戦争物語の制作では、ペンタゴンはハリウッドの強敵-『戦勝文化の終焉』あとがき
トム・エンゲルハート、University of Massachusetts Press刊。2007年9月22日投稿。
イラクにおける数々の見事なプロパガンダ技術から見て、トム・エンゲルハートの著書『戦勝文化の終焉』からの下記抜粋が説明しているように、アメリカ軍は、いかにして戦争を遂行しながら、同時にマスコミを打ち破るかを習得したのだ。
第二次世界大戦が始まって間もなく、陸軍参謀長ジョージ・C・マーシャルの依頼で、ハリウッドの監督フランク・キャプラがアメリカの戦争の目的を説明する公式プロパガンダ映画シリーズ制作を始めた。このシリーズには共通の題名「なぜ我々は戦うのか」がついていた。「なぜ」シリーズは、本来、純粋に情報を提供するものだった。そこにはいささかの疑問の余地も存在せず、ひたすら強力な答えがあるだけだった。
二十年以上後、1965年の血なまぐさい行き詰まったベトナム戦争の最中、アメリカ政府は「なぜ我々は戦うのか」シリーズに習って、「なぜベトナムか」という題名でもう一本の公式プロパガンダ映画を公開した。しかし共通点はそこまでだった。もはやそのような映画制作は、敵は攻撃的で野蛮だが、戦勝は確実であり、戦後の目標は明白だという、アメリカ的真理に肉付けすればすむという単純な話ではなくなった。それまでには、まさに何世紀も続く生まれながらの権利にほかならないものと思われていた、かつての戦勝というアメリカのお話の中深く、疑念が忍び込んでいた。
この映画も、最後には疑問符なしで登場したとはいえ、その頃には、あらゆる種類の疑問、疑念が、表面直下いたるところに存在していた。当時の国務省東アジア専門家ジェームズ・トムソン・Jr.による記事のおかげで、アメリカが一体何故ベトナムにいるのかをいぶかる疑問符が、アメリカ国民の心中に既に深く留められているのを認めるという問題が、リンドン・ジョンソン政権内部でも、まさに文字通り論じられていたことを私たちは知ることができる。彼はこう追憶している「広報活動の世界で、一番意気阻喪させられた仕事は、1965年9月の「何故ベトナムか」という題のホワイト・ハウス・パンフレット作成だった。自分の良心に対する決意として、私は戦い、破れた。題名に疑問符をつけ加えるという戦闘に。」
だが戦争が長引くにつれ益々顕著になる疑問符や疑念を避ける方法は皆無だった。ベトナム後、ペンタゴンは傷をなめながら、疑問符を売国的なマスコミになすりつけるキャンペーンを開始し(連中がアメリカの戦争に対して裏切り行為を働いたのだ)マスコミを服従させ、疑問符をアメリカ文化から追い出す計画を始めた。以下の抜粋は、「戦勝の文化」が息子ブッシュの時代に復活し、結局はイラクにおいて記録的短時間ですっかりだめになっていった姿を考慮に入れ、ペンタゴンのキャンペーンに焦点を当てて、改訂し再刊されたばかりの拙書『戦勝文化の終焉』の新たなあとがきの抜粋だ。
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今どき大衆に満足感を与えられるような戦争の話を作り出すのは、決して容易なことではないことが明らかになった。アメリカの戦勝についての永続する物語を造り出す為の何十年にもわたる計画的で、たっぷり予算をつけたベトナム後の努力にもかかわらず、ペンタゴンは依然として、目処のたたないまま苦闘していた。1982年、ベトナムの傷を舐めつつ、戦争が負けたのは、ほとんど売国的なマスコミ報道の影響によるものだと確信しながら、ペンタゴン幹部は、人里はなれた南大西洋で、イギリス軍がアルゼンチンに対して一方的な勝ち戦をおさめ、しかも同時に報道陣をも打ち破ったのを見つめていた。記者たちをほとんど海軍艦船に閉じ込め、非協力的なジャーナリストはおいてけぼりにして、イギリス軍(彼らの視線はアメリカ軍のベトナムでの経験を向いていた)は戦争報道の流れをほぼ完璧に支配した。これにひらめきを得て、アメリカ軍ももっと具合の良い戦争を見せる企みを始めたのだ。
