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2009年12月25日 (金)

ルーマニア: チャウシェスク打倒から20年

Diana Toma and Markus Salzmann

2009年12月24日

1989年12月25日、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクと彼の妻エレナは、短時間の見せしめ裁判後、即座に処刑された。処刑は、第二次世界大戦後に形成された、最後の東欧スターリン主義政権の一つの崩壊をもたらした。

1989年のチャウシェスク政権終焉の前に、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーやドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が崩壊していた。しかし、これらの国々における出来事は、往々にして、偽って、本当の民衆革命として描かれることがあるが、ルーマニアについては、そうした表現は不可能だ。当時、過激な変革の最も熱心な擁護者達ですら、スターリン主義の崩壊にはクーデター的な要素もあったことを認めざるを得ないのだ。

ルーマニアでは、東欧で20年前に起きた、変容の性格は、ほかのどの国よりも、遥かにわかりやすい。スターリン主義のエリート達が、国民の抗議につけこんで、新たな資本主義の基盤上に、権力と特権を確保したのだ。チャウシェスクは、自らの支配機関から解職されたが、そのメンバー達が、今日まで、ルーマニアの権力と富を支配しており、国民は惨めな暮らしを送っている。

チャウシェスクが1965年に、ルーマニア共産党(PCR=ルーマニア語略称)の指導者の地位に就いた際、彼は“改革者”と見なされており、西側としては望ましいパートナーだった。彼は国家の独立を強調し、モスクワからは距離を置いた。1969年8月、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが、ルーマニアを訪問し、翌年、チャウシェスクはアメリカ合州国にでかけた。彼は生活水準を向上させた工業化のおかげで、ルーマニア国内でも一定の人気を享受した。

以後数十年間、状況が悪化するにつれ、チャウシェスクは中国の毛沢東主義者に似たやり方で異様な個人崇拝を推し進め、悪名高い秘密警察セクリタテアに、益々支配を依存するようになった。最終的に1980年代末期の経済的衰退が、彼の政権終焉の前触れだった。

およそ110億ドルにものぼる国際通貨基金(IMF)や世界銀行への未払い債務を返済するため、支配政党のPCRは、国民から情け容赦なく搾り取った。食料は乏しく、パンですらも配給切符無しでは入手できなかった。賃金は、削減されるか、全く支払われなくなった。医療と教育制度が崩壊した。産業と農業への投資不足により、この地域での、生産性が、10年間以上にわたり、30パーセント以上低下した。

体制側は、この政策に対する、労働者達による抗議を、残忍、過酷に弾圧した。セクリタテアは圧倒的な力を持っていた。何百人もが逮捕、拉致、拷問され、殺害された。

1989年12月16日、当局が反体制派の牧師ラースロ・テケシュをティミショアラから追放しようとしたところ、抗議デモが急速に拡大し、警察と衝突するに至った。翌日、チャウシェスクの命令で、警察、軍隊と諜報機関が、群衆を射撃した。数百人のデモ参加者が殺害された。

抗議は更に、首都ブカレストを含む、いくつかの都市に広がった。こうした出来事を目撃していた人々の多くが、セクリタテアを含む、統治機関の一部が、意図的に、抗議デモをあおっていたと考えている。

12月21日、チャウシェスクは、ブカレストの集会で演説した。当初の友好的な雰囲気は、まもなく変わり、彼に敵対的になった。翌日、彼と妻は益々拡大する大衆デモに直面し、ヘリコプターで北部のトゥルゴヴィシュテへと旅立ったが、二人は軍に逮捕された。

一方、党、軍と諜報機関にいたチャウシェスクの腹心たちは新指導部を形成した。その目的で、自らを“革命派”と称した彼らは、救国戦線評議会(NSF)を作り出した。大衆抗議行動が続く中、チャウシェスクに忠実な護衛官や軍隊の一部の間で戦闘がおき、彼らは旧体制の名目上の指導者を粛清することを決定した。

チャウシェスクと妻は、にわかに開かれた軍事法廷に引きだされ、死刑を宣告され、カメラの前で射殺された。その画像は世界中に放送された。

1980年代まで、チャウシェスク側近取り巻きグループ・メンバーだったイオン・イリエスクが、彼の後をついだ。大変な政治的混乱の中、イリエスクとNSFは、1990年議会選挙に勝利し、更に二年後、大統領選挙に勝利した。チャウシェスク閥の多くの有力な政治家が、新政府閣僚の座を占めていた。チャウシェスクの弟子イリエスクの下、NSFが国家のあらゆる重要な地位を占有した。

古い権力構造に対する、国民の反感に依拠し、連中は公営企業の解体を開始した。1989年12月22日から28日の間に、テロ攻撃の嫌疑で、軍隊によって逮捕された600人以上が、1990年早々に釈放された。デモ参加者への砲撃を命じた軍、セクリタテアや民兵の幹部の多くは野放しで、出世した連中さえいる。

イリエスクが、最初の国営企業を民営化し、劇的な緊縮政策を断行した際、彼は激しい抵抗に直面した。失業と低賃金に対するストライキやデモが繰り返された。300パーセント以上のインフレ率のおかげで、ルーマニア人は、自活する手段を奪われてしまった。1993年、政府は商品やサービスに対する補助金を削減し、それが大規模なストライキ運動をひき起こした。1994年、200万人の労働者がゼネストに参加した。

変化の結果に対する国民の怒りと失望に、右派ブルジョア政党がつけこんだ。1996年、キリスト教民主党、社会民主党と、国民自由党の野党連立が、エミル・コンスタンティネスクの下で、政府を引き継いだ。コンスタンティネスクが、国営企業の民営化を加速させ、社会福祉を厳しく攻撃する、IMFのあらゆる要求を施行することを目的としたため、西欧マスコミは、これを“本当のチェンジ”だともてはやした。

