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2010年3月

2010年3月29日 (月)

ハート・ロッカー、アカデミー賞とイラク戦争の名誉回復作業

David Walsh

2010年3月11日

今年のアカデミー賞式典、陳腐さと、ひきょうの見世物。

アカデミー賞で、最も高く評価された三本の映画、「ハート・ロッカー」、「プレシャス」そして「イングロリアス・バスターズ」は、映画業界における、退化した、汚らわしい何ものかを、ひとまとめに体現したものであり、いずれも偽装工作作品だ。

ハート・ロッカーは、“ノンポリ”やら“無党派”などという主張にもかかわらず、独特の不快な形で、戦争支持、帝国主義支持映画であることを示している。「プレシャス」はアメリカで都心の過密地区に暮らす、アフリカ系アメリカ人の生活に対して同情的な見方を示すどころか、社会的後進性に耽溺し、虐げられた人々自身に責めを負わせている。クエンティン・タランティーノの、ぞっとするような「イングロリアス・バスターズ」は、“反ナチス”映画を装ってはいるが、自前のポルノ-サディズムを表現しており、ファシズムの気配以上のものがある。

三本の実にとんでもない作品。

七年前の2003年3月、違法なイラク侵略から、わずか数日後、ボーリング・フォー・コロンバインで、オスカーを受けた、ドキュメンタリー映画制作者マイケル・ムーアは、ジョージ・W・ブッシュを、“偽大統領”だと糾弾し、更に言った。“我々は、虚偽の理由で我々を戦争に送り出す男が大統領だという時代に生きている… [我々は]この戦争には反対だ、ブッシュ大統領。恥を知れ。”

ムーアの道義的発言から7年後、映画業界は、先週日曜の夜、最も無様な形で、公式に敗北を認め、中東と中央アジアにおける植民地風戦争に反対するふりすら放棄している。ハート・ロッカーを最高の映画として選んだのは、事実、体制派リベラルと、マスコミ内部でおこなわれている、一致協力した、現在進行中の、イラク戦争名誉回復作業の一環なのだ。

筆者のロバート・ドレフュスが、最近の不正なイラク選挙に、“有望な兆し”を見いだしている「ネーション」誌から、同じ選挙が、“自らのことは、自ら管理すると、イラク人が主張する、最新のステップ”だと主張する民主党のシンクタンク「アメリカ進歩センター」に至るまで、左翼もリベラルも、イラクの莫大な石油資源支配をねらった、アメリカ軍のイラク恒久駐留を是認する信号を送っている。

2003年、ブッシュ政権に対する文化的・心理的憎悪から、イラク侵略に反対した、ハリウッドの裕福な“反戦”派リベラルも、意見を変え、同調した。彼等にとって、バラク・オバマが選出されたことが、社会的環境として、自分たちの政治的念願を達成したことになるのだ。

ハート・ロッカーの監督、キャスリン・ビグローは、最優秀監督賞の受賞演説で、好機をとらえて言った。“この映画を、イラクやアフガニスタンや世界中で、自らの命を、日々、危機にさらして生きている、軍隊の人々に捧げます。” 後に、最優秀映画賞を受賞しながら、彼女は、あらためて言った。“もう一度、捧げましょう。世界中の、軍服を着ている人々に… 彼等は私たちの為にそこにいて、私たちは彼等のためにそこにいるのです。”

彼等は“我々の為に”そこにいるわけではない。アメリカ軍兵士は専門家で、徴兵ではなく、アメリカ金融業界エリートの権益の為に、ある種、世界的規模の暗殺団の様なものとして戦っているのだ。元左翼やリベラルのあらゆる連中は、多くは“兵士たちを支援する”必要性という決まり文句を使って、今や帝国主義者による戦争の為の尽力に肩入れしている。これは、恥ずべき、卑劣なスローガンだ。実際は、それは、残忍な戦争の起源、行為、そして狙い、に対する批判を阻止し、抑圧しようという試みなのだ。

ハート・ロッカー受賞キャンペーンの成功が、評論家とハリウッドのエリート両者の知的破たんを物語っている。映画は、大衆の評判が良かったわけではないが、ジェレミー・ケイが、ガーディアンへの記事でこう書いている。“スリラーが、批評家のお気に入りとなり、アメリカで作られた最高のイラク戦争映画として称賛されたが、実際、戦争に関する映画における、最高の直感的スライスだ”。決してそんなことはないが、Battle for Haditha(「ハディサの戦い」と訳すべきか)や、「告発のとき」(原題In the Valley of Elah)等の遥かに優れた映画、アメリカ・マスコミによって意図的に無視されている。

ハート・ロッカーを担当した広告代理店は、ビグローが、オスカーを獲得する初めての女性監督となる可能性に的を絞った。ケイはこう書いている。“この考えはうきうきするものだった”、“この話がハリウッドの血流中を駆けめぐったスピードは私も証言できる。2月2日にノミネートされた、その日の内に、もう他の話題はほとんどなかった。”

言い換えれば、監督のジェンダーという切り札が、全てに勝ったのだ。もちろん、それが話の全てではない。アカデミー選者達は、その主題ゆえに、ハート・ロッカーに群がったのだ。

客観性と“信ぴょう性”の名の下、ビグローの映画は、爆弾処理専門家、ウイリアム・ジェームズ二等軍曹という“乱暴な男”の優越的な立場から見たイラク戦争を描いている。占領軍として、アメリカ軍兵士が駐留していること自体は、決して疑問視されず、この怖いもの知らずの(率直に言えば、精神的に異常な)人物の仕事が、英雄的に何千人もの命を救うものとして描かれる。

様々な爆弾処理場面の間に置かれた、短い、一続きの対話は、わざとらしく、説得力に欠ける。ビグローは、兵士というのがどんなものか、人間がどのように反応するかも、わかっていない。彼女の映画(ラブレス、ニア・ダーク、ブルー・スチール、ハートブルー、ストレンジ・デイズ)は、実生活を元にするのでなく、ポスト構造主義と、ポストモダニズム哲学のがらくたを含め、支離滅裂で、曖昧な枠組みによったものだ。

例えば、彼女第一作目の映画、ザ・セット・アップ(1978)は、ニューヨーク・タイムズによれば、二人の男が路地で殴りあう中、“記号論学者のシルベール・ロトリンガーと、マーシャル・ブロンスキーが、画面外で語りながら、画像を脱構築するものだ。”ビグローは、かつて、その主題を説明したことがある。“1960年代には、敵というものは、自分の外部のもの、言い換えれば、警察官、政府、体制だと考えられていたが、全くそんなことはなく、ファシズムは極めて狡猾で、私達は常にそれを生み出しているのだ、という事実を、シルベールが語って、作品は終わります。”

自分の意見を言え!と、もう一度言いたくもなるではないか。明らかに、ビグローは、魅惑的で“極めて劇的”だと彼女自身考える、暴力と力…と戦争に、魅了されている。ビグローは“戦争の根本的な必然性というものが多分存在している”という考えに固執しており、“戦うことに耽溺、あるいは惹かれる心理”という発想に惹きつけられているのだ。

ビグローは、そうした出来事の想像上の状況を、悲しんだり、批判したりしているのだと称賛する人々は主張する。逆に、ハート・ロッカーは、映画制作者が“情緒反応の高まり”と結びつけている暴力に喜びを感じ、暴力を美化している。中途半端なニーチェ哲学という要素を含め、こうしたこと全て、極めて不健康で陰険でさえあるが、アメリカの“ラディカル”インテリと称される連中の間にある決定的なムードを反映している。

元従軍記者マーク・ボールの脚本による、ビグローの映画は反戦ではない。この映画は、単に、時折立ち止まって、イラク人武装反抗勢力や、一般市民を虐殺するのに、アメリカ兵士が払う高い代償について、思いをめぐらしているだけなのだ。少なくともビグローに関する限り、浮かない表情をして、疲労とストレスがたまった様子さえ見せさえすれば、アメリカ軍兵士は、その足で、殺害し、大惨事をひき起こしても良いのだ。

このワールド・ソーシャリスト・ウェブ・サイトのレビューで、昨年8月に書いた通り、“映画の最大の誤りは、制作者たちが、あたかも戦争の性格が、兵士たちの行動や考え方に影響はしないかのように見なし、イラク戦争全体の性格に触れることなく、アメリカ軍兵士の心理や精神的な状況を、正確に描き出せると、明らかに信じていることにある。”

ハート・ロッカーが、ハリウッドで、選者たちの心を捕らえるのに成功できたのは、ある解説者が満足げに言っているとおり、この作品が“観客に、戦争に関する政治的判断をすることを強いなかった”からだ。つまり、この映画は、極右やペンタゴンやオバマ政権におもねっているのだ。

毎年のアカデミー賞式典は、ハリウッドが自ら祝うだけの単なる機会という以上の意味がある。(今年はアメリカで約4000万人が見た)放送はアメリカの国民生活儀式の一つであり、それによって、世論が形成され、操作される、もう一つの方法となっているのだ。

かくて、あらゆるそうした行事同様、今や授賞式は、始めから終わりまで、完全に、あらかじめ準備され、消毒された催しなのだ。誰一人として、方針に反した行動を取ろうと考えたりすることは許されず、事実上、台本なしの瞬間など存在していない。オスカー式典には、決して黄金時代などなかったのかも知れないが、この催しには、たとえ反対派のものであろうと、少なくとも本当の意見が語られる可能性がある時代もあった。

2003年、ムーアが、その映画で受賞したドキュメンタリー賞さえ、厳しく管理されていた。ジュディズ・アーリックと、リック・ゴールドスミスの『アメリカで最も危険な男:ダニエル・エルズバーグとペンタゴン・ペーパーズ』も、今年、同じ範疇の候補作品の一つだった。1971年に、ベトナム戦争に関する、隠されたペンタゴンの歴史を公開して、ベトナム戦争に関する政府公式説明に対して一撃を加えたエルズバーグも、日曜日のアカデミー賞式典に出席していた。腐敗と恐怖が支配する現在の雰囲気では、かつて政府に反抗した人物などを思いおこさせられるのは、いかにも気まずいだろう!

代わりに、何千頭ものイルカが毎年捕獲される日本の漁村についての映画「ザ・コーヴ」が受賞した。主題は意義あるものかもしれないが、残忍なベトナム戦争、あるいは、その現代の等価物である、イラクやアフガニスタンでの戦争を止めさせることより、重要度はずっと低かろう。

今年のアカデミー賞は、要するに、新たな、どん底だ。ハリウッドの誠実な監督や脚本家や俳優は、発言し、行動すべきだろう。現在の状況は、映画制作、そして、社会全体という観点からして、到底受け入れがたいものだ。

記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/mar2010/hurt-m11.shtml

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決して見る気になれない「ハート・ロッカー」膨大な数の皆様が称賛しておられる一方で、この筆者のような意見、ほとんど見られない。(ランキングの上位には、表示されない。)

「ザ・コーヴ」を不快に思っておられるというブログは多数あるようだ。
「ハート・ロッカー」を不快に思うというブログ、不思議に目につかない。
「ザ・コーヴ」が不快なら、「ハート・ロッカー」、胸がむかつくのではないだろうか?
この状況、前々回の記事『情報スーパー下水』を連想してしまう。

筆者が推奨する映画「ハディサの虐殺」Battle for Hadithaや、「告発のとき」(原題In the Valley of Elah)、Wikipediaで読んでみても、扱いは極めて冷淡。読んでもさっぱりわからない。「読むにあたいしない」記事項目という表現が相応しかろう。

無料百科事典、民放と同じで、毒にこそなれ、頭に良いわけがないだろう。

お金を払うギョウザは、品質が気になるが、ただ、あるいは、ただ同然で流れる情報、品質は全く気にならない。そもそも、素人には確認できない。

イラク戦争の名誉回復作業どころか、7周年ということで、現状を冷静に見なおすような記事、番組、まめでない素人、全く気がつかなかった。

何か良い記事、番組が、あったのだろうか?