レーガン政権1983年にグラナダという小さな島の侵略を命じて以来、アメリカの数多くの戦争と介入のそれぞれが、より新しい、より強力な、より技術的に高度な世次代兵器実験用の、軍産複合体のためのもう一つの生ける実験場だと言われてきた。例えば、事実上準核爆弾級のMOAB(massive ordnance air burst)つまり巨大燃料気化爆弾(略称をもじって「Mother of all Bombs-あらゆる爆弾の母」とあだ名された)は、フロリダの試験場からペルシャ湾地域へ急送されたが、イラク侵略で使用するにはわずか数日遅れた。この爆弾の最初の実戦テストは、アメリカの次のフロンティア戦争を待たねばならない。たとえそのフロンティアが、再び、地上の石油の中心地帯ということになった場合でも。
戦争のたびごとに、マスコミ報道という側面でも同様の実地試験工程が進行していた。ペンタゴンの最初の衝動は、イギリスの例に習って、単にメディアに対し、戦争を認めないこと、またある意味では大衆にたいしても認めないことだった。イギリスがフォークランド諸島で、記者たちの出番を無くしたように、グレナダ侵略では、ペンタゴンは記者たちを「一カ所にまとめ」て、沖合に置き、数日間彼らには出来事を見ることも、撮影も、あるいは報道も許さなかった。これはアメリカ人にとって何かわくわくするものとしての戦争の画を再建しようという企ての粗削りな始まりに過ぎなかったが(陸軍そのものが、全志願制の軍隊として、再び国民の尊敬を惹きつけるべく再建されつつあった)、強力な残滓的要素、つまりベトナム時代のマスコミに対する怒りと復讐心をも含んでいた。戦争報道は、一種の懲罰として扱われていたのだ。
パナマから、アフガニスタンに至るまでのそれぞれの戦争で洗練されたとは言え、ペンタゴンのやり方は、本質的には、一連の否定的な、聖書のような禁止命令に基づく防御的なもののままだった。例えば、テレビでは「遺体袋」を映させるべからず(アメリカ兵死傷者は、大衆に嫌気を起こさせ、国内の戦争支持を弱めさせる可能性があるので)。この過程で、遺体袋は改名され、アメリカ兵死者の遺体は、機能的に真夜中に本国へ空輸され、柩は注意深く記者やカメラの目に触れないところで下ろされた。もう一つのベトナム時代の禁止命令は、2001年アフガン戦争の司令官トミー・フランクス将軍の痛烈な言葉によれば「我々は死者数を数えない。」だった。この禁止命令はイラクが全面的な対反乱軍戦争になって以来の侵略後の日々でゆっくりと褪せたが、しばらくは戦争の双方側で戦死者は存在することを止めていた。
2006年11月になって、ブッシュ大統領は、保守派ニュース・コラムニストの集団に、いらだちを現して言った「[我々は]そういうことは言わないものだ。千人の敵を殺害したであれ、人数がどうであれ。それは起きているのだ。皆さんがそれを知らないだけだ。」問題は、彼がいらだちながら言ったように「死者数を数えるチームにならないよう意識的に努力しているのだ。」これは、ブッシュ政権がどの程度まで、ベトナムの有害な「教訓」と見なすものの反対を、依然として意識的に演じようとしていたかの、おそらく最高の立証だろう。
第一次湾岸戦争この受け身版では、記者たちは再びひとまとめにされて、ほとんど「戦闘」から引き離され、アメリカ本土のアメリカ人は、ロケットが青空の中へ発進するものやら、ノーズ・コーンの画面、ペンタゴンによって編集され公開された、狙ったイラク側標的の破壊といった華々しいイメージを見るだけとなって、ペンタゴンの報道管制のは頂点に達した。しかしある意味で、そのような報道には真ん中に穴が空いていたのだ。そして、それは依然として、ベトナムの壊滅的な遺産を象徴していた。結局、「戦争」活動は一体どこにあるのだろ? 戦勝文化の画面版にあった、全てのあのわくわくするほど英雄的な瞬間は一体どこにいったのだろう? 再び記者たちを現場から外した結果、制作物は奇妙に生気のないものとなった。戦争は、実際は空からの虐殺が、殆ど人目につかない場所で、計画どおりに起きていた。あたかもペンタゴンの連中がニュース映像を支配したかのようだが、彼等が放映できるものと言えば、軍事版スクリーン・セーバーでしかなかったのだ。
