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2007年4月 2日 (月)

「体制転覆:ハワイからイラクに至るまで、一世紀にわたるアメリカによる体制変革」その2

democracynow.org

2006年5月8日分放送の翻訳

「体制転覆:ハワイからイラクに至るまで、一世紀にわたるアメリカによる体制変革」第二部

エイミー・グッドマン:元ニューヨーク・タイムズの海外特派員、スティーブン・キンザーさんとのインタビューの第2部に入りましょう。キンザーさんの新刊は、『体制転覆:ハワイからイラクに至るまで、一世紀にわたるアメリカによる体制変革』(原題:Overthrow:America's Century of Regime Change from Hawaii to Iraq)です。私はシカゴで数週間前にキンザーさんにインタビューしました。私たちは、ハワイからイランに至るまで、米国が関与した多数のクーデターについて話しました。第2部は、アメリカが支援したイランでのクーデターから1年後のグアテマラについてです。

      スティーブン・キンザー:アメリカ合衆国が1954年に実行したグアテマラのクーデターは、世界中を不安定にするばかりでなく、グアテマラのみならず、ラテン・アメリカ全体、さらにはその外部においてさえ、反米感情を激化させた多数のクーデターの一つです。グアテマラは他の中米諸国と一緒に1820年代にスペインから独立しました。他の大半の中米諸国同様、1944年まで一連の独裁者の支配下にありました。そして革命が起きました。十年間グアテマラでは民主主義が機能していたのです。

      グアテマラは、経済的には完全に一つのアメリカ企業つまりユナイテッド・フルーツに支配されていました。同社はワシントンと特別に強いコネを持った強力な企業でした。アイゼンハワー政権幹部の多くは、ユナイテッド・フルーツの株主か、元重役か、同社と強いコネがあるかのいずれかでした。さて、グアテマラでは、ユナイテッド・フルーツはこの国のバナナ輸出の大半を占めているだけではありませんで、50万エーカー以上の土地、しかもこの国の最も豊じょうな土地のかなりを、使わないまま保有していました。同社はこうした土地を将来何かに使うという可能性のためだけに保有していたのです。

      1950年代初期にグアテマラで権力を握ったアルベンス大統領は、その土地を収用して、食うや食わずのグアテマラ農民の間で分け与えたいと思ったのです。民主的な投票で選出されたグアテマラ議会が、ユナイテッド・フルーツに、ユナイテッド・フルーツが前年の所得申告で土地価格として書いた価格で、使っていない土地をグアテマラ政府に売却するよう要求する土地制度改革法を通過させたのです。そこで当然、フルーツ社はこの要求を受けると怒り狂って言いました。「もちろん、土地の本当の価格を所得申告に書く者などいるものか、本当の価格はその十倍以上するのだ。」しかし、グアテマラ政府は言ったのです。「申し訳ありませんな。あなた方ご自身で、土地をそのように評価された以上、我々としては、あなた方にその価格で売却されるよう主張しているのです。」

    そこでユナイテッド・フルーツはワシントンでの工作を始めたわけです。アルベンス政権がこのようなやり方をしなかったならば、土地制度改革計画に着手しなかったならば、ユナイテッド・フルーツの土地を取り上げようとしなかったならば、もしも基本的に反米でなかったならば、同社はアイゼンハワー政権を説き伏せはしなかったでしょう。さらに冷戦情況も重なっていました。そこでユナイテッド・フルーツは、この政府はグアテマラにおけるアメリカ企業の利益に敵対的であるだけでなく、疑うべくもなくクレムリンの手先であり、当時のアメリカ人はそう考えていたのですが、世界中でアメリカの利益を損ねようとしているのだと米国政府を説得することができました。

    グアテマラ・クーデターの準備段階で、ブラジル人大使が実際国務長官ジョン・フォスター・ダレスに面会して、本当にソ連がグアテマラを操っている証拠があるのかどうか訊ねると、ダレスは極めて率直に答えたのです。「そういう証拠はありませんが、我々はあたかもそうであるに違いないかのように進めています。」こうしてアメリカ合衆国は比較的容易にグアテマラ政府を転覆しました。