ところで、実際に見ていないので知らなかったが、映画「ハート・ロッカー」、『情報スーパー下水』の筆者、クリス・ヘッジズの著書『戦争の甘い誘惑』からの引用で始まり、終わるのだという。全く対極の考え方の持ち主の言葉を使うとは、真面目なのか、ふざけているのか、監督の考え、全く分からない。引用は、下記の部分らしい。

"The rush of battle is a potent and often lethal addiction, for war is a drug, one I ingested for many years."

Source: War is a force that gives us meaning 2002, PublicAffairs

『戦争の甘い誘惑』
中谷和男訳
河出書房新社 2003年3月20日初版発行 (なんという日付!)
では、下記のとおり。(はじめに 15ページ)

戦争がもたらす恍惚感は、強力な感染力のある嗜癖である。戦争とは我々にとって、長年打ち続けてきたドラッグなのだ。

映画をご覧になる方の、1000人に一人くらいは、クリス・ヘッジズの本を読んでみたいと、思われるかも知れない。残念ながら、もはや翻訳の新本は購入できそうにない。版元の該当ページには、品切れ・重版未定とある。これを機会に増刷して欲しいものだ。

宗主国が、このような映画で、イラク戦争の名誉回復作業を進める中、一つの属国では、政権(正しくは派閥だろう)が変わったが、良く似た前政権が、違法な侵略戦争を支持し、派兵し、油を献上したことの検証は、もちろん棚上げにしている。

そして、Google撤退や、中国共産党が、チベット問題の報道を禁じたことは、熱心に報じるマスコミという組織、宗主国・属国では、イラク戦争の報道や検証が禁じられている(のだろうとしか思えない)ことは、報じない。

この映画を批判している記事を探してみると、新聞社のものがいくつかある。実際に読んでみると、何のことはない「イランのホセイニ文化・イスラム指導相は...」と書いてある。

自分の意見を言え!と、もう一度言いたくもなるではないか。

いや、(中国という)国家による報道規制を堂々報じる、立派な報道の自由が、この国にはたしかに存在している。慶賀すべきことだ。

2010年3月27日 (土)

マスコミによるカモフラージュ: イラク戦争7周年

Danny Schechter

Global Research、2010年3月20日

アメリカのマスコミは、主要な出来事の~周年が大好きだ。続報をするのに、理想的な“ニュースの核”なのだ。ペンタゴンが、当初“簡単な仕事”と表現し、イラクのクウェート侵略を終わらせた「砂漠の嵐作戦」の即日決戦に習った、短期的な介入として企画された戦争である、アメリカの対イラク戦争7周年に、マスコミは全力を尽くすだろう、と皆考えそうなものだ。

ところが、そうならなかったばかりでなく、誰でも予想できる通り、その過程で、報道の熱意もあせ、大衆の関心もあせてしまった。放送局は‘ひっきりなしの戦争報道’を止め、軍隊の撤退よりずっと前から、自分たちの部隊を撤退させていた。

結果として、経費や、死傷者や、誰もが失敗した任務だと考えているのに、ワシントンだけが、新大統領による選挙戦時の約束にもかかわらず、依然として終わらせることが出来ない事の結果の本格的評価も皆無のまま、状況は、一様に“おだやか”とだけ書かれている。

イラクでは、もっぱら選挙結果が注目されている。あたかも投票が、本当に票計算されているかのごとくであり、今のところ、結果は驚くべきものだ。宗教政党を率いる大統領が、無宗派的な未来を目指して戦っている元指導者に挑戦されている、一進一退のフロリダ州のようなドラマだ。これまでの所、予想もされなかった本当の勝者は、国内にさえおらず、アメリカ人や、彼等に協力しているイラク人政治家と戦っていることで知られている、ムクタダ・アル-サドルだ。彼の支持者と、バグダッド政府、あるいは外国のスポンサーとの間には、よそよそしいものがある。

要するに、何が起ころうとも、必ずや‘民主主義の勝利’として喧伝されるであろう状態では、イラクで続く戦争にも、アメリカの戦争支持派の大衆は、ほとんど沈黙して、最悪の事態を恐れるばかり、ということのようだ。イラク人を分断しながら、同時に彼等自身に対し、彼等を団結させたのかも知れない!

ボスニアのセルビア戦争(ベオグラードの民族浄化実行者に対し、形ばかりの反対をしたとは言え)から、アメリカは一体何を学んだのだろうかということは、まるで報道されずにいる。間もなくイラク戦争は、かつてアメリカの寵児の一人だったサダム・フセインによって、残忍なやり方で維持されていたとはいえ、多民族国家であったイラクの和合を、バラバラにすることを狙う人種戦争へと転化した。

アメリカが、ベルリンで壁崩壊の祝賀に参加しながら、壁を作り、隣人の間に分裂を生み出して、スンナ派とシーア派を分裂させたのが、アメリカの戦略であったことを、アメリカのマスコミは忘れ去ってしまったように見える。分割して、統治するという、いつもの手口。それが占領の理屈だ。

ボストン・グローブは、これを暴露しているある教育者の発言を引用してはいるが、この人物、出身部族のレッテルを、露骨に貼られている。「失敗という言葉こそ、アメリカの戦争と結びつけられるべきものです」と、フセインの故郷ティクリットの退職教師モハメッド・サビトは言う。(著者注: (つまり彼はスンナ派だ)

    「アメリカ人は、人々を権力につけたが、あの連中は、報復、脅迫、宗派心をかき立てることと、強盗が専門だ。」

彼の主張はどの程度本当なのだろう? 私が読んだジャーナリストの誰一人として、評価や調査をしようとしていない。

7周年は、医療保険問題と、よみがえった右派と、民主党との間で起きた新たな内乱に、注目が集中したおかげで、アメリカ国内では目立たなかった。地域によっては、オバマ大統領は、サダム・フセインがそうされたのとほとんど同様、ヒトラーだと決めつけられている。医療改革は、アメリカにとって、正当な問題かも知れないが、実際に争点となっているのは、2008年選挙を、巻き返そうという共和党による企みだ。

“問題は11月であって、今週の投票ではない“と、公民権指導者ジェシー・ジャクソンは語っている。“共和党には“既存の条件”がある。敗北した選挙の仇討ちをするという決意だ。”アメリカ政治における、この最高潮の両極化を、彼は“新たな内乱”と呼んでいる。

ただし今回、マスコミの一部は、それを報道するのでなく、あおっている。

注目を集めつつある、一つの話題は、最近報じられている、イラクでの詐欺、500億ドルもの膨大な規模の、様々な戦争関連契約が不明になっている詐欺だ。こうした金融詐欺への注目のおかげで、戦争そのものの欺瞞的な性格が消されてしまう。同時に、ウォール街の崩壊を促進した詐欺は、なぜアメリカ経済が依然として、崩壊状態にあるのかを評価する際、イラクとアフガニスタン戦争の経費を考慮しなければいけないと、多数の専門家たちが考えているにも関わらず、ほとんど報道されない。こうした何兆ドルもの金は、通常考慮に入れられていない。

“点を結んで全体像を作り上げ”そこなったこの件、不幸なにして、一つの例外というわけではない。抗議は依然として続いている---ボストンでは、徹夜のデモがあり、アフガニスタン戦争反対の抗議が、翌週ワシントンで予定されている---だが戦争前に起き、何百万人も動員した大規模な反戦運動は息切れしてしまったように見える。マスコミは、わずかながらも続いている抗議はほとんど報道しない、その多くは自らの犯罪を告白した元兵士が原動力となっていた。“わが国の兵士たち”が死につつある頃こそは、彼等も敬意を払われた。もはや多数が戦争に反対するようになった今、彼等は無視されている。

ジャーナリズムについて言えば、果てしのない戦争と見えるものに対し、光を照らし続けているのは、特にアル・ジャジーラのような国際放送局とともに、代替メディアと、“市民ジャーナリスト”だ。

起きてしまった事、そして、そこにおける自分たちの役割を、忘却し、軽視することを好んで、大半のアメリカ・マスコミは他の話題に移ってしまった。

Gather.comのサイトには“Tony Bという人のこういう書き込みがある。

    “イラクにおけるアメリカ戦闘部隊の駐留を終わらせようとし始めようとしている時には、ハッピー・エンドを求めようとする誘惑にかられるものだ。たとえば、ニューズ・ウイークは、最近、背景に悪名高い“任務完了”の横断幕があるブッシュ大統領の写真を表紙に載せ、今や最終的に、我々は“とうとう勝利した。”と宣言している

しかし、それはひどい歴史改竄だ。私たちには、自分たちのことについて、気分が良くなれるようなお話ではなしに、妥協のない真実を要求する義務があるのだ。何万人もの死者たちがそれを要求している。虚偽表示で戦争をした以上、イラクにおいて、“任務”完了などあるわけがない。侵略をした瞬間、我々はしくじったのだ。”

ウェブ・サイト、Truthout comは、こうつけ加えている。“私たちは、いまだ衝撃を受けたままだ。我々は決して畏敬してはいない。私たちは慣れてなどいない。我々の血と財産、我々の名誉と評判の、無意味な浪費は続いている。「限りなき自由作戦」と「イラク解放作戦」- 後者は、今から7年前に行われたものだが -は、一つの「限りなき占領作戦」へと変身し、イラクに暮らす3100万人以上の人々に対して行ったと同様、アメリカ自身の安全保障を破壊し、財政上でも、道義上でも、この国を破たんへと進めつつある。"

これ以上、言うべきことがあろうか?

