないでしょう。


そんな事を書いている間にも、私が書いたせいぜい1000行程度のプログラムは、サーバーの定期プログラム発動指令を受け、ネットのどこかから娯楽コンテンツを収集(盗用とも言いますかね…)し、データベース化し、明日発行のあまり役に立つとは思えないメルマガ用の配信記事やブログ記事を作ってたりで…


ただね、有益な情報を提供することが経済的に報われれば、我々も日本の役に立つ側の人間になれるでしょうね。


見識者の方々が無償で提供して下さる有益なコンテンツへ若者をどう誘導するのかがそろそろ日本のネット事業の中でも議論されなければいけませんね…

今の所、日本の現状は「インターネットが市民側やソノ運動に利する」状態のようです。
日本の右翼勢力による情報工作は、余りにバリエーションと情報量が限られて稚拙です。
どちらかと言えば、使いこなせてないですね。
そんなこんなで、最近でもネット言論は西松・陸山会・北教組と続く検察クーデターや、既存マスコミの「政権交代など無駄だ!政治に絶望して投票へ行くな!」キャンペーンに厳しく出てます。
尤も、ネットと切り離された層にとっては、従来道理のマスコミ情報操作が効いてますけど。
ご参考迄:日本政治再生を巡る権力闘争の謎:カレル・ヴァン・ウォルフレン
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-02-0501.html
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100318-03-0501.html

Chris Hedgesの記事を訳して頂いて感謝します。(別に私が感謝する筋合いの話でもないのですが)御存知の様に彼はクリスチャンとして人間社会を捉え、常にキリストが教えた人間愛の立場で理論を展開するジャーナリストでアメリカ人のジャーナリストの中で私が最も尊敬する一人です。アメリカでは彼のインタヴューや記事が進歩派のメディアで手に入りますので彼の主義や信じている事は痛い様に理解出来るので彼の著書は残念ながら読む必要は無いと思い未だ一冊も読んでないのですが、宗教を持たない私でも“崇高な人間性は宗教に勝る”と言う事を改めて感じさせて貰える人間の一人です。
 何時も人間社会にとって重要な記事の翻訳に本当に感謝しています。

 

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