    エイミー・グッドマン:ジョン・フォスター・ダレス国務長官は、ユナイテッド・フルーツの企業弁護士でしたね。

    スティーブン・キンザー:ダレスは、ユナイテッド・フルーツがワシントンに対して持っていた大変な影響力の完璧な見本でした。国務長官はユナイテッド・フルーツの元弁護士でした。ですから、ユナイテッド・フルーツが悩まされれば、彼も悩まされるように感じたのです。また戦闘的な反共主義者としても、彼はこれは共産主義者の陰謀の一部だと考えたのです。今ではモスクワで公開された文書によって、ソ連はアルベンスやグアテマラの存在など知らず、この情況に対する関心は微塵もなかったことが明らかになっています。

    さてグアテマラ・クーデターの余波はどうだったでしょう? アメリカは独裁を押しつけました。数年のうちに、この独裁が革命を引き起こしました。これは30年もの内戦となりましたが、事実上それは何十万人ものグアテマラ人が殺された長い一連の虐殺なのです。実に恐ろしい時期でしたし、私自身その一部を特派員として記事にしましたが、どこか他の国が、世界の他の場所で同じことをしたのであれば、アメリカはきっとあれを大量虐殺だとして糾弾していたでしょう。

    さてそこで、こうしたクーデターで何度も眼にするもう一つのパターンに至ります。政府を打倒した直後に決定的な瞬間がやって来るのです。そこで、アメリカは誰を新指導者にするかを決めねばならないのです。誰をこの国の指導者にしたらよいだろう? アメリカは、二つの条件を満たしてくれる人物を望むのです。まず第一に、人気がある人物ということです。権力者の地位に居続けることができて、しかも国民から支持される人物です。そして、第二に、アメリカが望むことをしてくれる人物であるということです。アメリカは、わざわざある政府を転覆して、自分の気にくわない人物を権力に据えたりなどしません。そこで、アメリカは、両方の条件を満たすのは無理なことに間もなく気がつきます。人気があって、しかもアメリカ合衆国の命令に従うなどという人物がいるわけはありません。人気のある指導者は、アメリカ合衆国の利益よりも、まず自国の利益を大事にするものです。それが我々が介入する理由ではないのです。

    そこで、アメリカは別の方法を選びました。アメリカは、その国民には人気は無くとも、アメリカが望むことをしてくれる人物を選んだのです。一体どういうことでしょう? 国民が彼を嫌うので、その人物は、ますます抑圧を強めた統治をしなければならなくなるのです。アメリカ合衆国は、そこでその人物を軍事的に支援しなければならなくなります。これはつまり、独裁者に対する反対勢力は、アメリカ合衆国に対しても反対勢力となるということです。怨念はつのってゆきます。究極的に爆発が起き、もともと最初に介入して打倒した政権よりもはるかに独裁的な政権が現れるという結末に終わるのです。

    エイミー・グッドマン:それで、1954年のグアテマラ・クーデターで、イランでモサデクを米国が打倒した一年後に、民主的に選出されたアルベンス大統領を米国が打倒しましたね。

    スティーブン・キンザー:モサデクがイランで打倒された後、クーデターを実行したCIA秘密工作員カーミット・ルーズベルトが、彼は実は初期の介入主義者であるセオドア・ルーズベルトの孫なのですが、ホワイト・ハウスに帰還して、アイゼンハワー大統領とダレス国務長官と他の外交政策チームのメンバーに要旨説明をしたのです。そしてカーミット・ルーズベルトは、後にその場面についてこう書いています。「要旨説明をしながら、ジョン・フォスター・ダレスの様子を見ましたが、彼はにんまり笑っていたのです。巨大な猫のように、彼は喜んでゴロゴロのどを鳴らしているように思えました。」 ルーズベルトはダレスが何を考えているかは知りませんでしたが、私はダレスが何を考えていたかわかる気がするのです。「これは素晴らしい! イラン政府転覆がいかに容易だったかというニュースを今聞いているのだ。つまり我々は外国政府を打倒する新手の方法を、全く新手の手段を手に入れたことを意味しているのだ。」と思っていたに違いありません。

    エイミー・グッドマン:でイランの場合はブリティッシュ・ペトローリアムでしたか?

    スティーブン・キンザー:イランの場合、モハメッド・モサデク首相が犯した罪は、究極的に、この介入を引き起こしたものは、石油会社の国有化でした。ですから、実際、この二つの状況は非常によく似ています。イランのモサデクもグアテマラのアルベンスも民族主義的な指導者で、いかなるソ連の影響に応えていたわけではなく、自国民の正当な要求に応えて、自分たちの天然資源から得られる富は、アメリカや、イギリスや他の外部勢力ではなく、自国民をこそ潤すべきだと決断したのです。

     エイミー・グッドマン:1954年からもう一つの9・11に至る1973年までの、ラテン・アメリカを見てみましょう。ヘンリー・キッシンジャーが民主的に選出された指導者を打倒した人物ピノチェトと握手をしている貴重な写真をお持ちですね。チリで何が起きたか、お話いただけますか?