報道分析家のDanny Schechterは、Mediachannel.orgに、毎日ブログを書いている。彼には、二冊の著作があり、戦争報道に関する映画、WMD(大量欺瞞兵器)を制作している。最新の作品は、金融危機に関する犯罪小説である。コメントは dissector@mediachannel.org に。

Danny Schechterは、Global Researchの常連寄稿者の一人である。Danny Schechterによる、Global Research記事

記事原文のurl:www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=18238

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グーグル撤退時、中国共産党が、中国マスコミに、扱ってはいけない話題を指示したという記事があった。チベット問題や、貧富の激化等。

「先進国」では、指示などなくとも、マスコミは整然と自主規制するのだろうか。

同じ話題のDahr Jamail記事、ブログ「Falluja, April 2004」で翻訳が読める。

新たな「忘れられた」戦争

2010年3月22日 (月)

情報スーパー下水: インターネットは企業権益によってハイジャックされるのか- Chris Hedges

Chris Hedges

Truthdig

2010-02-15

インターネットは、私たちの、文化的、政治的、経済的衰退を促進すべく、企業権益によってハイジャックされた、もう一つの道具となってしまった。対話を活発にし、文化的な障壁を打ち破り、デモクラシーを推し進め、イノベーションと創造性を解き放つという、インターネットの壮大な展望は、詐欺であることが明かになった。インターネットは、私たちを、同じスローガンを唱え、同じ敵を憎悪する、敵対する諸部族に分裂させており、私たちの創造的作品は、それを広告のための餌として利用する、ウェブ・プロバイダーに、無料で引き渡されている。

ジャーナリスト、写真家、音楽家、漫画家や画家達に、ウェブについてどう考えているか、尋ねてみられたい。映画プロデューサーに尋ねてみられたい。建築士や、技術者に尋ねてみられたい。ウェブは、コンテンツの効率的流布こそするが、知的所有権を保護することはしない。作家や芸術家は、次第に生計をたてることが不可能になりつつある。しかも、技術職も攻撃を受けている。デジタル化が可能なあらゆるものは、給料がわずかで、福利制度も皆無である、インドや中国などの国々に外注することが可能であり、外注されつつある。生活賃金が得られる唯一の職業といえば、プロパガンダか企業経営しかない、新グローバル農奴制の世界にようこそ!

ウェブは、創造的な作品を破壊するのと同時に、集団的憤激、不寛容、偏見を発散させる、匿名の群衆も形成している。これらバーチャル・スラム街は、コミュニケーションや、対話を拡げているわけではない。こうしたものは、私たちの文化を豊かにすることはない。この点、リベラル集団も、右翼と同罪なのだが、こうしたものは、“敵”への共感を表明するような人々は、仲間から、その不道徳さを糾弾されてしまうような、群衆心理を生み出すのだ。イスラム教徒に対する人種差別は、邪悪な反ユダヤ主義と同じだが、この全くの真実を、パレスチナや、イスラエルの党派的ウェブ・サイトで、発言しようと試みて頂きたい。

“バーチャル・リアリティー技術の父”ジャロン・ラニアーは、新著“You Are Not a Gadget(邦題、人間はガジェットではない)”の中で、この恐るべき新集団主義に対して警告している。インターネットによって、押しつけられる習慣が、我々がお互いに関係し合うやりかたを、書き換えてしまったと彼は言う。“ウェブ 2.0”“オープン・カルチャー”“フリー・ソフト”や“ロング・テール”が、この新集団主義の実現を可能にする装置となったと、彼は書いている。個人的発言を故意に削除する、ウィキペディアやGoogleウエーブを、集団思考と、集団感情の勃興例として、彼は言及している。Googleウエーブというのは、誰か他の人が、会話の中で言ったことが表示され、協力者する人々はタイプ入力しながら、お互いの発言を見ることができる環境で、ユーザーがそれを編集するのを可能にする、新たなコミュニケーション・プラットフォームだ。プライバシー、誠実さや内省等、あっと言う間に抹殺されてしまう。

インターネット上では、ラニアーが集団精神と呼ぶ群衆によって、嗜好と情報が決定される。音楽、書籍、ジャーナリズム、コマーシャルや、テレビ番組や映画の断片が、ばかげたYouTubeビデオ等と一緒に、パソコン画面や国民意識に押しつけられ、インターネット群衆の嗜好が統計的分析されるのだ。彼や他のコンピューター科学者達がインターネットを開発した際に犯した、最大の過ちの一つは、インターネットへの貢献を無報酬としてしまったことだ、とラニアーは言う。こうした判断が、今や人々、特に物を創造する人々から、生計をたてる能力を、究極的には品格を保つ能力を、奪い取りつつあるのだと彼は言う。デジタル集団主義は、時間、投資や内省が不可欠な、ジャーナリズムを含む、辛うじて、わずかに残された、本物の創造性や、イノベーションを破壊しているのだ、と彼は警告している。そして、コンテンツに対し、支払をするサイトも、わずかながら存在しており、Truthdigもその一つなのだが、大多数は寄生虫だ。創造をする人々の多くに残された、唯一の収入は、自己宣伝によって稼ぐものだけなのだが、ラニアーの指摘通り、これは文化を単なる広告に変えてしまう。群衆操作をする能力の方が、真実、美や、思想よりも、高く評価されてしまうという、社会倫理を助長するのだ。

ジャーナリストであれ、写真家であれ、あるいは音楽家であれ、知的所有権を、作品を創造する人々から断ち切ることは、それを創造した人々が、その作品によって生計をたてる能力を失ってしまい、Googleのような、データ集積企業が、広告主を引き付けるために、こうした作品を収集し、頒布することで、儲けることを意味するのだ。インターネット上の、オリジナルな作品は、ラニアーが指摘しているように、“コピーされ、すりつぶされ、匿名化され、分析され、誰か他の連中が広告戦略を維持するための要塞用レンガに変えられてしまう”もしもこの傾向が止められなければ、それは“長期的には、アメリカの国民が生計を立てる方法を皆無にしてしまう公式”を作り出してしまうだろうと、ラニアーは警告する。

“広告を、文明の財源にするというのは、自分の肛門から口にチューブをつなげて、栄養をとろうとするようなものだ”とラニアーは言う。“体は、自らを破壊し始める。それが、私たちがオンラインで行っていることだ。ますます多くの人間活動が凝集されるにつれて、人々は最後に残された収入源のオアシスに群れ集まるようになる。現代の音楽家は、例えばゲームは、まだ今でも閉じられた操作コンソールの中で遊ばれており、集団化されていないので、ビデオ・ゲーム用の音楽を作曲して、作曲料を得ることができよう”

私はサンフランシスコのラニアーに電話した。彼はインターネットに反対なのではなくて、その発展の仕方に反対なのだというところから話をはじめた。もしも、アメリカが経済的きりもみ降下に陥れば、インターネットは、人類史における、他の革新的なマスコミュニケーション・システム同様に、社会的な確執を激化するのに用いられ、アメリカ全体主義へと至らしめる可能性を恐れているので、警告しているのだと彼は言った。

“私に想像できるシナリオは、経済衰退したアメリカですが、私たちは何の調整もできず、多数の不幸な人々がいるゆえに、そうなろうと心に決めているように思えます。”とラニアーは言う。“彼等は、農村部と、共和党支持者の多い州、かつて奴隷制度があった州で、人数的に優勢です。そして、彼等は全員が結びつき、一層激しく怒るようになるでしょう。一体何が起こるでしょう? 彼等は、妊娠中絶医院に、集まって来るでしょうか? 多分。彼等は議会に集まって来て、占拠するでしょうか? わかりませんが、そうなるかもしれません。私が話すべきことではないでしょう。こうしたことを想像するなど、忌むべきことです。しかし、実現するのを、私は見たくないと思っているようなシナリオは、知的な人物であれば、誰でも理解できるでしょう。非常に困ったことが起きる可能性があるのです。”

それでもなお、インターネットを、ユートピア的に推奨する連中は、集団精神が、巨大なバーチャル共同体が、我々を素晴らしき新世界へと推し進めてくれるのだ、と我々に語りかける。ラニアーは、そのような展望は、多くの善意の人々が、進化する悪夢のとりこになってしまうことを可能にする、子供じみた空想だとして退ける。

“群衆現象は存在していますが、集団精神というものは存在していません”と、ラニアーは語っている。“実在しているのは、群衆現象で、それは往々にして危険なものになりかねません。もちろん私はそうではありませんが、狂信者にとって、集団精神とは、‘2001年宇宙の旅’の最後に出てくる赤ん坊のようなものなのです。それは、人類を越える超人間です。私にとってそれは、デジタル的雰囲気をともなう、古い群衆現象の誤った解釈です。全く同じ危険があります。人類の歴史で、ずっとそうであったように、群衆は実にたやすく、御しがたい暴徒へと変わりかねないのです。”

“ビンの中のジェリービーンを数えたり、雄牛の体重を推し量ったりという類の、群衆ができること、というものもあるでしょう”とラニアーはつけ加えた。“こうした現象は本当だと認めます。けれども、群衆が、効率的に考えられる時と、群衆が、そうすることができない時との違いは、いささか異なると言いたいのです。 [ジェームズ・] スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』をお読みになれば、他の理論家達同様、彼も、もしも群衆に、賢明であって欲しければ、その鍵は、成員間のコミュニケーションの流れを減らし、彼等がお互いに影響しあわないようにし、彼等を、本当に独立した、別個の標本点にすることだと言っています。これは興味深いパラドックスです。オンライン群衆というものに熱狂している人々にとっては、出発点は、つながることは良いことであり、全員がつながっているべきなのです。しかし、彼等は、群衆を賢明にするものごとについて語る際には、人々はお互いに話し合ってはならないのだと言うのです。人々は孤立していなければならないと。ここには矛盾があります。群衆を賢明にするものとは、彼等に問う質問の種類なのです。もしも情報を持った人々の集団に、雄牛の体重の様に、一つの数値を選ぶよう尋ねれば、彼等全員が、完全に狂ったわけではない理論を持ってはずなので、ある答えに、まとまるでしょう。何か有益なものが得られるでしょう。この現象は、資本主義における、価格決定の説明でもあるのです。このおかげで市場が機能できるのです。彼等に、何かを作って欲しいとか、何か建設的な、あるいは総合的なことをして欲しいとか、集合的な推論をして欲しいと頼むと、彼等はやりそこないます。その様な場合は、何か退屈なものや、平均的な所に落ち着きます。群衆の危険の一つは暴力で、暴徒に化した場合です。もう一つは、委員会方式で何かを設計した場合の退屈さ、あるいは凡庸さです。”

ラニアーは言う。人類には、他の多くの種と同様に、人を自立した個人にしたり、暴徒の一員にしたりする、認知上のスイッチがあるのだ。たとえバーチャルの部族であれ、ラニアーが族と呼ぶものに、いったん縛られると、人間の中の最も低劣な本能に訴える力学に取りつかれてしまう。技術は進化するが、人間の本性というのは、変わらぬままなのだ。効率的な国家官僚制と、工業的な虐殺という新たに作り出された道具を、人類の曙以来、存在してきた暗い衝動とを、人類が結びつけてしまったがゆえに、二十世紀は、人類の歴史において、最も残忍なものになったのだ。

こうしたバーチャル部族について、“人は、上下関係と、社会的地位に対する感覚が、過敏になるのです”とラニアーは語る。“ほとんど常に、集団の中には、負け組と称される人々が、外部には、敵と称される人々がいます。自分より下と、遥かかなたに、敵がいるのです。権利を奪われた人々の、二つの階級ができあがります。人は、絶えず脅かされている自分の地位を、常に防御せざるを得なくなるのです。こうしたものの一つのメンバーになるには、多大な時間を必要とします。オン・ラインには、これをもたらすための、たくらみが至る所にあります。ピアノであれ、プードルであれ、はたまたジハードであれ、誰にでもすぐにわかるような序列があります。人々がこうした部族を形成しつつあるのが分かります。これは火遊びです。人類の歴史には、一人で行動した切り裂きジャックの様に、こうした効果と無関係な悪行の例も山ほどあります。しかし歴史上、本当に悪い人間行為の大半は、この部族力学をかき立てることを伴っています。これに影響されずにいられる人間などいるわけがありません。ドイツ人や、ロシア人や、日本人や、モンゴル人が影響されたのと同様に、コンピューター・オタクたちとて、影響されずにはいられません。それは、我々の本性の一部です。リーダーシップ構造やら政治などが無くても、喚起されうるのです。それは起きてしまうものです。それは私たちの一部です。私たちの体の中には、オンにされるのを待っているスイッチがあるのです。人は、他の人々のスイッチを操作する方法を、学んでしまえるものなのです。”

