ハート・ロッカー、アカデミー賞とイラク戦争の名誉回復作業
David Walsh
2010年3月11日
今年のアカデミー賞式典、陳腐さと、ひきょうの見世物。
アカデミー賞で、最も高く評価された三本の映画、「ハート・ロッカー」、「プレシャス」そして「イングロリアス・バスターズ」は、映画業界における、退化した、汚らわしい何ものかを、ひとまとめに体現したものであり、いずれも偽装工作作品だ。
ハート・ロッカーは、“ノンポリ”やら“無党派”などという主張にもかかわらず、独特の不快な形で、戦争支持、帝国主義支持映画であることを示している。「プレシャス」はアメリカで都心の過密地区に暮らす、アフリカ系アメリカ人の生活に対して同情的な見方を示すどころか、社会的後進性に耽溺し、虐げられた人々自身に責めを負わせている。クエンティン・タランティーノの、ぞっとするような「イングロリアス・バスターズ」は、“反ナチス”映画を装ってはいるが、自前のポルノ-サディズムを表現しており、ファシズムの気配以上のものがある。
三本の実にとんでもない作品。
七年前の2003年3月、違法なイラク侵略から、わずか数日後、ボーリング・フォー・コロンバインで、オスカーを受けた、ドキュメンタリー映画制作者マイケル・ムーアは、ジョージ・W・ブッシュを、“偽大統領”だと糾弾し、更に言った。“我々は、虚偽の理由で我々を戦争に送り出す男が大統領だという時代に生きている… [我々は]この戦争には反対だ、ブッシュ大統領。恥を知れ。”
ムーアの道義的発言から7年後、映画業界は、先週日曜の夜、最も無様な形で、公式に敗北を認め、中東と中央アジアにおける植民地風戦争に反対するふりすら放棄している。ハート・ロッカーを最高の映画として選んだのは、事実、体制派リベラルと、マスコミ内部でおこなわれている、一致協力した、現在進行中の、イラク戦争名誉回復作業の一環なのだ。
筆者のロバート・ドレフュスが、最近の不正なイラク選挙に、“有望な兆し”を見いだしている「ネーション」誌から、同じ選挙が、“自らのことは、自ら管理すると、イラク人が主張する、最新のステップ”だと主張する民主党のシンクタンク「アメリカ進歩センター」に至るまで、左翼もリベラルも、イラクの莫大な石油資源支配をねらった、アメリカ軍のイラク恒久駐留を是認する信号を送っている。
2003年、ブッシュ政権に対する文化的・心理的憎悪から、イラク侵略に反対した、ハリウッドの裕福な“反戦”派リベラルも、意見を変え、同調した。彼等にとって、バラク・オバマが選出されたことが、社会的環境として、自分たちの政治的念願を達成したことになるのだ。
ハート・ロッカーの監督、キャスリン・ビグローは、最優秀監督賞の受賞演説で、好機をとらえて言った。“この映画を、イラクやアフガニスタンや世界中で、自らの命を、日々、危機にさらして生きている、軍隊の人々に捧げます。” 後に、最優秀映画賞を受賞しながら、彼女は、あらためて言った。“もう一度、捧げましょう。世界中の、軍服を着ている人々に… 彼等は私たちの為にそこにいて、私たちは彼等のためにそこにいるのです。”
彼等は“我々の為に”そこにいるわけではない。アメリカ軍兵士は専門家で、徴兵ではなく、アメリカ金融業界エリートの権益の為に、ある種、世界的規模の暗殺団の様なものとして戦っているのだ。元左翼やリベラルのあらゆる連中は、多くは“兵士たちを支援する”必要性という決まり文句を使って、今や帝国主義者による戦争の為の尽力に肩入れしている。これは、恥ずべき、卑劣なスローガンだ。実際は、それは、残忍な戦争の起源、行為、そして狙い、に対する批判を阻止し、抑圧しようという試みなのだ。
ハート・ロッカー受賞キャンペーンの成功が、評論家とハリウッドのエリート両者の知的破たんを物語っている。映画は、大衆の評判が良かったわけではないが、ジェレミー・ケイが、ガーディアンへの記事でこう書いている。“スリラーが、批評家のお気に入りとなり、アメリカで作られた最高のイラク戦争映画として称賛されたが、実際、戦争に関する映画における、最高の直感的スライスだ”。決してそんなことはないが、Battle for Haditha(「ハディサの戦い」と訳すべきか)や、「告発のとき」(原題In the Valley of Elah)等の遥かに優れた映画、アメリカ・マスコミによって意図的に無視されている。
ハート・ロッカーを担当した広告代理店は、ビグローが、オスカーを獲得する初めての女性監督となる可能性に的を絞った。ケイはこう書いている。“この考えはうきうきするものだった”、“この話がハリウッドの血流中を駆けめぐったスピードは私も証言できる。2月2日にノミネートされた、その日の内に、もう他の話題はほとんどなかった。”
言い換えれば、監督のジェンダーという切り札が、全てに勝ったのだ。もちろん、それが話の全てではない。アカデミー選者達は、その主題ゆえに、ハート・ロッカーに群がったのだ。