勝利が宣言され、これはベトナムとは違うことを証明する大規模な戦勝パレードが組織され、今度は兵士たちは、彼らが、ペンタゴンが、そして第一次ブッシュ政権がまさにそれに相応しい群衆の拍手喝采に迎えられて帰還するのだ。しかし、大統領や幹部たちの期待にもかかわらず、破れた「ヒットラーのような」独裁者軍内部では、いかなる策士の集団もフセインを打倒せず、戦勝物語は実に冴えないものになった。第一次湾岸戦争後、それまで同様、サダム・フセインはイライラさせるほど権力を握り続けていた。ロナルド・レーガン大統領の特使として、ドナルド・ラムズフェルドが1983年12月20日に握手をした相手、イランのアヤトラ・ホメイニに対するアメリカのかつての同盟者、そのためにアメリカの偵察衛星が、イラン-イラク戦争終盤、大量破壊兵器で毒ガス攻撃をする対象となるイラン軍の集結点を見つけてやった司令官は、明らかに、すぐさまどこにも消えはしなかった。
20年後、第二次湾岸戦争の「体制変革」戦争は、アメリカの第一次イラク戦争のもっとうまい改作になるように仕組まれた。今回、独裁者はノックアウトされるのだから、流布されるべき物語はたっぷりあるはずだ。しかしそういう記事を書く記者たちを、一体どのようにしっかり管理すればよいのだろう? 一つは、第一次と第二次湾岸戦争の間に、携帯通信技術は更に一段と大進歩をとげ、リアルタイムに近い形で、大いにブッシュ政権の気に障りそうな可能性がある記事や画像を送信する即席の独自報道に必要な全ての装置を、戦闘地帯にいる記者が携帯することがずっと簡単になる脅威をもたらしたことだ。(第一次湾岸戦争の際、自分の力で戦闘地帯にたどり着いた記者などごく稀だったが、彼らは軽蔑的に「単独行動者」と呼ばれたが、十年後息子ブッシュのワシントン幹部がアメリカ世界政策のエッセンスとして奉じる、あの「単独行動主義」と同じ用語だ)
元NBCニューズのチーフ、ルーベン・フランクは、2001年後半の報道の雰囲気を思い出してこう語った。「アフガニスタン戦争は[テレビ放送される戦争報道という点で]テレビ電話とよばれる装置のおかげで大きく前進していた。」ラップトップ・パソコンほどの大きさで、それより厚めの装置で、いくつかのスーツケースで運べるほど小さく(かさばるアップリンク用トラックも固定通信装置も不要で)、「数分で組み立てたり、分解したり」できる「自動車のシガーソケットにつなげ」られるものだ。フランクは、そのような技術で「新種のジャーナリストが出現しつつあった... 一部はカウボーイ、一部はエレクトロニクス技術者、一部は警察担当記者、一部は海外特派員という人々が」と言った。
ペンタゴンはこれと、メディアが、独自の戦争報道を、よりもっともらしく、魅力的にできそうな類の情報にアクセスできそうないかなる可能性も憂慮した。フランクによれば、アフガニスタン戦争時、アメリカ軍がそのような課題に対処しようとした、ちょっとした例は、コロラド州ソーントンの、商業的には最高の地球衛星写真を提供しているスペース・イメージズ社に「アフガニスタンや周辺地域の同社衛星写真の独占使用権の為に、一カ月190万ドル」支払ったことだ。軍自身の衛星の似たような写真は解像度が10倍高いにもかかわらず。そしてアフガニスタンの画像は禁止された。フランクが言っているように「この取引の本当の狙いは、他の誰もアクセスできなくすることだった。つまり、主として、マスコミが。」これは記者たちが戦闘地帯で独自かつ効果的に移動し報道する能力を妨害するための計画の一部にすぎなかった。