E.M.フォースターが1909年に刊行した物語“機械が止まる”は、人々がバーチャル・リアリティに魅了されている未来世界を描いている。フォスターの暗黒郷では、人類は蜜蜂の巣箱のような、孤立した、狭い、地下の小部屋でくらしており、彼等はそこでインスタント・メッセージと視覚映像を投影する装置、テレビ電話のとりこになっている。人々は外部世界から自らを切り離し、いくつかボタンを押すだけでひき起こせる、声や音の異様な疑似現実、束の間の画像や抽象的な興奮に夢中になっている。全知の人間味のない声によって、現実世界がバーチャル世界に置き換えられ、機械による世界へのアクセスが提供されている。

フォースターが理解していた通り、燃焼機関から、コンピューター、更にはロボットに至るまでの技術に、我々は魅了され、とりこになってしまうことが多い。こうした人類の創造力による驚異の代物、我々の活気を削ぎ、アイデンティティーを混乱させ、受け身にさせたままにすべく、最新技術を利用しようとする現代の奴隷所有者たちによって、必然的に乗っ取られてしまう。核攻撃後に、通信をするための防衛戦略として設計されたインターネットは、連中の手中の最新道具と化し、今や我々を新封建主義環境に追い込んでいる。技術は、道徳上からすれば、中立的なものだ。技術は、それを支配する人々の権益に奉仕するものなのだ。そして現在それを支配している連中は、ジャーナリズムや文化や芸術を強奪し、不寛容と憎悪をあおる部族へと国民を囲い込む。

“当時、デジタル文化世界が始まったばかりの頃に、よく行われた説明は、私たちは創造的な嵐の前の、一時的な凪にはいりつつある、あるいは既に台風の目の中にいるのかも、というものだった”ラニアーは著書の中で書いている。“しかし、私たちは一時的な無風状態を通過したわけではない。私たちは、むしろ持続性の傾眠に入ってしまっており、蜜蜂の巣箱を潰した時に、初めてそこから逃れられるのだと、考えるようになった。”

記事原文のurl:www.truthdig.com/report/item/the_information_super-sewer_20100214/

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『「みんなの意見」は案外正しい』は、2009/11、角川文庫刊。冒頭の雄牛の体重を推定する懸賞の話は「まえがき」に、ジェリービーンズを数える話は、第一章に、ある。
『機械が止まる』の翻訳は、E.M.フォースター著作集、第5巻 短編集I(みすず書房刊)に収録されている。
何とも暗澹とした短編だが、決して荒唐無稽と思えない。
“You Are Not a Gadget(あなたは道具ではない)”、翻訳されるのだろうか?

ひとさまの素晴らしい著作を、英語から勝手にまずい日本語に変え、こうしてBlogに載せるのも「大多数の寄生虫」の一匹による愚かな行動かも知れない。

去年のイラン選挙後に使われたTwitter革命という言葉も思い出す。

有名オンライン掲示板や政治ブログ類の現象、不思議に思っていた。
例えば、与党・幹事長への熱狂的支持。そういう宗派に属さない者からすれば、論理的と思える反論が書き込まれると、反論ならぬ、罵詈雑言を投げつけるだけにしか見えない。従ってほとんど覗かない。そうした皆様も、口を揃えて、マスコミや宗主国の批判もしておられる。その一方では、美人議員やらハンサム議員、そして「あんたたちの党」。大金持ち「坊ちゃん」やら、超エリート賛歌。どうして人は全く無関係な人々にあこがれるのだろう。
この文章を読んで、多少は納得。

インターネット前の世界では、匿名であっても、特定企業が運営する掲示板に書き込む方式だったので、「暴徒化」にある程度の歯止めはあったように思えた。PC-VAN, Biglobe、そしてNifty-Serve。もちろん、炎上現象、皆無ではなかったが、世界中から送られるスパム・メールや無意味なトラック・バックは存在しない世界だった。

『「みんなの意見」は案外正しい』のまえがきでも『群衆心理』について触れられている。ギュスターヴ・ル・ボンによるそのままの書名の古典だ。講談社学術文庫。「古典」とはいえ、大変残念なことに、その内容、今でもほとんど通じそうだ。少数派からみると『「みんなの意見」...』より、『群衆心理』の方が、実体を反映しているように思える。

e-mail, Web, Blog, Youtube, SNS, Twitter、次々登場する新技術の宣伝本を書いて暮らす人々、こうした意見、決して書いてくれない。現代版チンドン屋さん業。
子供の頃は、チンドン屋さんが面白くて、後について行きたい誘惑にかられた。
年と共にひねくれ、新技術への礼賛、眉唾に感じるようになってしまった。
つい最近、年下の人々から、mixiに誘われたが、のらりくらり逃げた。

「昔は新製品開発にも関与してたのに勝手な奴」と誘って下さった方は思われたろう。
「そういうものだ。」So it goes.

新製品開発、委員会方式では決して実現しなかったはずと今も思っている。

追記:2010/12/18

ジャロン・ラニアーの『人間はガジェットではない』、ハヤカワ新書から刊行。1500円

2010年3月19日 (金)

テロという謎

Philip Giraldi

2010年1月20日
"Antiwar"

9/11の影響が残る中、アメリカ政府がすることなら、ほとんど何でも、国民は受け入れた。議会やマスコミからの不満のつぶやきもほとんどなしに、アメリカ人が200年以上享受してきた自由を、制限する愛国者法が、速やかに可決された。ジョージ・W・ブッシュは、自分の安全保障原理は、ホワイト・ハウスが脅威と認識する、いかなる国家に対しても、どこであれ、いつであれ、アメリカ合州国が、先制攻撃をする権利であると規定して、世界に、宣戦布告した。ブッシュは、彼の政権は、彼がテロリストだと定義するものが見つかった所どこへでも、軍事力や諜報機関を用いて介入すると宣言して、グローバル対テロ戦争も布告した。アメリカ人に、国民を、より安全にするために、政府が何かをするのだからと、安心させながら、同時に、国民から、多くの基本的な権利を奪い、戦争行為が、これまで最も重大な犯罪としてとがめられていた国際秩序を逆さまにする悪魔の取引だ。

そもそものはじめから、議会や主要マスコミにすら、落ち着くように呼びかける声があったにも関わらず、彼等は復讐を強く求める連中に圧倒されてしまった。間もなく、復讐は、破滅的なイラク侵略へと至る、多数の無分別な政策へと変身した。2010年の視点から、あの頃を思い返せば 当時国民を突き動かしてていたものは、恐怖であったことがわかるだろう。恐怖こそが、アメリカが、間違った暗黒の道へとを進むことを可能にしたのだが、その恐怖自身が、政府内部にいる連中によって定期的にひき起こされる、テロという姿のない脅威によって、あおられていた。

不幸にして、9/11以来、ほとんど何も変わっておらず、バラク・オバマのアメリカで、目を閉じれば、今は2001年で、ジョージ・ブッシュが依然として大統領だと想像するのも容易だろう。アメリカ兵士達は、イラクで身を潜め、アフガニスタンには増派され、イエメンやソマリアのような場所への介入準備が整っている。今のほうが、ジョージ・W・ブッシュ政権下でよりも、一層頻繁に、パイロットが乗っていない無人飛行機から発射されるヘルファイア・ミサイルが、パキスタンの部族民たちの上に、雨霰と降り注がれている。グアンタナモ刑務所は依然として運営されており、バグラム刑務所は、新たなアブグレイブとなることが約束されている。しかも依然、全ての過程を推進するため、恐怖が利用されている。アメリカ人に対し、継続するグローバル・テロの脅威を警告する、ホワイト・ハウスの、いかめしい言葉で。

多くのアメリカ人は、実際そうであった通り標語作りだ、バンパー・ステッカーによる安全保障政策だ、と認識して、ジョージ・ブッシュのグローバル対テロ戦争には、はなから懐疑的だった。テロというのは国家でもなければ、集団でもない。テロというのは戦術なのだ。テロというものは、人類がお互い殴りあう為に、最初に石を拾い上げて以来、存在してきたものだが、現代的なものとしては、1940年代、パレスチナで、ハガナやスターンのような集団が、イギリスを追い出すため、キング・デビッド・ホテル等の民間標的を攻撃するのに使って発達した。次に、イスラエルという発生期の国家が、パレスチナ・アラブ人に対し、自宅から強制的に退去させる為、これを用いた。テロというのは、現地住民の志気を挫き、抵抗する力を弱めるため、民間標的を攻撃することだ。

従って、テロリストというのは、テロを行使する「誰か」でなければなるまい。まあ、ある種の定義ではそうだが、実際はそうではなく、テロリストという言葉は、究極的には、対テロ啓発にすぎない。テロを行使する集団は、ほぼ確実に、より広範な政治課題を支持する為に、戦術を駆使している政治組織である、と見なす方が遥かに有用だ。この真実を認識すれば、政治の風向きさえ変われば、今日のテロリストが、明日は政治家になりかねない、という言い古された言葉となる。ヒズボラの様に、現在、あるいは、かつて、世界から“テロリスト”と、見なされていた集団の、幾つかの例を見るのが有益なことがある。イスラエルによる南部レバノン占領に抵抗したがゆえに、ヒズボラは人目を引くようになった。確かに彼等は、北部の入植地にいるイスラエル民間人を攻撃するのに、テロ戦術を用いたが、主要な狙いは、イスラエルの占領者たちを追い出すことにあった。彼等は、2006年に、最終的には、テロでなく、通常の軍事戦術を用いて、そうしたが、一方で、彼等が支配している地域の貧しい人々の多くに、物品や奉仕を提供して、評判を磨き上げた。ヒズボラは、レバノン政府のパートナーとなり、ほとんど普通の政党へと変身した。二国間の国境沿いで、依然イスラエルと小競り合いをしてはいるが、それ以外の国々、より具体的には、アメリカ合州国を、脅かす能力はゼロだ。

そして、ベトナムにはベトコンがいた。彼らはテロを用いただろうか? 確かに。しかし、彼等、地方の大部分で政治的支配を確立する為と、ベトナムの都市で恐怖を広めるために、そうしたのだ。自分たちが十分に強い立場になったと感じるや、彼等は、アメリカ軍や南ベトナム軍との本格的戦闘も行った。また、彼等は何といっても、政治的目標、つまり、アメリカ傀儡のベトナム政府に取って代わろうという狙いを持った政治集団だった。ベトコンが、テロ戦術を使うことが出来る能力によって、アメリカ合州国を脅かしたことがあっただろうか? 全くそんなことはない。