客観性と“信ぴょう性”の名の下、ビグローの映画は、爆弾処理専門家、ウイリアム・ジェームズ二等軍曹という“乱暴な男”の優越的な立場から見たイラク戦争を描いている。占領軍として、アメリカ軍兵士が駐留していること自体は、決して疑問視されず、この怖いもの知らずの(率直に言えば、精神的に異常な)人物の仕事が、英雄的に何千人もの命を救うものとして描かれる。
様々な爆弾処理場面の間に置かれた、短い、一続きの対話は、わざとらしく、説得力に欠ける。ビグローは、兵士というのがどんなものか、人間がどのように反応するかも、わかっていない。彼女の映画(ラブレス、ニア・ダーク、ブルー・スチール、ハートブルー、ストレンジ・デイズ)は、実生活を元にするのでなく、ポスト構造主義と、ポストモダニズム哲学のがらくたを含め、支離滅裂で、曖昧な枠組みによったものだ。
例えば、彼女第一作目の映画、ザ・セット・アップ(1978)は、ニューヨーク・タイムズによれば、二人の男が路地で殴りあう中、“記号論学者のシルベール・ロトリンガーと、マーシャル・ブロンスキーが、画面外で語りながら、画像を脱構築するものだ。”ビグローは、かつて、その主題を説明したことがある。“1960年代には、敵というものは、自分の外部のもの、言い換えれば、警察官、政府、体制だと考えられていたが、全くそんなことはなく、ファシズムは極めて狡猾で、私達は常にそれを生み出しているのだ、という事実を、シルベールが語って、作品は終わります。”
自分の意見を言え!と、もう一度言いたくもなるではないか。明らかに、ビグローは、魅惑的で“極めて劇的”だと彼女自身考える、暴力と力…と戦争に、魅了されている。ビグローは“戦争の根本的な必然性というものが多分存在している”という考えに固執しており、“戦うことに耽溺、あるいは惹かれる心理”という発想に惹きつけられているのだ。
ビグローは、そうした出来事の想像上の状況を、悲しんだり、批判したりしているのだと称賛する人々は主張する。逆に、ハート・ロッカーは、映画制作者が“情緒反応の高まり”と結びつけている暴力に喜びを感じ、暴力を美化している。中途半端なニーチェ哲学という要素を含め、こうしたこと全て、極めて不健康で陰険でさえあるが、アメリカの“ラディカル”インテリと称される連中の間にある決定的なムードを反映している。
元従軍記者マーク・ボールの脚本による、ビグローの映画は反戦ではない。この映画は、単に、時折立ち止まって、イラク人武装反抗勢力や、一般市民を虐殺するのに、アメリカ兵士が払う高い代償について、思いをめぐらしているだけなのだ。少なくともビグローに関する限り、浮かない表情をして、疲労とストレスがたまった様子さえ見せさえすれば、アメリカ軍兵士は、その足で、殺害し、大惨事をひき起こしても良いのだ。
このワールド・ソーシャリスト・ウェブ・サイトのレビューで、昨年8月に書いた通り、“映画の最大の誤りは、制作者たちが、あたかも戦争の性格が、兵士たちの行動や考え方に影響はしないかのように見なし、イラク戦争全体の性格に触れることなく、アメリカ軍兵士の心理や精神的な状況を、正確に描き出せると、明らかに信じていることにある。”
ハート・ロッカーが、ハリウッドで、選者たちの心を捕らえるのに成功できたのは、ある解説者が満足げに言っているとおり、この作品が“観客に、戦争に関する政治的判断をすることを強いなかった”からだ。つまり、この映画は、極右やペンタゴンやオバマ政権におもねっているのだ。
毎年のアカデミー賞式典は、ハリウッドが自ら祝うだけの単なる機会という以上の意味がある。(今年はアメリカで約4000万人が見た)放送はアメリカの国民生活儀式の一つであり、それによって、世論が形成され、操作される、もう一つの方法となっているのだ。
かくて、あらゆるそうした行事同様、今や授賞式は、始めから終わりまで、完全に、あらかじめ準備され、消毒された催しなのだ。誰一人として、方針に反した行動を取ろうと考えたりすることは許されず、事実上、台本なしの瞬間など存在していない。オスカー式典には、決して黄金時代などなかったのかも知れないが、この催しには、たとえ反対派のものであろうと、少なくとも本当の意見が語られる可能性がある時代もあった。
2003年、ムーアが、その映画で受賞したドキュメンタリー賞さえ、厳しく管理されていた。ジュディズ・アーリックと、リック・ゴールドスミスの『アメリカで最も危険な男:ダニエル・エルズバーグとペンタゴン・ペーパーズ』も、今年、同じ範疇の候補作品の一つだった。1971年に、ベトナム戦争に関する、隠されたペンタゴンの歴史を公開して、ベトナム戦争に関する政府公式説明に対して一撃を加えたエルズバーグも、日曜日のアカデミー賞式典に出席していた。腐敗と恐怖が支配する現在の雰囲気では、かつて政府に反抗した人物などを思いおこさせられるのは、いかにも気まずいだろう!