アメリカの戦勝物語を造り出す必要性と、高度技術で可能となった報道が決して独自にはされないことを保証する必要性から、新たな手法が生まれた。記者は今や、出征前の「新兵訓練所(ブートキャンプ)」によって軍と親密になってから、軍の部隊に「埋め込まれ」、無数の西部劇映画の中で、西部へと向かう開拓者の幌馬車の長い列と非常によく似た、あのブラッドリー歩兵戦闘車やエイブラムス戦車の車両集団から、部隊ごとに戦争をアメリカに伝えるべく送り出された。一部は技術的な必要性から生まれたのだが、記者を埋め込むというアイデアは、政権がサダム・フセインの非力な軍に対する戦勝にどれほど確信をもっていたかをも反映していた。かつては憎み、恐れたメディアからのリアルタイム画像の絶えざる流れという好機を活用できるほど確信を持っていたのだ。
映画制作と戦争遂行は今や深く絡み合っていた。制作ロケ地はイラクだ。監督はペンタゴンだ。ドーハ、カタール中央軍司令部の戦況ブリーフィング用25万ドルセットに制作スタッフは腰を据え、アメリカ人は、まさにそうあるべき姿の、昔栄光の日々に画面に映された通りの、わがアメリカ軍勝利の前進を見るというわけだ。
侵略を開始してから、様々なイラク人がアメリカによる解放を歓迎するのを拒んだり、一時、南部で泥沼にはまりそうになったりするなど、ブッシュ政権には都合の悪い瞬間も何度かあったが、アメリカ軍は、実際に重大な死者なしに、三週間でバグダッド陥落に成功した。サダム・フセインは消え失せた。彼の政権は最早消滅した。イラク軍は帰省した。そして彼らの物語作りのあらゆる夢が実現したかのように見えた。おそらくペンタゴンの即席映画制作の極みは、所属部隊がナシリヤ付近の間違った交差点で曲がり、待ち伏せ攻撃を受けた19歳の一兵卒ジェシカ・リンチの救出だった。部隊のうち9人は殺され、彼女は捕獲された。8日後、彼女がイラク人医療関係者による治療を受けていた病院に、暗視カメラを装備したアメリカ軍特殊部隊の兵士たちが到着し、救助の場面を写し、リアルタイムでドーハの中央軍司令部に送信し、そこで映像が編集され、放送された。結果として、本当のアメリカ人の英雄(ヒロイン)と、本土でのマスコミによる夢のような愛国主義狂乱が生まれ、ジェシカ・シャツやその他一連の身の回り品まで現れるに至り、あるNBCの週の番組では、彼女の人生と「救助」に焦点をあてた。
ジェシカ・リンチの物語ですらも、バグダッドで引き倒されたサダム像や、サダムの大量破壊兵器の膨大な兵器庫といったお話同様、すぐにぼろぼろになった。あらゆるわくわくする詳細が欠如している非英雄的な方の話、リンチの有名な銃創あるいはナイフ傷、イラク人捕獲者による彼女への虐待とされるもの等が、文字通り全速力で画面に躍り出た。大いに喧伝されたペンタゴン版物語を、リンチ自身の話をまとめた本『私は英雄じゃない』で事実上否定する頃には、もう手遅れだった。世間はどの版にも興味を失っており、彼女の話は雲散霧消し、本はあっと言う間に売れ残り値引き本カウンター商品になった。
これは、カメラがいくらハイテクであれ、あるいはテレビ装置が如何にドラマチックであれ、その場で神話を造り出すことにまつわる問題の一例にすぎない。第一次湾岸戦争では、ペンタゴンは、各放送会社から視聴者を奪うためCNNによって使われた毎日24時間週7日のニュースという新現象に真っ正面から挑んだ。当初の両者の出逢いは、この初期段階でさえペンタゴンが勝利者であるかのように見えたかも知れないが、誰もが知る通り画像は往々にしてあてにならない場合がある。第二次湾岸戦争迄に、すぐに気の散りやすい、年中無休のケーブル・ニュース・システムを支配し、注意を惹きつけておくという問題は十分に認識されていた。しかしそうこうするうちに、予期していなかった新たな要素が現れた。現地にカメラマンと記者のチームを持つ、中東におけるアル・ジャジーラの成長だ。突然に、ブッシュ政権やペンタゴンの力が及ばず、しかも、彼らのやり方によるお話作りに有害な、新たな一連の画像とメッセージを提供しはじめたのだ。両面からのアル・ジャジーラ恫喝で、一つはアメリカ企業の幹部からカタールの支配者(ネットワークを設立した、忠実なアメリカ支持者)経由、もう一つはアル・ジャジーラの施設、まずはカーブルで2001年に、次に2003年のバグダッドという本当の攻撃によって、報道の性格を変えさせようとした企みも、役に立たないことが明らかになった。