最後がタリバンだ。タリバンは、アメリカ政府によって、テロ集団と見なされており、 実際に、アフガニスタンのあちこちで支配を確立するために、民間人を殺害している。しかし、彼等は通常のやり方でも、アメリカやNATOの軍隊と戦い、軍閥を打倒し、腐敗した政府幹部を根絶し、アフガニスタン国民に対して、イスラム教のシャリア法の下で、平等な公正を約束していた。多くの地域で、タリバンは、ハミド・カルザイ大統領の政府よりも人気が高い。かつて、タリバンが、アフガニスタンを支配していた当時、タリバンは厳格な宗教規則を導入したが、麻薬生産や、軍閥支配の根絶もしていた。従って、タリバンをテロリスト集団と呼び、信奉者たちを投獄するか、殺害する以外には、応対する意志はないと表明すると、大事なことを失うことになる。集団は本質的に政治的で、必要と考える時に、テロを戦術として利用するだけの、将来の与党だと、自らは考えている。

テロを使用する政敵に対応するのを拒否する点で、アメリカ政府は、基本的にイスラエルの模範を採用してきた。イスラエルが、タリバンのような集団をテロリストとして棄却してしまうのは、イスラエルの本当の利益という観点から、彼等と交流する機会が失われてしまうことを意味する。しかも、それは、かかわっている集団が、正当な怒りや、前向きな動機を持っている可能性を考えることを不必要にしてくれる、便利な政治的表現にもなる。更にそれは、不都合と思えるような結論を避ける方向に、論議全体を向けてしまう。“彼等”とは、アメリカ本土でよりも、現地で戦う方が良いから、アメリカは、アフガニスタンで戦っているのだということが良く言われている。これほど真実とほど遠い話はない。タリバンは、アメリカがアフガニスタンを占領しているということを除いて、アメリカ合州国になど、全く何の興味も持っていない。ロン・ポールが、まさしく言っている通り、テロ事件があった場合、連中がこちらにいるのは、我々があちらにいるからに過ぎない。アメリカが、“そこ”から撤退すれば“連中”は、理由が皆無なのだから、はるばるアメリカ本土にやって来たりなどはしない。

したがって問題は、我々が使う言葉が、ある問題に対する考え方を形成してしまうということだ。恐怖と不安を生み出す為の、テロやら、テロリストといった決まり文句から、いったん解放されてしまえば、全く違う現実を把握することが可能になる。ホワイト・ハウスや国務省が、テロリストと呼んでいる集団は、実際は、自分たちが政権を掌握するのに有利となるような変化を求めている政治団体なのだ。常にそうした集団は存在してきたし、今後も常に存在するだろう。大半は、アメリカ軍に、国から撤退して欲しいと考えており、多くの人々は、ワシントンには、腐敗した専制的なアラブ諸国の政府への支援を止めて欲しいと望んでおり、また、ほぼ全員が、アメリカお墨付きの、イスラエルによる、パレスチナ人いじめを止めて欲しいと望んでいる。そうした観点から、彼らをみれば、アメリカ合州国に反対する、彼らの動機を理解するのも困難なことではない。また、様々な集団を、ありもしない世界的規模の陰謀の一環としてではなく、選択的に対処すべき個別事例として見ることも、可能だろう。

真相は、アメリカ政府が、マニ教的善悪二元論で単純に規定できる敵を持つことを好んでいるのだ。政府は、テロ集団を、ある種の一枚岩であるかのごとく描き出し、アメリカ人の中に恐怖を作り出すことを狙っているが、実際は、様々な動機や狙いを持った多様な政治的集団の寄せ集めに過ぎない。唯一彼等に共通していることと言えば、連中は時にテロを戦術として利用するという点だけだ。またテロ戦術そのものが魅力を失っている。テロを信奉する集団が増えているかに見える、ただ一つの理由は、アメリカが占領したり、攻撃したりしている国の数が増えているからに他ならないのだが、それでも人数はわずかなものだ。テロを用いる集団の信奉者が、世界中では、確実に、二、三千人未満はいるだろう。若いイスラム教徒の男性達は、次第に争いに引きずりこまれるのを嫌がるようになり、宗教上の義務である聖戦の魅惑も弱まった兆しがある。そして、最高の幸運があってさえ、ほとんど成功の見込みなどないような策謀である、ナイジェリアの下着爆弾犯事例のように、テロを行使する連中自身が、益々取るに足らない素人のようになりつつある。もしも、保安対策や情報交換の上でミスがなかったなら、ウマール・ファルーク・アブドゥルムタラブは、アムステルダムで飛行機に搭乗する前に、拘留されていただろう。

アメリカ人は、もはやほとんど空虚な脅しに過ぎないテロや恐怖について語るべきではないのだ。人は、テロ攻撃で殺されるより、サメに喰われる可能性の方がずっと高い。テロと戦うことによって、アメリカ政府が恐怖を維持できるという有効性が、絶え間のない戦争を、大きな政府を生み出すのを、保証し、アメリカの為政者たちに、現実を把握不能にしてしまう。世界には、権力を求めて張り合う数多くの集団が存在している。テロを積極的に行使することを含め、どのように支配を実現するかについて無節操な連中もいる。しかし大半の場合、アメリカ合州国が彼等をほっておく限り、ワシントンへの関心を無くせよう。連中をほっておくことこそが、アメリカ合州国が採用可能な最善の外交・安全保障政策であっても、おかしくはなかろう。

記事原文のurl:original.antiwar.com/giraldi/2010/01/20/the-terrorism-conundrum/

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翻訳が後先になったが、「元祖ならず者国家」の筆者と同一人物。

クリスマスの日の下着爆弾テロに関連する話題ゆえ、二ヶ月前に、翻訳するべき記事だった。恐縮ながら「無料ブログ」の限界。仙人ならぬ、なまぐさ中高年フリーター、霞を食べるだけで、生きる力はない。

知人が亡くなった。数ヶ月前飲んだ時「いじめが理由ではないが、それもあって退職した」と言っていた。人は霞を食べるだけでは生きられない。

2010年3月17日 (水)

元祖ならず者国家

Philip Giraldi

2010年3月11日

Antiwar.com

アメリカ合州国は、世界中のいかなる場所においても、アメリカに戦場で敵対できるような敵になど直面していないという事実にもかかわらず、2011年国防予算は、現行よりも7.1パーセント増える。新規支出の多くは、地上の広い地域を監視し、空から死をもたらすことができる、西洋文明に対するアメリカ最新の貢献、無人飛行機向けとなる予定だ。これは、地球の裏側にある机の前に座った"パイロット" がボタンを押せば、はるか下方の標的を殺害できるという、アメリカ独自の戦争構想だ。衛生的で、機械的で、事後の面倒な後片付けも不要で、いささかテレビゲームに似ている。最近発表されたアメリカ合州国の4年毎の国防政策見直しは、長時間にわたり滞空可能で、世界のどこでも、いつでも攻撃可能で、アメリカの敵を殺害できる新世代のスーパー無人飛行機を、ペンタゴンがどのようにして開発する予定かを報じている。スーパー無人飛行機の中には、超音速で飛行できるものや、核兵器を搭載するのに十分な大きさのものが含まれている。新型無人飛行機のあるものは、海軍用に設計される予定で、これは航空母艦から離陸でき、アメリカの威力を、更に遠方の紛争地域にも及ぼせる。こうした飛行物体は、無人で、地上近い低空で飛行可能なので、必ずしも外交上の事件を生じることなしに、"うっかり" 他国領空を侵犯することが可能な為、無人飛行機は特に政策立案者たちにより高く評価されている。

ワシントンが、国際的暗殺用に好んで使う兵器武器として、無人飛行機を採用していることが、アメリカ合州国が、悪の帝国となってしまった主要な理由の一つだ。無人飛行機は、かつてブッシュ・ドクトリンと呼ばれたものを延長した拳骨に他ならない。ブッシュ・ドクトリンの下、ワシントンは、もしホワイト・ハウスが、そのような行為が、アメリカ合州国の防衛と見なされると決定すれば、いつでも、世界の誰に対しても、その軍事力を、先制的に行使する権利を有すると主張していた。ディック・チェイニー副大統領は、政策をパーセント表記で定義し、世界のどこにおける、いかなる出来事であっても、もしもアメリカを危機にさらす可能性が1%あれば、アメリカ合州国政府は行動する義務があると主張した。バラク・オバマ大統領は、ブッシュ・ドクトリンも、ディック・チェイニーの1%対策も否定してはおらず、実際アメリカは、キリスト教が承認した"正しい戦争"を戦っているのだとまで主張するに至っていることに留意が必要だ。この"正しい戦争"には、数ある中でも教皇ベネディクト16世が異議を唱えている。戦争と殺害を慎むなどとはほど遠く、無人飛行機攻撃の回数と激しさは、オバマの下で増加し、"巻き添え被害"という、素晴らしい、情のない婉曲表現で呼ばれるもので、民間人死傷者数も増えた。

無人飛行機は、現在、アフガニスタン、パキスタン、イエメンと、ソマリアの人々を殺害している。アメリカ合州国は、こうした国々のどことも、戦争をしているわけではないことに留意が必要であり、正気の世界では、国際法、アメリカ憲法いずれの下でも、殺害は違法なのだ。アメリカが武力に訴えることを困難にすべく、アメリカの建国の始祖たちは、議会による戦争行為宣言を必要とするという、憲法上の制限を作った。不幸にして、ことはそのようには運ばなかった。アメリカは、第二次世界大戦以来、ほとんど絶え間なく戦争を続けているが、最近、議会が戦争を宣言したのは、1941年12月8日のことだ。そこで、世界に広がる、特殊な秘密作戦というわけだ。イスラエルは別として、あちこち動き回って人々を殺害するという政策を、あからさまに宣言している国は世界中に存在しない。結果的に、国際社会は、テルアビブもワシントンも社会ののけものだと見なすだろうと、誰もが考えるが、世界唯一の超大国と、その一番の属国を怒らせる恐怖から、批判はほとんど抑えられたままだ。大半の国家は、暗殺チームと、ヘルファイア・ミサイルを装備した無人飛行機が好きなように活動するのに、甘んじている。もしも、イランが無人飛行機を操作して、ドバイのような場所で、敵を殺害していたなら、反応は全く違っていただろうことは確実だ。

しかも話はそこでは終わらない。オバマの司法長官エリック・ホルダーは、アメリカの政府職員(その多くはCIA)による拷問の利用に関わる、あらゆる調査を、事実上阻止した。政権は、そうした行為は止めたと主張してはいるが、捕虜を水攻めにしろという命令に服従したことに対しては、誰も処罰されないと言明しており、これは1946年のニュルンベルク裁判では受け入れられなかったし、現在もなお受け入れられるべきでない主張だ。アメリカ合州国は、拷問に関する国際的合意の調印国であり、連邦と州の両方に、拷問行為を実行することも、拷問を、黙認ないし放置することも禁ずる法律が存在しており、従って、ホルダーの裁定は、本質的に、多くの場合、無力かつ全く無辜の個々人に対して犯された重罪を、不問に付するという決定なのだ。裁定は、拷問に、司法省の弁護士とCIAの医師が関与していた事実、大半が道義に反し、倫理にもとると見なされる関与も、不問に付している。最悪なのは、ジョージ・テネットや、そうした行為を承認したホワイト・ハウスの連中のような、本当の戦犯たちを見逃してしまっていることだ。テネットが大統領自由勲章を受賞し、400万ドルの出版契約をしたことを覚えておられよう。彼はいまでもジョージタウン大学で教えている。拷問是認の法的主張をした元司法長官補佐、ジョン・ヨーとジェイ・バイビーは、現在それぞれ、カリフォルニア大学バークレー校の終身地位保証を得た法律学教授と、連邦控訴院判事を務めている。CIAの拷問者の本人連中が連邦政府に雇われ続けていたり、快適な隠居生活を楽しんでいるであろうことは、想像にかたくない。オバマ大統領下での戦争犯罪の説明責任については、これくらいにしておこう。