      スティーブン・キンザー:チリは、色々な点でアメリカの基本的な原理を喜んで受け入れ、具現していた指導者を、アメリカが打倒して、アメリカ合衆国が主張するあらゆるものを軽蔑していた独裁者に置き換えたというもう一つの例です。アジエンデは民主的に選出された指導者でしたし、自称マルクス主義者でしたが、彼は終生チリの民主主義制度の枠内にありました。彼は国会の議長であり、上院議員でもありました。彼は完璧にチリの民主主義の一部になっていて、任期が終われば、おそらくはより保守的な誰かと交替して政権を去ったはずです。しかしアメリカ合衆国はそれが待てないのです。アメリカは、欲しいものは、後でなく、今すぐ欲しいのだという、性急さ、主張の反映です。

      チリでは、グアテマラ、イランと同様に、膨大な天然資源が外国企業によって支配されていました。チリの資源は銅でした。そして、そこで稼働していた二つの巨大アメリカ企業はケネコットとアナコンダでした。アジエンデは、二社のチリ人持ち分を国有化しようとしたのです。そこでこの二社はITTのようにチリで活動していた他企業同様、パニックに陥りました。連中はすぐさまホワイト・ハウスに出向きました。有力なチリ人ビジネスマンの一人でチリ最大の新聞社のオーナーはヘンリー・キッシンジャーに個別に話を聞いて貰う機会を得ました。ニクソンは即座に行動を起こしました。アジエンデが権力を握るという予想から、彼は非常に動揺したのです。

      そして、これは動機がどのように変身するのかというもう一つの例です。もしもアジエンデがケネコット、アナコンダや他のアメリカ企業を悩ますことがなかったなら、悩ませると脅かすことがなかったなら、そうした企業はホワイト・ハウスに異議申し立てをすることは無かったでしょう。けれども、一度連中が異議申し立てをすると、ホワイト・ハウスは連中の主張を喜んで受け入れ、ちょっとばかりそれを変形させたのです。米国はアメリカ企業保護の為という理由でチリに直接介入はしませんでしたが、ある政府がアメリカ企業を悩ませているという事実から、アメリカは、その政府は戦略的、政治的にアメリカ合衆国に反対しているに違いないと信じるに至ります。そこでそれが、個人的には本当のアメリカ企業擁護者ではなかったニクソンとキッシンジャーを、経済的と政治的の両方の理由の組み合わせだとこの二人が感じる行動に押し出した動機となりました。けれども介入は秘密裏に遂行され、ようやく数年後になって、どれほどこれが完璧なワシントン仕立ての作戦であるかを示す非常に大量の文書が出現したのです。

      エイミー・グッドマン:その写真は何でしょう?

      スティーブン・キンザー:ピノチェトとキッシンジャーが写っている写真は素晴らしいでしょう。クーデター後間もなく、一年か二年後に、キッシンジャー国務長官が米州機構の会合で演説するためチリにやって来ました。その演説で、人権と、人権の推進に関するアメリカの関心について、形ばかりの言及を多少しなければならなかったのです。けれどもその演説をする前日、キッシンジャーはピノチェトを内密に訪問したのです。その会合の記録がここに有ります。彼がピノチェトに言ったことの要点は「明日、人権について演説をする予定ですが、それは貴殿にはあてはまりません。どうぞ深刻に受け止められぬよう。我々はあなたを支持しますし、あなたが政権におられることを喜んでいるのです。」ですから、対チリ米国政策の公的な上面は、当時においてすら、アメリカが直接ピノチェトに内密に語ったこととは大きく違っていたのです。

      エイミー・グッドマン:ところで、スペイン語圏諸国のことにふれたので、プエルトリコに話を戻しませんか?