一方、「一日36時間/週7日」働き続け、益々多くの読者を惹きつけている、全く制御しようのない政治インターネットの成長が、もう一つの問題であることが明らかになった。インターネット上の様々な反政府的サイトやブロガーは、ブッシュ政権による英雄的なお話が現れるやいなや、脅しに屈した大手マスコミであれば、まずやろうとしないような形で、熱心にそれをぶちこわそうとする。例えば、世界中、そしてあらゆるアメリカの新聞で、瞬時に広まった、憎むべき独裁者サダム・フセインの銅像を、バグダッド・フィルドス広場で歓喜に沸くイラク人たちが引き倒すわくわくする英雄的な大写しの写真。この画像は、間もなくウエブ上で台無しにされた。その群衆のロング・ショットでは、群衆の人数がごく少数で、アメリカ軍によって組織され、指揮されていたことが見え見えだった。
適切な説明がついた、こうした対抗的な写真は、瞬時に政治インターネット中を巡り、ゆっくりと主流世界へと近づいて行った。政治インターネット・サイト、インフォメーション・クリアリングハウスが、政権が極めて熱心に人目に触れぬようにしてきた国旗で覆われたアメリカ人死者の柩の画像を最初に掲載した。ブッシュ政権が2002年に実際どれだけイラク攻撃に熱心だったかを示すイギリス政府内部の書斎からもたらされた秘密文書、ダウニング・ストリート・メモが、イギリスの新聞に漏洩され掲載された。当初アメリカ合州国の全ての大手新聞に無視されていたものが、アメリカ「上陸」を果たしたのは、政治インターネット上でだった。(オリジナルのダウニング・ストリート・メモが、アメリカ合州国で初めて記事になったのは、新聞ではなく、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスであったという事実が、主流マスコミの状態を雄弁に物語っている。)この年月、政治インターネットは現場にいた。ブッシュ政権による戦争前の嘘やWMDという白昼夢から、アフガニスタンにおける元NFLフットボール選手パット・ティルマンの「誤爆」死という真相を隠すためペンタゴンがでっちあげた英雄談に至るまで。対象範囲と読者数は限られており、ネットが、そうした現実に対する説明を主流にもちこむ力は限られているとは言え、確かに最新版の戦勝文化を着実に台無しにする一つの要素である。
トッド・ギトリンがメディアの「奔流」と呼んだ、我々の騒々しい文化宇宙の中では、遅かれ早かれ(大抵は、早かれだが)ほとんど何事についても、戦争と政権も含め、押し流されてしまう。バグダッドの国立博物館のように、話題や画像、目を惹きつける筋立て、生活の中で画面や音に釘付けにする番組によって、我々の世界は繰り返し強奪されてきた。2004-5年までには、メディアに対して、イラクについて何か「良いニュース」記事を造り出してくれ、と荒野での絶叫を続けてきたブッシュ政権も、ドナルド・ラムズフェルドの記憶に残るあの言葉、いつも「そういう事はおきる」略奪者の天国で、あるいは、再建をするよう命じられている連中自身が略奪者であるような状況の中では、何か永続的なものを作り上げるのが容易ではないことを発見した。瞬間という文化の自由市場においては、戦争の中から永続する神話を創造することは不可能だ。次の出来事まで話をもたせることすら困難なのだ。
Tomdispatch.com編集人のトム・エンゲルハートは 、American Empire Projectの共同設立者で、The End of Victory Cultureの著者である。
記事原文のurlアドレス:www.alternet.org/waroniraq/62951/?page=entire
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