最後に暗殺の問題がある。2月3日、国家情報長官デニス・ブレアは、議会での説明に際し、アメリカ合州国は、テロリストと見なされている集団に積極的に"関与している" 在外アメリカ国民を、殺害する権利を留保する、と発言した。関与というのは、もちろん、きわめてつかみどころのない表現で、即決の処刑に賛成を唱えている連中に、最大の自由裁量を与えるものだ。暗殺対象者リスト作成は、誰をリストに載せるかは、ガイドラインに基づいて、政府職員が決めるのだから、ある種の適正手続きによっているごとくなのだが、被疑者には、異議申し立てや、証拠に異議を唱えることが認められていない。議会の誰一人として、ブレア発言に反対せず、しかもマスコミも、この話をほとんど報じておらず、違法で不道徳な行為の認容が、今や体制中に浸透していることを示唆する点も、留意が必要だ。レーガンの元司法副長官、ブルース・フェインが言っている通り、ある人物の憲法上の権利を、海外で一時停止する権限とされるものは、その人物が軍事委員会法条項の下で、敵性戦闘員である、と宣言することで、アメリカ合州国在住の誰にでも拡張することが可能なのだ。ホセ・パディーヤは、アメリカ国民であり、海外でなく、シカゴで逮捕されたにもかかわらず、公正な裁判を受ける憲法上の権利を拒否された。対テロ戦争の一環として、アメリカに暮らすアメリカ国民の裁判なしの殺人を、我々は予期することができるだろうか? もちろん、ウィー・キャン。

オバマ大統領、三振したらアウトですよ。あなたの政府は、アメリカと戦争中ではない国々に暮らす人々を先制殺害し、ミサイル攻撃することに賛成し、拷問者や、拷問を黙認ないし放置した連中を野放しにし、しかも、世界のどこででも、秘密の証拠に基づいて、自国民を暗殺する権利を強く主張している。ロナルド・レーガンは、かつて、彼のアメリカ像を、「丘の上の輝ける都市」と表現した。過去十年間の間に、この輝ける都市は、はっきりと見える衰亡の兆しがあり、否応なしに壊滅的崩壊に向かって進みつつあるにもかかわらず、権力と傲慢さに夢中な、究極のならずもの国家となってしまったのだ。

Philip Giraldiは元CIA職員で、The American Conservativeの寄稿編集者であり、American Conservative Defense Allianceの特別研究員である。

記事原文のurl:original.antiwar.com/giraldi/2010/03/10/the-rogue-nation/

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無人飛行機攻撃については、何編か翻訳してある。例えば下記。

ラスベガスでタリバン狩り 無人機による空爆

名護市辺野古で、女性海軍兵士の酔っぱらい運転で?軍用車ハンビーが民間人に追突した。海軍兵士は、日本の警察ではなく、米憲兵隊に逮捕された。

アメリカ軍基地、基地がおかれている国の、傀儡為政者のためにはなっても、一般民間人のためには、なっていない一例だ。そして、憲法9条を破壊するよりも、まず、安保条約を見直すことが必要であることの一例だろう。

主力野党のつまらない分裂騒ぎやら、宗教政党との連立見込みの報道など聞きたくはない。話題になっている人物、政党、誰一人として、こうした安保・基地問題には、触れない。歌舞伎の七変化と同じで、衣装や、役は変っても、演じているのは同じ役者。

古びた芝居の世界を、自分たちで、勝手に盛り上げているだけのこと。敵に塩を送るだけだろう。つまりは、敵ではなく、二大政党制度なるものをもりたてようとしている、同じ派閥仲間なのだ。

意味ない村芝居に、つきあう暇はない。威勢よく、9条破壊だけは言う。ならず者国家の走狗として。そう、消費税の増税も。しかし、裕福な人々への増税は決して触れない。こうした人々、もしも、問題点がわかっていないのであれば、IQに問題があるだろう。もしも、問題点がわかっていて、全く触れないのであれば、人格に問題があるだろ。いずれにしても、まともな人々とは思えない。

ブログ晴耕雨読に、「続:アメリカはいかにして日本を滅ぼしたかという、ある本を引用した記事がある。 一読すれば、こうした皆様、なぜ、本質的な論議をしないのか、理由が少しは分かるかも。不思議なことに、引用されている本、絶版らしい。書かれていることが、デマであれば、書かれた皆様、名誉毀損で訴えているはずだ。

2010/3/18追記:

検索エンジンで、ならずもの国家を調べ、下記の本があるのに、恥ずかしながら、今頃気がついた。

『ならずもの国家アメリカ』クライド・プレストウィッツ
日本語訳は、2003年に刊行されている。
宗主国のオンライン書店でも原書の評価は、平均星4つ。心の広い方々は多いようだ。これから、日本語版を探して、読んでみよう。

2010年3月12日 (金)

番外編・普天間問題のボタンのかけ違いはここから始まった・もう沖縄は騙されない

73分の素晴らしいインタビュー、なんと無料で見られる。驚いた。
無料で素晴らしいものなど、あるはずはないと思っていた。
昨日、NHKで、「無料」サービスについての番組を見たばかり。あのFreeなる本の著者が、延々出ていた。

それはさておき、これこそ褒賞に値する稀な報道番組。(もちろん通常の放送は有料だ。)

マル激トーク・オン・ディマンド 第465回(2010年03月11日)
マル激スペシャルウィークin沖縄
普天間問題のボタンのかけ違いはここから始まった
ゲスト:大田昌秀氏(元沖縄県知事)

「基地問題」について、目からうろこの体験ができる。
大田昌秀氏、翻訳記事『オバマ対鳩山: 不平等で、違憲で、違法で、植民地的で、虚偽的な米日協定の素性』の筆者、ガバン・マコーマック氏の名著『属国』についても、当然ふれておられる。大田氏の主張を完全に無視する、本土マスコミの実態も、当然言っておられる。

鳩山首相が「5月」までに決める、といっている謎、これでわかるような気がした。
出来レース?「基地は、グアムに行く!」という話が、宗主国の民主党政権と、属国の民主党政権の間で、できているのではないだろうか?

選挙直前に、民主党の快挙、基地問題を見事、サプライズで、グアムに移転させて、解決する、というシナリオなのではと思えてきた。

その結論、決して、首相やら民主党が汗をかいたことによる解決などではなく、始めからアメリカの都合で、決まっている台本。
それを、あたかも、「民主党・鳩山首相が、素晴らしい実績をあげた」ことにする日米支配層による八百長芝居を、今見せられているのではなかろうか?
わかっていて、自民党や国民新党、時間稼ぎに、面白くして衆目を集めるために、とんでもない対案を出しているのではなかろうか?
もしも、八百長でなく、実態をわかっておらず、大田昌秀氏や宜野湾市が調査した事実を知らないのであれば、単なる税金泥棒。政党助成金は全額、直ちに返還・廃止すべきだ。

ともあれ、大岡越前、水戸黄門ばりの見事な解決のおかげで、参議院選挙、民主党が圧勝、以後、日本は、民主党ファシズムによる永久属国となる、という悲しい姿が目に浮かぶ。

新聞を読む時間とテレビを読む時間を一日分、この放送に割かれては?選挙権を持つ日本人に必見の放送と思える。

最近、下記の本を見つけ、驚いて、購入したところだった。

米軍のグアム統合計画
沖縄の海兵隊はグアムへ行く
吉田健正著
高文研刊
2010年2月20日
ISBN978-4-87498-436-9
1200円

Kichiwaguamhe

宜野湾市が、これについての調査結果を公表していることは知っていた(「普天間基地のグァム移転の可能性について」_平成21年11月26日)が、ネットで長文を読むのはつらいので、真面目に読んではいなかった。そこにこの本。(高文研 の本、何冊かお世話になっている。例えば下記。)
『観光コースでない沖縄』
『「従属」から「自立」へ日米安保を考える」』
『岩国から吹いた風』
『新装版・観光コースでない韓国』
(この本のおかげで、興味深い韓国観光ができた。)

なお、同シリーズの放送、下記も大変にお勧めの素晴らしい番組。こちらも必見。

2010年03月 09日
もう沖縄は騙されない  普天間移設問題の真相
真喜志好一氏(建築家)

海兵隊が抑止力などというのは真っ赤な嘘、というのがよく分かる。
決して「グアム島へ」などとはおっしゃられない。チャモロ先住民の声をしっかりと把握しておられる。

これを見ながら、茨城空港、軍隊へのプレゼント、軍事設備増強だという確信が深まった。「大変な赤字で、民間空港としては、とうてい成立しない」ことが数年のうちにはっきりとわかる。そこで「軍隊に寄付し、運用をまかせる」のだろう。そもそもの始めから、軍隊に寄付することを考えて仕組まれた戦争投資政策。あの空港、経営が成立しないことなど、作る前から、中学生でもわかるだろう。

そもそも、沖縄の基地、もしも本当に必要なら(必要なはずなど全くなかろうが)、安保支持なら、真喜志氏がおっしゃるとおり、本土で引き受け、本土に(羽田でも茨城空港でも良い)移動すべきなのだ。

真喜志好一氏のブログは、こちら

ところで、密約が存在したことがわかった今、西山太吉氏の名誉回復はどうなるのだろう?足利事件の、菅家利和氏の冤罪、実に、大々的に報道されている。
菅家利和氏の場合、一般市民に、国家が犯罪をなすりつけた事例。
西山太吉氏の場合、敏腕ジャーナリストが、職業上の倫理から、素晴らしい仕事をされたのに、国家が自分の悪を隠すため、犯罪をなすりつけた事例。
菅家利和氏の場合より、一層、悪質・意図的な国家犯罪だ。
もちろん、マスコミ報道、腰がひけている。というより、意図的に、隠しているのだろう。「安保・密約」についての連載洗脳記事、読むきになれない。
大本営方針の大きな誤りの見本事例、報道したくはないだろう。仮に、したくとも、決して許可などされるまい。

国家の大問題を報道するという、常識的に言えば、英雄的行動をおこなった西山太吉氏が、罪に問われ、会社を追われる。

西山太吉氏を、罪に落としいれた、東京地検特捜部の悪徳検事、佐藤道夫という人物、民主党議員になった。生前、悪知恵を駆使して、西山太吉氏を陥れたことを自慢にしていた。「情を通じて」という言葉を考えだしたのは自分だ。というような記事を見た記憶がある。これについては、『沖縄密約事件 西山太吉の妻 37年目の初告白― 諸永裕司』をお読みいただきたい。
また西山太吉氏が得た情報を使って、国会質問をした横路孝弘議員、今や衆議院議長。

英雄が犯罪人。英雄をおとしめた卑劣な人物が民主党議員、英雄が得た情報を利用した人物、ついに衆議院議長。敵・味方、呉越同舟できる不思議な政党が民主党だ。

この国、つくづく腐った属国。『アリスの不思議な国』以上に、日本の現実はあべこべだ。元俳優のレーガンが、宗主国大統領になった時に思ったものだ。「議会というのは名ばかり、実態は歌舞伎のようなものだ」と。この国でも、スポーツ選手や、タレントが多数選出されている。パンとサーカスのローマ以来、庶民は何より芝居が好きなのだ。アカデミー賞のみならず、国会もペテンか?