      スティーブン・キンザー:プエルトリコはもう一つの非常に興味深い例です。それはプエルトリコがスペイン領だったからです。しかし1898年、スペインの新しいリベラルな政権がプエルトリコに相当な程度の自治を与え、プエルトリコ人は大いにそれを信奉したのです。彼らはキューバ人がしたようにスペインの植民地統治に反乱していたわけではありません。しかも彼らは、イギリスがカナダに与えたよりもずっと大きな自治を与えられたのです。実際、選挙もありました。彼らはプエルトリコ自治政府を作り、スペイン統治という枠組みの中で、プエルトリコの政策の方向をかなり支配することができる予定でした。極めて先見の明のある指導者がいました。ルイス・ムニョス・リベラで、彼はプエルトリコの新首相になるはずでした。

      いわばキューバへの途上として、米国が侵略し、彼の政府はわずか一週間しか持ちませんでした。米西戦争はプエルトリコを目標にしたものではありませんでした。プエルトリコをアメリカに取りこむ意図はもともとありませんでしたが、プエルトリコは、たまたまそこにあり、また、取りこむことが可能であって、魅力的な国で、米国が支配したかった海路上にありました。そこで米国が乗り出して、本質的にプエルトリコ自治政府を押しつぶしました。アメリカはプエルトリコを軍政下に置きました。

      そして間もなく、それから数年間にプエルトリコで最初に起きたのは、コーヒーの小農園が乗っ取られ、巨大な砂糖プランテーションへの転換です。ラテン・アメリカでは、時にコーヒーのことを、貧乏人の作物と呼びますが、これはコーヒーならごく狭い土地でも栽培できるためで、一方砂糖はそうは行きません。そこで、四つの巨大なアメリカの製糖会社に明け渡すため、本質的に多数のプエルトリコ人が土地を奪われ、プエルトリコは1898年に自己統治を始めた極めて自信を持った新興国家から植民地状態、しかもそれから数十年、非常に貧困なものになってしまいました。

      エイミー・グッドマン:で、その後の年月に一体何がおきたのでしょう?

      スティーブン・キンザー:プエルトリコでは、長期的には事態はもっと悪化する可能性があったと主張することも可能だと思います。アメリカが長い時間の後、この国で起きたことに対して責任を取ろうと決めた介入の一つです。しかも、それには特別な理由がありました。キューバでのフィデル・カストロの登場と大いに関係があります。米国がカリブ海に悲しいほど貧しい植民地を所有しているという考えは、突然格好の良い物ではなくなったのです。キューバに対する、まずい比較対照でしたから。そこで1950年代と1960年代になってようやく、米国はプエルトリコを開発し、低開発国からアメリカが考えるこの国の20世紀前半の姿に引き上げようと試み始めました。

      エイミー・グッドマン:スティーブン・キンザーさんとお話しています。彼は『体制転覆:ハワイからイラクに至るまで、一世紀にわたるアメリカによる体制変革』(原題:Overthrow:America's Century of Regime Change from Hawaii to Iraq)の著者です。グレナダとパナマの話をしましょう。グレナダ、パナマで何が起きたかを見てから、そうですね、今日のイラクについて触れましょう。

      スティーブン・キンザー:アメリカによる外国政権打倒の歴史を、私は三つの時代群にわけました。一番目のアメリカによる外国政府打倒は、19世紀後半と、20世紀初期のことです。これはアメリカがあからさまに外国を侵略できた時期です。冷戦時代には、もはやそれができませんでした。そうすればソ連が反撃するかも知れないと恐れたためです。それが、密かに政府を転覆するため、アメリカがCIAを使った理由でした。しかしソ連が消滅すると、アメリカはもはやそうする必要が無くなったのです。そこでアメリカは、言うなれば元の政策、つまり外国政府を侵略することに戻ったのです。

      グレナダの状況は、グレナダ国内の極端に好戦的な過激派が蜂起して、自分たちの政治指導者を暗殺した時に始まったのです。数百人のアメリカの医学生が小さなグループでグレナダにいました。米国はごく容易に、医学生たちを避難させられた筈です。事実、新政権はアメリカにつけいる口実を与えないため、連中を外に出したがっていたのです。

      けれどもグレナダ作戦が行われたのは、より大きな世界政治の文脈中のことでした。アメリカ合衆国は依然としてベトナム敗北の屈辱からの回復過程にありました。そして実際、グレナダ侵攻が行われる直前の週末には、レバノンの米国海兵隊兵舎が爆破され、200人以上の海兵隊員の命が奪われました。米国は世界の中でとても無力だと感じていて、そしてアメリカは再び断固とした姿勢をとるようにするという公約でレーガン大統領が権力の地位についたのです。地域の指導者たちの何人かは平和的に解決したがっており、天然資源を何も持たず、水やガソリン等さえないグレナダの周囲を封鎖したいと思っていて、グレナダ危機を平和に解決する可能性はあったのです。グレナダはある種の地域的圧力には非常に弱かったでしょう。これはアメリカ合衆国には受けませんでした。米国がもう実に長いこと味わえていなかった、大きな軍事的勝利を得る好機であることを、レーガンと側近は即座に理解したのです。