代わりに、何千頭ものイルカが毎年捕獲される日本の漁村についての映画「ザ・コーヴ」が受賞した。主題は意義あるものかもしれないが、残忍なベトナム戦争、あるいは、その現代の等価物である、イラクやアフガニスタンでの戦争を止めさせることより、重要度はずっと低かろう。
今年のアカデミー賞は、要するに、新たな、どん底だ。ハリウッドの誠実な監督や脚本家や俳優は、発言し、行動すべきだろう。現在の状況は、映画制作、そして、社会全体という観点からして、到底受け入れがたいものだ。
記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/mar2010/hurt-m11.shtml
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決して見る気になれない「ハート・ロッカー」膨大な数の皆様が称賛しておられる一方で、この筆者のような意見、ほとんど見られない。(ランキングの上位には、表示されない。)
「ザ・コーヴ」を不快に思っておられるというブログは多数あるようだ。
「ハート・ロッカー」を不快に思うというブログ、不思議に目につかない。
「ザ・コーヴ」が不快なら、「ハート・ロッカー」、胸がむかつくのではないだろうか?
この状況、前々回の記事『情報スーパー下水』を連想してしまう。
筆者が推奨する映画「ハディサの虐殺」Battle for Hadithaや、「告発のとき」(原題In the Valley of Elah)、Wikipediaで読んでみても、扱いは極めて冷淡。読んでもさっぱりわからない。「読むにあたいしない」記事項目という表現が相応しかろう。
無料百科事典、民放と同じで、毒にこそなれ、頭に良いわけがないだろう。
お金を払うギョウザは、品質が気になるが、ただ、あるいは、ただ同然で流れる情報、品質は全く気にならない。そもそも、素人には確認できない。
イラク戦争の名誉回復作業どころか、7周年ということで、現状を冷静に見なおすような記事、番組、まめでない素人、全く気がつかなかった。
何か良い記事、番組が、あったのだろうか?
ところで、実際に見ていないので知らなかったが、映画「ハート・ロッカー」、『情報スーパー下水』の筆者、クリス・ヘッジズの著書『戦争の甘い誘惑』からの引用で始まり、終わるのだという。全く対極の考え方の持ち主の言葉を使うとは、真面目なのか、ふざけているのか、監督の考え、全く分からない。引用は、下記の部分らしい。
"The rush of battle is a potent and often lethal addiction,
for war is a drug, one I ingested for many years."Source: War is a force that gives us meaning 2002, PublicAffairs
『戦争の甘い誘惑』
中谷和男訳
河出書房新社 2003年3月20日初版発行 (なんという日付!)
では、下記のとおり。(はじめに 15ページ)
戦争がもたらす恍惚感は、強力な感染力のある嗜癖である。戦争とは我々にとって、長年打ち続けてきたドラッグなのだ。
映画をご覧になる方の、1000人に一人くらいは、クリス・ヘッジズの本を読んでみたいと、思われるかも知れない。残念ながら、もはや翻訳の新本は購入できそうにない。版元の該当ページには、品切れ・重版未定とある。これを機会に増刷して欲しいものだ。
宗主国が、このような映画で、イラク戦争の名誉回復作業を進める中、一つの属国では、政権(正しくは派閥だろう)が変わったが、良く似た前政権が、違法な侵略戦争を支持し、派兵し、油を献上したことの検証は、もちろん棚上げにしている。
そして、Google撤退や、中国共産党が、チベット問題の報道を禁じたことは、熱心に報じるマスコミという組織、宗主国・属国では、イラク戦争の報道や検証が禁じられている(のだろうとしか思えない)ことは、報じない。
この映画を批判している記事を探してみると、新聞社のものがいくつかある。実際に読んでみると、何のことはない「イランのホセイニ文化・イスラム指導相は...」と書いてある。
自分の意見を言え!と、もう一度言いたくもなるではないか。
いや、(中国という)国家による報道規制を堂々報じる、立派な報道の自由が、この国にはたしかに存在している。慶賀すべきことだ。
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