西山太吉氏、本来ならば、文化勲章だか国民栄誉賞ものだろう。

しかし「勲章」なるもの、芥川龍之介「侏儒の言葉」にこうある。

この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

佐藤首相、オバマ大統領などのノーベル平和賞、あるいは「日本は不沈空母」といったり、国鉄(労組)を破壊したりの?中曽根康弘迷宰相の「国民栄誉賞」をみれば、国家や国際機関の与える賞、極悪人を証明する御印籠にしか見えない、などというのは、蒙昧な庶民のひがみに違いない。

2010年3月 9日 (火)

なぜアカデミー賞はペテンなのか

John Pilger

2010年2月10日
"Information Clearing House"

一体なぜ、これほど多くの映画が実にろくでもないのだろう? 今年のアカデミー賞候補作品、プロパガンダ、紋切り型と、全くの不誠実のパレードだ。主要テーマは、ハリウッド並みに古びている。よその社会に侵略し、他国の人々の歴史を盗みとり、我々の記憶を占領するという、アメリカが神から授かった権利だ。一体いつになったら、監督や脚本家たちは、「支配と破壊に専心する世界観」のポン引きを辞め、芸術家として振る舞うのだろう?

私はフロンティア時代の西部劇映画という神話で育った。西部劇、見ている本人が、たまたまアメリカ先住民ではないかぎりは、実に無害なものだった。公式はそのままかわらない。自愛によるわい曲で、フィリピンから、イラクに至るまでの虐殺の、隠れみのとして、アメリカの植民地侵略者の気高さを描き出すのだ。戦争報道記者として、ベトナムに派遣されてから、ようやく私はペテンの力を完全に理解した。ベトナム人は“グーク(東洋人)”で“インディアン”であり、連中を工業的に殺害することは、ジョン・ウエインの映画によって運命づけられており、理想化するか、名誉回復すべく、ハリウッドに送り返されるのだ。

私は故意に「殺害」という言葉を用いたが、それはハリウッドが見事に果たしている役割が、アメリカの攻撃にまつわる真実を抑圧することだからだ。こうしたものは、戦争などではなく、銃砲依存症・殺人狂“文化”の輸出だ。英雄とされているものは変質者なのだという考え方が薄らいでしまえば、大虐殺は、不安なサウンドトラックつきの“アメリカの悲劇”となる。

キャスリン・ビグローの『ハート・ロッカー』は、この伝統上にある。複数のアカデミー賞の本命候補である彼女の映画は“イラク戦争に関して、これまで見た、どのドキュメンタリよりも優れている。余りに現実的で、恐ろしいくらいだ”(ポール・チェインバース、CNN)。ガーディアンのピーター・ブラッドショーは、この映画には“飾り気のない明せきさがあり”“イラクでの、長くつらい終局に関するもの”であり、“あらゆる、まじめな善意の映画以上に、戦争の苦悩と悪と悲劇について語っている”と見ている。

何というたわごと。彼女の映画、100万人の人々の死も、映画的に忘れ去られてしまう他人の国で、暴力に夢中になっている、もう一人の標準仕様の変質者を通して、代償的なスリルを提供するものだろう。彼女が、アカデミー賞を受ける初めての女性監督になる可能性があるということが、ビグローを巡る騒ぎにはある。女性が、典型的に暴力的で、女人禁制の戦争映画を作って称賛されるとは、何たる侮辱。

こうした絶賛、評論家連中が“国家の犯罪を清めることができる映画だ!”と、称賛しまくった『ディア・ハンター』(1978)に対する評価の、焼き直しだ。『ディア・ハンター』、抵抗する人々を、粗野なアカのでくのぼう、としておとしめる一方、300万人以上のベトナム人を殺した連中を賛美していた。2001年、リドリー・スコットの『ブラック・ホーク・ダウン』も、ソマリアにおけるアメリカのもう一つの“崇高な失敗”に対する、同様ながら、より露骨なカタルシスであり、最大10,000人ものソマリア人を虐殺したヒーローたちを美化していた。

これと対照的に、アメリカ製の素晴らしい戦争映画『リダクテッド 真実の価値』の運命は示唆的だ。2007年に、ブライアン・デ・パルマによって作られたこの映画は、アメリカ兵士による、ある十代のイラク人女性の輪姦と、彼女と家族の殺害という実話が元になっている。ヒロイズムも、お清めも皆無だ。イラクにおける人殺しの連続、大規模犯罪における、ハリウッドとマスコミの共犯が、デ・パルマによって、巧みに描き出されている。映画は、殺害されたイラク民間人たちの一連の写真で終わる。“法的な理由から”そうした人々の顔を黒塗りにするよう命じられた際、デ・パルマは言った。“こうした被害者となった人々に、それぞれの顔という尊厳さえ与えてあげられないとは、痛ましいことだと思う。『リダクテッド 真実の価値』(訳注:Reducted=編集済み)の大いなる皮肉は、この映画が編集されてしまったことだ。”アメリカ国内でわずかに上映された後、この素晴らしい映画は、ほとんど消えてしまった。

生死にかかわらず、非アメリカ人(あるいは非西欧人)は、興行成績上、受けないものと見なされているようだ。連中は、せいぜいのところ、“我々”によって救われることが許されている“違う連中”にすぎないのだ。ジェームズ・キャメロンの壮大かつ暴力的なドル箱3-D映画『アバター』では、ナヴィ族と呼ばれる気高い野蛮人達は、彼等を救ってくれる善玉のアメリカ兵ジェィク・サリー軍曹を必要としていた。これによって、連中は“善玉”であることが確認される。当然だ。

アカデミー賞候補作品の中で、私が最悪だと思うのは、クリント・イーストウッドの、南アフリカにおける反アパルトヘイト闘争に対する、やたら愛想の良い侮辱『インビクタス 負けざる者たち』だ。イギリス人ジャーナリスト、ジョン・カーリンによる、ネルソン・マンデラを聖人化したような伝記を元にしたこの映画、アパルトヘイト・プロパガンダ用作品だったとしても、おかしくない。人種差別主義を奨励するに当たり、暴力的なラグビー文化が“虹の国家”の万能薬とされており、マンデラが、嫌われているスプリングボックという、彼等の苦難の象徴であるエンブレムを(それがついたシャツを着て)奉じたことに、多くの黒人南アフリカ国民が、ひどく当惑し、傷つけられた点を、イーストウッドは、ほとんど示していない。彼は白人の暴力は美化し、修正するが、黒人の暴力は美化せず、常に存在する脅威として描いている。ボーア人の人種差別主義者は、“我々本当に知らなかった”のだから、黄金の心をもっていたことにされる。潜在意識に働きかけるテーマは、嫌という程おなじみのものだ。つまり、植民地主義は、法に照らし、善悪を明らかにされるべきものでなく、寛容と和解による対応こそがふさわしい、というものだ。

最初、私は『インビクタス 負けざる者たち』など、まともに受け止められるはずはなかろうと、たかをくくっていたが、映画館中の、アパルトヘイトの恐怖に、全く関係がない若者や他の人々を見回して、こうした調子の良いまがい物が、私たちの記憶や、教訓に対して与える打撃の重さを理解した。イーストウッドが、これに相応する、アメリカのディープサウスにおける『のんきなサンボ』映画を制作することを想像されたい。そんなことを、彼はあえてするまい。

最もアカデミー賞の呼び声が高く、評論家たちが推している映画は、ジョージ・クルーニーが、人を首にするため、アメリカ中を旅して回り、マイレージ・サービスのポイントをためている男として登場する『マイレージ、マイライフ』だ。陳腐さが、感傷的なものへと化す前に、あらゆる紋切り型、とりわけ女性のそれが勢ぞろいする。あばずれあり、聖人あり、いかさま師あり。とはいえ、これこそ“当代の映画だ”と、本当に首にされた人々に演じさせたことを誇りにしている、ジェイソン・ライトマン監督は語っている。“この経済の中で失業するというのは、どういうものか、我々は、彼等に尋ねた”とライトマンは語る。“それから我々は、撮影中に連中を首にし、彼等が職を失った時にした反応をしてくれるように頼んだ。こうした素人による、100パーセント本物のリアリズムを見るのは、とてつもない経験だった。”

ウワォ、何たる受賞者!

www.johnpilger.com

記事原文のurl:http://www.informationclearinghouse.info/article24639.htm

おことわり:
アカデミー賞と訳した部分、原文ではOscarとなっている。
アカデミー賞受賞者が貰うのが黄金のトロフィー、オスカー像Oscar Statuette。
宗主国では、「オスカー」が常用されているようだが、個人的に「アカデミー賞」という固有名詞になじんでいるので、勝手ながら、置き換えさせて頂いた。
---------
世の中では、権力が、見せたくない事実は、覆い隠されるか、ねじ曲げられる。

『ハート・ロッカー』と、あの『ザ・コーヴ』!ドキュメンタリーで、『ザ・コーヴ』に苦杯をなめた作品が、『アメリカで最も危険な男:ダニエル・エルズバーグとペンタゴンペーパーズ』。この素晴らしい作品を落として、『ザ・コーヴ』を推したことで、アカデミー賞もノーベル平和賞なみの「ペテン」だということはすぐわかる。自分の頭の蝿を追え!

映画評論家の佐藤忠男氏の言葉に、たしか「映画は民族の自惚れ鏡」というような表現があった。それもあるだろう。その言葉を目にする前の、高校一年生時代から偏屈な小生、なによりも「映画はプロパガンダ」と思っている。

同じような現象を書いた記事に、下記がある。

人々が目にしてはいけないことになっている戦争写真-Chris Hedgesのコラム

マスコミやエンタテインメント、その資金源、経営方針などについて考えさせられる過去記事の一つに下記がある。お時間あれば、ご一読を。

「国境なき記者団」のまやかし

大変不思議なことに、この「国境なき記者団」のまやかし、旧ブログのエントリー、サーチ・エンジンによって、まったく扱いが違う。

キーワードに、「国境なき記者団」と、入力すると、

  • 検索結果最初のページに、この記事があらわれる検索エンジンあり。
  • 検索結果を何ページたどっても、全くあらわれない検索エンジンあり。

なかなか興味深い結果がでる。これも、お時間があれば、お使いの検索エンジン、そして、お使いでないエンジンでも、お試しあれ。この記事のタイトル、『なぜアカデミー賞はペテンなのか』を検索する文言として、比較してみられるのも面白いだろう。

検索エンジン別アクセス結果、時折確認しているが、後者の検索エンジンから、このブログにおいでになる方は、当然、極めてすくない。検索エンジン村八分という言葉を思い出しても不思議はあるまい。『リダクテッド 真実の価値』のように、意義があるブログだ、などと主張するつもりは皆無だが、検索して、すぐに見つからなければ、結果だけは、『リダクテッド 真実の価値』と同様、このへそ曲がりブログ、ほとんどネットの海に消えてしまったも同じ。被害妄想と、おっしゃられるだろうか?調べてみると、当方のブログ記事がほとんど検索できない「検索排除エンジン」、しっかり、件の会社と業務提携していることがわかる。これも、お試しの上で、「被害妄想」か否かご判断いただきたい。

