ユーゴスラビア分裂-ベルリンの壁崩壊祝賀にバルカンの陰
Pyotr Iskenderov
2009年11月14日
Strategic Culture Foundation
ベルリンの壁崩壊20周年式典は終わった。外国からの何十人もの高官たちが、その多くは当時起きていた歴史的進展には全く無関係なのに、ドイツ統一の非常に大きな重要性と、冷戦の歴史に最後の仕上げをした出来事の象徴的な重要性を語っていた。ところが、ヨーロッパの中では、ベルリンの壁の崩壊が、必ずしも完全に前向きな変化として見なされてはいない部分があるというのが真実だ。無血の冷戦完了とされるものの直後から、ヨーロッパは、本物の武力紛争のまん延に直面せざるをえなかったのだ。
1989年のドイツ統一は、大陸中で全体主義政権が崩壊する時代の幕開けであり、究極的に、統合ヨーロッパの創造を可能にしたというのが、広く行き渡った考え方だ。バルカンの住民たちと、無数の私的な会話を重ねた結果、私は違った結論に至った。ベルリンの壁崩壊の僅か一年後に始まった、ユーゴスラヴィアの分裂という、何千人もの命を失わせたプロセスでは、特に統一した極めて強力なドイツが、その原動力の一つだった。スロヴェニアとクロアチアの急な独立宣言も、後者の国では、明らかにセルビア人とクロアチア人住民が共存する実現可能なモデルが欠如していた事実にもかかわらず、国際社会によって急に承認されたことも、背後にはドイツがいた。更に、1992年の春、ボスニアとヘルツェゴビナで勃発した民族紛争の起源も、外部勢力の活動をも考慮に入れて初めて、把握が可能になるのだ。
第二次世界大戦後に押しつけられた、トラウマになるような分離の後、再建したばかりの国ドイツが、なぜバルカンの地政学的オーバーホールに、積極的な役割を果たしたのだろう? ナポレオンは、あらゆる国家の政治は、その地理に由来するとよく語ったものだ。この概念は、1980年代末から1990年代始めの、ヨーロッパ全体、そして特にバルカンの状況に、ぴったりあてはまる。
東欧ブロックの崩壊と二つのドイツの統一後、ベルリンは自分がヨーロッパで最強の立場にあることに気づき、それ巡ってドイツが伝統的にフランスと競ってきた、ヨーロッパにおける指導者の地位を積極的に求めたということを、認識すべきなのだ。ソ連軍の撤退後も、ドイツは、国際的義務の枠組みとして、アメリカ軍基地を抱え続け、それが、ドイツの野望にとって主な障害となっていた。主要国家としての立場が保障される上、基地の存在が、ソ連時代の国際条約でなく、NATOの負託に基づくことが可能なバルカンに、基地を移動することで、問題を解決したいとドイツが望んでいた兆候がいくつかあった。ドイツが、その計画を実現するのに必要としていたものは、バルカンに拡張する為の本格的な口実だったが、ユーゴスラヴィアの分裂や、旧領土中に広がった幾つかの長引く民族紛争出現を含むプロセスが、都合のよい口実となった。シナリオの実施は、歴史的理由から、ドイツの影響力が深く根ざしているスロヴェニアとクロアチアで始まった。既に1980年代、スロヴェニア、特にクロアチアで、彼等が支援していた様々な亡命民族主義者や過激派集団が、次第に政権内で地歩を固めており、ドイツ諜報機関は強い立場にあった。1989-1990年には、ドイツ人顧問たちやNGO使節たちがクロアチアに大挙して押し寄せた。この共和国が結局、旧ユーゴスラヴィアにおける最初の武力衝突の現場となったのは、同様に活発だったアメリカの担当者たちすらもが恐れた、彼等の活動が原因なのだ。
1990年5月、クロアチアの初代大統領フラニョ・トゥジマンが、(大半がドイツ人顧問たちの監督の下でまとめられた)新憲法を、独立支持派が支配する議会を通して提出した。この憲法は、クロアチアは、以前策定されていたような、クロアチア人とセルビア人と、そこに暮らす他の人々の国家ではなく、クロアチア人と、そこに暮らす他の人々の国民国家であるとうたっていた。法律的な巧妙さが、かつては国家を形成していた民族であるセルビア人を、自動的に少数派にしてしまった。格下げに不満を持ったセルビア人は、1990年8月に自分たちの国民投票を始めたが、その間、彼らの対応は、クロアチア内での主権と自治の権利を主張することに限定されていた。離脱は予定にはなかったが、クロアチア政府は、それにもかかわらず、国民投票が行われるのを防ぐために武力を用い、これが共和国における武力紛争の発現の瞬間となった。
クロアチアのセルビア人は、その出来事の後でさえ、政治的解決を申し出ていた。1990年9月30日、Serbian National Councilは、ユーゴスラヴィアの一員として、クロアチア内に暮らして来た民族的、歴史的領土におけるセルビア人の自治を主張したが、ドイツ人顧問たちと合意したザグレブの進路は変わらなかった。新クロアチア憲法は、12月22日に発効し、そして、まさに翌日、隣国スロヴェニアは、国民投票を呼びかけたが、投票の94%がユーゴスラヴィアからの独立に賛成だった。興味深いことに、トゥジマンの憲法成立に先立つ数週間にわたり、ワシントンは、クロアチア指導部に、自制心を働かせて、武装紛争エスカレーションをしがちな措置を避けるよう呼びかけ続けていた。それでもベルリンの影響力が勝り、ドイツ人顧問たちは、クロアチアの子分たちを、断固として行動するよう説き伏せるのに成功した。1991年5月19日、クロアチア政権は、国民投票を行ったが、投票ブースに向かった人々の94%以上が、即時分離を選んでいた。クロアチアのセルビア人は参加せず、ドイツはバチカンの助力を得て、速やかにこの二つの独立国家に対するヨーロッパの承認を確保した。間もなくサラエボもこれに続き、大規模戦闘がバルカン諸国中を吹き荒れ、NATOは介入のための期待していた口実を得、ドイツは新ヨーロッパの地政学的構造における主要勢力として浮上した。
ドイツ統一は称賛しつつも、ベルリンの壁の崩壊が、他の国々やその国民たちに、どのように暗い影を落としたかを、我々は忘れてはならない。
記事原文のurl:http://en.fondsk.ru/article.php?id=2584
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新刊『社会主義と個人』-ユーゴとポーランドから 笠原清志著 集英社新書の88ページに、この記事と重なる記述があった。一部を引用させていただく。
小見出しは「ドイツ外交のいさみ足」
一九八〇年代末、社会主義体制が崩壊し、ユーゴスラヴィアでもその精神的空白を埋めるべく民族主義が台頭してきた。ミロシェビッチはセルビア民族主義を煽り、それを通じて権力を掌握したことは事実である。しかし、一九九〇年代に本格的内戦に発展したきっかけの一つは、日本ではあまり論議されていないが、オーストリアとドイツが時期尚早に、スロヴェニアとクロアチアの国家独立を一方的に承認したことである。東西ドイツの統一とそれに伴うドイツ外交の〝勇み足″とも言えるが、この〝なぜこの時期に、このような形で″という疑問は、私には今でも解けていない。
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