同時に、チャウシェスクの元宮廷詩人であった、極右の大立て者ヴァジム・トゥードルが、政治的影響力を獲得した。彼が設立を支援した大ルーマニア党は、主として元セクリタテアの悪党どもを採用している。

かつてのスターリン主義者たちの多くは、現在セクリタテアの後継機関SRI(情報庁)に跋扈し、あるいは、成功した起業家としての経歴を誇っている。資本主義市場経済が、彼らに理想的な出世の機会を提供してくれたのだ。同窓グループのつながりは規則正しく機能し、元セクリタテアの連中は、あらゆる国家機関、政党、マスコミで活躍している。

こうしたプロセスの一例が、ラドゥ・ティヌだ。1985年から1989年まで、彼はティミシュ県のセクリタテアで局長代理をしており、とりわけ、彼は当時ルーマニアに住んでいた、今年のノーベル賞受賞者ヘルタ・ミュラーへの迫害を組織した人物だ。チャウシェスク没落後、短期間勾留されてから、彼はウィーン・インシュランス・グループの支配人となった。

こうした右翼の大立て者達は、常に民族的、人種的緊張をかきたてようと狙ってきた。1990年3月、ネオ-ファシスト勢力が、元セクリタテア将校達と共に、トレグ・ムルシュで、そうした緊張に油を注いだ。この都市の住民はルーマニア人とハンガリー人が半々だった。両陣営間の暴力的衝突が何件も起きた。ルーマニアは民族的内戦の瀬戸際となった。

過激な国家主義が、ルーマニアのスターリン主義政党の後継組織中に、蔓延したのは驚くべきことではない。ロシア革命の影響の元、1921年に創設されたPCRは、1920年代後半、スターリンとソ連官僚機構の支配を受けるようになった。第二次世界大戦中、PCRは、ファシスト独裁者のイオン・アントネスクと戦うため、国民自由党(PNL)や全国農民党(PNT)等の右派ブルジョア勢力と協力した。

アントネスクを打倒した後、1945年3月、ペトル・グローザの下で独立政府が樹立されたが、PCRはこれを容認した。1946年、PCRとグローザの全国的な保守派の“耕民戦線”は、選挙において共に選挙活動をした。モスクワの庇護のもと、PCRは党書記長ゲオルグ・ゲオルギウ・デジを首班として国家権力を掌握した。デジは、真正のスターリン主義者であった。政敵達は情け容赦なく投獄され、拷問された。

チャウシェスクは、ゲオルギウ・デジの庇護を受け、出世を始めた。スターリンが1953年に死亡した後、また1965年にチャウシェスクが権力を握って以来、ルーマニア政治は、一層、民族主義、反ユダヤ主義の色合いを帯びた。国民を分裂させるため、少数派は意図的に差別された。親政府派新聞によって、ホロコースト否認があからさまに広められた。

ルーマニアにおけるチャウシェスク没落後、右翼とポスト-スターリン主義の“社会主義”政府と国家首脳が、代わって地位についた。しかし政策は基本的に同じままだ。欧州連合加盟の為の基準を満たすため、厳しい金融引き締め政策が遂行された。最後の国有企業も民営化された。

今日、“自由な20年間”という標語の下、長引く経済危機の状況下で祝典がとり行われる。繁栄とデモクラシーという約束の何も実現されてはいない。政治家全員が、危機や、大規模な社会福祉攻撃の重荷を一般大衆に押しつけることに合意しているのだ。

ルーマニアの選挙は、最近の大統領選挙で見られたように、民主的とはほど遠い。政治エリート内部では、権力、影響力と財源を求める熾烈な戦いが荒れ狂っている。

20周年の公式式典と演説は、国民の気分とは、著しい対照をなしている。ストライキやデモは、ここ数ヶ月の間に急増している。人々は、不安定な生活条件を、もはや甘んじて受け入れようとしてはいない。

最近の世論調査によると、現在、回答者の三人に一人は、1989年の出来事は誤りだったと考えている。60パーセントのルーマニア人が、現在の政治家達のほうが、ニコラエ・チャウシェスク時代よりも腐敗していると考えており、ほぼ同数の人々(56パーセント)が、現在の政治体制よりも、“共産主義”政権の方が、大衆を尊重していたと考えている。

記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2009/dec2009/roma-d24.shtml

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一方、この国では、

小泉政治を是とした、自民党は支配の座から降ろされたが、元々自民党議員だったメンバー達が、今日まで、日本の権力と富を支配しており、国民は惨めな暮らしを送っている。与党政治家の大半が、危機や、大規模な社会福祉攻撃の重荷を一般大衆に押しつけることに合意していて、マスコミは、これを“本当のチェンジ”だともてはやしている。しかも、ストライキやデモは決しておきず、人々は不安定な生活条件を、いつまでも甘んじて受け入れようと決意している。日本は、既に万能の小沢主席が采配を振るう安定した独裁国家である。

ような気がするのは、親から12億円の子供手当てをもらえない貧乏人の僻みだ。

マスコミについては、アプトン・シンクレアが90年程前に書いた本、ブラス・チェック『The Brass Check=邦題"真鍮の貞操切符"』の一節、クリスマスの手紙 「百万長者対貧乏作家」を参照頂ければ幸いだ。

小沢政権の行方を書いた、今日の朝日新聞朝刊の政治欄記事、独裁が確立することを予見するような、かなり薄気味悪い記事だった。残念なことに、こういう観測こそ実現するだろう。参院選挙で、民主党が大敗しない限り。

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