どなたか、『「検索エンジン」のまやかし』、あるいは『なぜ検索エンジンはペテンなのか』という記事を書かれないだろうか?首を長くしてお待ちしている。

blogの引越し作業に膨大な時間がとられ、なかなか、この記事の翻訳ができず、後出しとなった。

これからブログを始められる皆様は、そのブログが、長期間、安定して運営される可能性が高そうか否かを、十分考慮されることを、強くお勧めする。
良いワープロや、漢字変換ソフトを開発することと、ネットワーク・サービスの運営、全く別物ということは、始めからわかってはいたのだが。
blogの引越し、全く想像していなかった、無駄な、連日の作業。

移転後の、文中リンク確認作業のおかげで、目が痛い。
まあ、これも、与野党大政党の皆様がお好きな新自由主義の合い言葉「自己責任」の一例だろう。

2010年3月 4日 (木)

ウォール・ストリート・ジャーナル、チリ大地震を引き合いにだしてピノチェト称賛

David Walsh

2010年3月2日

ウォール・ストリート・ジャーナルは、月曜日に掲載した“二つの地震の物語”と題する論説記事で、土曜日にチリを襲った大地震の結果を、ハイチで起きた人災の大きさと比較している。

ハイチにおける、死と破壊の遥かに大きな規模に触れてから、同紙はチリにおける、こうした災害に対する、比較的高い水準の備えを称賛し、こう書いている。「しかし、そうした備えも、極貧で、まともな統治もないハイチとは対照的に、裕福な国であればこその、ぜいたくなのだ。チリは最近の十年間、独裁者アウグスト・ピノチェトの下で、1970年代に経験した自由市場改革によって、多大な恩恵を受けてきた。」

こういうものを目にすると一言言いたくなる。「嘘をつくなら、つじつまぐらいあわせろ」

ハイチ国民の生活の、恐ろしいほどの窮状は、何よりも、この小さな島が、一世紀も、アメリカによる直接支配の下にあり、時として何十年も続く軍事占領を味わったためなのだ。アメリカは、1957年から1986年の30年間、憎悪されていた、残虐なデュバリエ親子の政権を支えていた。

最近は、ワシントンと世界中の金融界が、ハイチに“自由市場”政策を押しつけていた。地震によって大量の死者がもたらされることから、チリを救ったのだと、ジャーナル紙が主張する、まさにその政策が、ハイチ国民に対しては、悲惨な結果をもたらした。ハイチの小農は破滅し、ポルトープランスにある、西半球最悪の、ゾッとするスラムへと押し寄せた。それまでに存在していた、さなきだに貧弱なインフラや社会機構は徹底的に壊滅し、1月12日の地震による死者数と破壊とを悪化させた。

チリの歴史的、社会的発展は異なっている。社会構造は、ほとんど変化せず、 国民も独立による恩恵をさほど味わってはいないものの、チリは1818年にスペインからの独立を獲得しており、チリはハイチのようなアメリカによる直接支配をされた経験がない。

ともあれ裕福な人々の生活条件だけに目を向けた時にのみ、チリが“繁栄”したと言えるのだ。1973年9月に権力を握った、CIAの支援をうけた軍事独裁は、アジェンデの“人民統一”政府を打倒し、何万人もの政敵を殺害し、同等あるいは、それ以上の数の人々を、最も残虐な方法で拷問した。これがジャーナル紙が模範として掲げている政権なのだ。

ピノチェトのサディスト的な拷問者連中による(経済学者ミルトン・フリードマンや他の“自由市場”理論家達の助言を受けた)支配は、繰り返すが、チリの裕福な人々にとってのみ奇跡だった“チリの奇跡”の基盤を生み出したのだ。

ピノチェトのクーデター後、チリは、失業の急増と、南米史上、最も激しい給与の急落を味わった。1974年と1975年の間に、何千人もの左翼の人々や、学者や労働組合員が、秘密監獄の中で手足を切断され、殺害され、失業率は倍増した。1983年には、労働人口のおよそ35パーセントが失業していた。これは波状ストライキをもたらし、再び何万人もの人々が、ピノチェトの軍によって一斉検挙された。

ジャーナル紙が、1970年代と1980年代のチリで、いたく賛美しているのは、そこで起きた、軍と秘密警察によって実行された、莫大な富の移転だ。1990年に、ピノチェトが退陣を強いられる頃までには、平均的チリ人のカロリー摂取量は約20パーセント低下した。

1980年と1989年の間に、最も豊かな10パーセントの国民は、国富に占める割合が、36.5パーセントから、46.8パーセントへと増加した。逆に国民の下位50パーセントは、占める割合が、20.4パーセントから、16.8パーセントへと落ちてしまった。

二十年後、チリは依然として、世界でも、社会的に最も不平等な国の一つのままだ。2009年の経済協力開発機構の報告書にある通り、“チリは、他国々と比較して、所得不平等が激しい… 世界でも不平等の程度が特に激しい地域である、中南米の標準からしても、チリにおける所得不平等は激しい。」

十年前、所得不平等という点で、南米大陸で、チリよりひどいのは、ブラジルとコロンビアだけだった。

ともあれ、様々なニュース記事からすれば、ジャーナル紙によるチリ大災害についての楽天的な状況描写は、その真偽が問われている。グローバル・アンド・メイル紙(カナダ)は、チリ当局は今や「死者数は‘数千人’にのぼる可能性があると語っている」と報じている。救援隊員達は「被害の評価に苦闘しており、土曜日朝の地震による打撃を被った、多くの小さな、孤立した沿岸の町で生き埋めになっている生存者達を助けようと急行している」と同紙は書いている。

“チリの厳格な建築基準法”に関する、ジャーナル紙の独善的な言及について、グローバル・アンド・メイル紙記者はこう報じている。「コンスティトゥシオン[リゾートと漁業の町]のような小都市では、現実は全く異なっている。手の届く価格の住宅が足りない地域では… ‘人々は、どこであれ、住んでいるところに家を建てた。ありあわせの木材とセメントによる掘っ建て小屋だ。」

CNNによれば、この間チリ政権は警官を派遣し、“ 略奪者”、つまり“倒壊した、無人のスーパーマーケットの中で水や生活必需品をあさる、死に物狂いの住民達”を鎮圧するための軍隊も準備済みだ。「当局は催涙ガスと放水銃を使って」住民を追い散らした。

ケーブルテレビは、州都コンセプションでは「店舗から食料や生活必需品をあさろうとしている連中全員を取り締まるのに十分な警察官はいない。スーパーマーケットが閉店し、ガソリンも手に入らない中、一部の人々は自暴自棄になっている」とも報道している。

ピノチェト称賛は、ジャーナル紙にとって決して目新しいことではない。そのアイドルの一人で、ウォール街の代弁者、元イギリス首相マーガレット・サッチャーらの連中は、残忍なチリ政権と、そのトップの側に、何度となく重きをおいていた。

1998年10月、イギリス当局によるピノチェトの(暫定的)拘留にあたり、ジャーナル紙は歯ぎしりし、将軍は「彼の国を救ったクーデターを率いた」と同紙は断言していた。軍政の下、チリは「共産主義者の橋頭堡から、成功した自由市場改革の見本へと」変身したと讃えた。

憎悪されていた独裁者が2006年12月に逝去した際には、ジャーナル紙は、ピノチェトは「1973年のクーデターで、権力を掌握したが、結果的に、彼は、民主的制度が、優勢となるような環境を作り出したのだ。」彼は「チリを繁栄させ、隣国の羨望の的にした、自由市場改革を」支持した、とうたいあげた。

ピノチェトに対する、ジャーナル紙のこの親愛の情は、イタリアのファシスト独裁者ベニト・ムッソリーニにまつわる「彼は列車を定刻に走るようにさせた」という有名な言葉を思い起こさせる。同紙編集者達には権威主義と独裁に対する天性の嗜好があるようだ。

もしも、アメリカの労働者階級や、資本主義に反対する政敵に対し、ピノチェトがしたようなやり方で処することができたなら、連中もさぞや嬉しかろう。編集委員達は、最大の金融略奪者達を代弁し、街路の警察と軍、社会主義者用の捕虜収容所を夢想しているのだ。

こうした親ファシスト的な、いかなる悪態に対しても、アメリカのリベラルなマスコミからの抗議は全く聞こえない。ジャーナル紙は、ニューヨーク・タイムズや他の体制リベラル派の大黒柱のひどい臆病さと、ニューヨーク・タイムズ紙自身の、益々激化する反民主主義感情を当てにしているのだ。

著者は下記記事もお勧めする。

ピノチェト哀悼-アメリカの権力層、ファシズムへの親和性を示す(英語原文のみ)
[2006年12月13日]

記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/mar2010/wsjo-m02.shtml

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関連記事:

ナオミ・クライン:「新自由主義に対する、ウォール街の危機」は「共産主義に対する、ベルリンの壁の崩壊」に匹敵

アジェンデの遺言

「故人献金」という言葉、今は、もはや古典。あの頃「故人献金」という言葉を聞いて連想したのは、ゴーゴリの名作「死せる魂」。

「死せる魂」とは、どのようなお話か、Wikipediaから引用しよう。

アレクサンドル2世の時に農奴解放令が出されたが、その前まで地主は次の国勢調査まで死亡した農奴の人頭税も支払わなければならなかった。彼らは何とかしてその税を逃れる方法を探していた。そこに注目したチチコフは死亡した農奴の名義を買い集めて書類を捏造し、中央政府から金を騙し取ろうと計画を練る。それを実現する為にチチコフは広大なロシア全土を旅して歩き、至る所で一癖二癖持っている人々と出会う。

ホームレスや高齢者を食い物にする「貧困ビジネス」なるものが隆盛する現代、「死せる魂」などカビの生えた古典、と済ませられまい。作者ゴーゴリ、命日は、160年ほど昔、1852年3月4日

以下は、blog引っ越しにまつわるぼやき。

JUSTBLOGの運営が移管されるのをきっかけにして、こちらに移転することにした。実際の転居の場合もそうだろうが、ブログの引っ越しも、面倒なことだ。同じソフトを使っていても、ボタンを押すだけの簡単な引っ越しはできない。手動で、個別に移動している。

操作方法がよくわからないため、移動する日付で、登録してしまった。ようやく、日付を、オリジナルの日付にあわせる方法がわかったが、それまでの間に、早くも引用くださった方のリンクのファイル名と、日付をオリジナルに合わせて変更したファイル名が違ってしまい、たどっていただけなくなっているものもある。

画像の移転がまた面倒。そのままファイルを移動すれば、画像もついてくる。それで良さそうに見えるが、実は旧ブログの画像を参照しているだけに過ぎない。つまり、そのままでは、旧ブログを削除すると同時に、新ブログの画像も消えてしまうのだ。

ともあれ、引っ越し作業を開始して以来、画面をじっと見つめる時間が増えたため、目が痛くてたまらない。実際の引っ越しと同じで、高齢者の引っ越しは、勧められない。

ブログ開設にも、免許やら、教習所が必要なのかも。もちろん、半日もあれば済むだろう。

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