      グレナダの全国民は、ローズ・ボール・スタジアムに収容できるのです。実に小さな国なのです。そこで、侵略の後、ごくごく僅かな費用でグレナダをカリブ海の沃野に変身させ、アメリカが介入した後で、何か良いことも起きることを示す希有の機会がアメリカにはあったのです。その費用は驚くほど些細なものだったはずです。人口わずか10万か12万人ですから。けれども、そうはせず、アメリカはグレナダに背を向け、次のプロジェクトに移ってしまいました。それでもレーガン政権の狙いはそれなりに実現しました。狙いはアメリカに勝利させるというものでした。あわれなほど小さな島に対する戦勝ではありましたが、海兵隊員が何か前向きなことをしている様子を見せることはできたのです。それが、アメリカがこの作戦を実行した本当の理由だったろうと思います。

      エイミー・グッドマン:さてパナマです。あなたは父ブッシュ元大統領が今やアメリカ合衆国の監獄にいるノリエガと一緒に写っている写真をお持ちですが?

      スティーブン・キンザー:アメリカがパナマに介入し、侵略したのはノリエガ将軍を打倒する為でしたが、パナマの章を書きながら私が発見したのは、ノリエガは30年間CIAから給料を貰っていたということでした。彼はいくつも罪を犯しています。その一部は麻薬輸出に関与したことですが、米国政府とCIAは長年このことをすっかり知っていたのです。彼はパナマを米国の軌道から抜け出させようとしていたのです。コントラ戦争を中米で実行しようというアメリカの計画の邪魔をしていました。中米和平交渉の一部だったコンタドーラ提案を覚えておられるでしょう。コンタドーラというのは、実際はパナマの島の一つで、この平和交渉の一部がコントラ計画の実行を駄目にする可能性があったのです。

      さらに、ノリエガは、パナマ人がアメリカ侵攻のわずか数日前に遂行しようとしていたクーデターで打倒できていたはずなのです。しかも、このクーデターを遂行しようとしていたパナマ人将軍は米国に通報していたのです。米国に、ノリエガに忠誠な連中がパナマに入るのを防ぐため、道路を幾つか封鎖して欲しいと頼んだだけですが。このクーデターは成功したでしょうけれど、アメリカは支援しなかったのですが、アメリカ人指揮官は後にその理由を説明しました。クーデターは、単にノリエガの打倒で終わっていただろうというのです。それでは極めて民族主義的なパナマ国防軍が無傷なままで残ってしまうはずでした。アメリカは単にノリエガだけ打倒したかったわけではないのです。アメリカは、アメリカの影響が及ばなくなり、民族主義的なパナマ国民の熱望をある程度反映するものとなっていた軍組織を丸ごと打倒したかったのです。しかもそれはパナマ人による介入によって見事に実現される結果ではありませんでした。

      エイミー・グッドマン:あと一分しかありません。でも当然今のイラクについてお話いただけますね。

      スティーブン・キンザー:ブッシュ大統領がおよそ二年前、イラク侵略を発表したあの日、ホワイト・ハウスの「条約の部屋」(トリーティ・ルーム)という部屋で、演説の練習をしていたのです。キューバとプエルトリコに対する支配権をアメリカに委譲するスペイン降伏の文書が百年以上昔に署名された、まさにその部屋でした。部屋の壁には、条約署名場面の絵が掛かっています。絵の中でウイリアム・マッキンリー大統領の巨大な姿が目立ちます。つまりブッシュがイラク侵略を宣言する演説を読んでいた時、マッキンリーは象徴的に、ブッシュ大統領の肩越しに見ていたのです。ブッシュが米国を外国政権打倒の時代に引きずり込んだのではないことを、マッキンリー大統領以上に良く理解できる人物などいないでしょう。米国は一世紀以上もそうし続けているのですから。

http://www.democracynow.org/article.pl?sid=06/05/08/1353206&mode=thread&tid=25

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